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Channel: 「詩客」短歌時評
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短歌時評133回 名古屋でシンポジウム「ニューウェーブの30年」をわたしは聞いた 柳本 々々

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2018年6月2日土曜日、名古屋。このシンポジウムは、加藤治郎さんの「ニューウェーブなんて存在するのか?」という問いかけではじまった。少なくともわたしのノートはそこからはじまっているのだが、たぶん今回のシンポジウムのひとつのキーワードは、〈ニューウェーブを前提にしない〉ということだったとおもう(以下は、わたしが当日ききながらノートに記したことでばちっと精確ではない箇所もあるかもしれない)。


ニューウェーブはこれなんだよ、これだったんだよ、と荻原裕幸さん、加藤治郎さん、西田政史さん、穂村弘さんの四人が後付けしていくのではなく、〈ニューウェーブってじつはぱっとつけられた名前があとでどんどん後付けされていったものだったんじゃないか〉ということを当時の実感とともに語ること。こういったニューウェーブに対する不信と実感が当日の語り口になっていたのではないかとおもう。


たとえば荻原さんはこんな発言をしていた。〈ニューウェーブは文学運動のために行ったわけではない。ニューウェーブはかたちのわからないもの、ずっと正体のない指標のようなもの〉だったと。


続いて西田さんのこんな発言があった。〈ニューウェーブは運動ではなく社会現象〉。


こうした、〈正体のない〉や〈現象〉ということばが、ニューウェーブのなにかを語ろうとしていたのが当日の雰囲気である。わたしたちは今もうそれが〈あったかのようなもの〉として語るけれど、当事者たちは、それを今なお〈あったもの〉として正面から語るのを避けようとするのがニューウェーブのニューウェーブ的ななにかを物語っている。


穂村さんはこんな発言をしていた。ニューウェーブという言葉は、さいしょはただ単に一般的なことば、単に「新しい動き」として新聞記事用にニューウェーブと言っただけであり、それがのちに前衛短歌として誤読されたのではないかと。もやもやっとしたものが偶然かたちになったのではないかと。


この、偶然、というものも当日キーワードになっていた。加藤治郎さんはそれを受けて、ニューウェーブ勘違い説、誤認説といっていた。つまり、ニューウェーブは偶発的にできたものなんだと。だから、ニューウェーブは事後的な事件なんだと。


当日、わたしがきいて、はっきり学んだふたつの事柄は、まず、ニューウェーブとは、前提や所与のものではなく、当時、ふたしかな《あいまい》なものだったということ、そしてそのふたしかなあいまいなものが《偶然》かたちになったということである。


あいまいと偶然。これが当時者たちが語ったニューウェーブだったのではないかとおもう。


わたしが当日はっきりと学んだのはこのふたつだった。だからこれからもしニューウェーブを語ろうとするなら、まずニューウェーブを所与のものとしないこと、どんなふうにそれが後から後付けされていったのかのプロセスに目を向けてみること、また、どの時点で偶発的にそれがかたちとして定まる瞬間がそのつどあらわれたのかそれに目を向けてみること。そのふたつが大事になってくるのではないだろうか。


わたしが話をきいていておもしろかったのは、ニューウェーブを語る際の外との葛藤・折衝である。ニューウェーブを語ろうとすると、かならず、〈短歌の外〉の話がでてくる。当日、ワープロなどの当時のメディア環境の話や高橋源一郎さんや吉本隆明さんの名前もあがったが、ニューウェーブは〈短歌の外〉とかかわりをもってしまう。ところが〈短歌の外〉とかかわりをもちながら、〈短歌の中に巣くう亡霊〉を同時に呼び起こす。これがニューウェーブが(ライトヴァースにない)いまだに語られようとする〈何か〉なのではないかとおもう。それは外とつながる短歌の出口であると同時に短歌を短歌としてどこまでもつなぎとめようとする桎梏である。


つまり、ニューウェーブを語ろうとすると、あなたの短歌の位置が問われてしまうのだ。加藤治郎さんは、ニューウェーブは、いろんな意識がじぶんの中にあることの発見だったと語ったが、それはニューウェーブを語ろうとするものにもあらわれるのだ。今も。


なお、ニューウェーブのジェンダー性も大事な問題で、当日、前で話されていた四人はいずれも男性であった(これは現代川柳のイベントでもよく起こることだが、時々、ふっと、はっとすることがある。こうしたイベントのジェンダー性というのは常に意識はしていてもいいとおもう)。ニューウェーブとジェンダーをめぐる問題はこれからの課題になっていくようにおもわれる。わたしも興味があってよくかんがえている。


最後にひとつだけ。まったく関係ないようであるようなきもするのだが、わたしは、穂村弘さんが、話のなかで、「よくねるまえにかんがえています」と発言されたのが、きになって、「穂村弘:よくねるまえにかんがえています」とノートに記した。帰りの新幹線で、「よくねるまえに」わたしがかんがえていることはなんだろうとかんがえた。文学についてだろうか、死についてだろうか、言えなかった「はい」についてだろうか。どんどん暗くなって、夜になっていく。墓の群がみえた。ごおっという音がした。静岡あたりだろうか。わたしはねむんないでそれをかんがえていた。

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