さくひん 「台風前夜、ぼくたちの肖像」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-09-01-19423.htmlひょうしゃ おさやことり
いわくらふみや さま
ゆめとゆめのいせきはどちらがきれいなのでしょう
えらばれなかったせんたくし
おこらなかったできごとが
いまここをてらしているのだとしたら
ざせつとうよきょくせつのなんてゆたかなことでしょう
そのばしょはきっとぶんきのてまえですね
すりつぶされたせみはくらいみらいのよかんのようなものでしょうが
ころがる
というのはすこしふしぎないいかたです
すりつぶされたものは
なんとなく
もうころがれないようなきがして
すりつぶされているじょうたいと
ころがっているじょうたいが
べつのみらいとしてしめされているかのようです
ぱられるわーるど
なんていってしまうとさすがにちんぷがすぎますが
よみすぎでしょうか
おんしんふつうになりたい
わたしもときどきそうおもいます
でもこのねがいをかなえるのはむずかしいですね
ほんとうにたちきりたいのは
じぶんからじぶんへのれんらくなのですから
だからきっとしんののぞみはべつにあって
それにとどかないはがゆさがもたらすことばなのでしょう
なみがほんとうはおとをもつように
とうめいによもうとするならば
かみさまはしをかくひとがきらい
ということになるのでしょうけれど
ひとりねのかみさま
というふじゅんぶつをついよみとりたくなります
かみさまもひとりでねているのだな
だから
しをかくひとがきらいなのだな
という
つながりそうにないけどつながりそうなろんりに
すこしひかりをくっせつさせてよんだほうが
よくひかるうたなきがします
しんでいるひとのかみがきれい
これがひげとかかつらだったらどうだったかな
とかんがえてしまいます
でもここではしんでることよりも
それをたにんとみていることで
なにかがきょうゆうされていることが
よりたいせつにされているのだとおもいました
ひげやかつらではこじんぷれーがすぎるので
おもいはひとつになれませんね
そういうところからもうかがえるように
なんにんかのひとたちのかんけいが
このいちれんにはあるようなきがします
たいとるにもぼくたちとありますからね
ぼくたち
ということばが
つぎのうたでいよいよとうじょうします
このことばとてもふしぎですね
たいふうのちかづくよるにひとりでいるのだから
たいとるも
ぼくのしょうぞう
がただしいようなきがします
もちろん
こうどなでんわきも
ぱそこんもあるじだいなので
(まさかじだいげきたんかではないですよね
せーらーむーんやとーますが
まあたらしかったじだいだったりして)
たいふうでこもっていてもでんぱがとぎれないかぎりは
だれかとでもつながりをもつことができます
でもはたして
そういういみでのぼくたちなんでしょうか
ひかってるね ぼくたち
というときのぼくたちはよこならびにおもえます
うしろにいてもいいです
とにかくおなじほうこうをむいているようなかんじがします
どあにかぜぶつかってるね
で
どあのほうこうがしめされているのも
そのいちいんでしょう
ですが
でんわきのらいんなどでつながっていたら
そのかんけいはむかいあわせになるんじゃないでしょうか
だからなんとなくですが
ぼくたちはおなじへやにいるようなかんじがするのです
あっ
でも
でんわしているあいてのあぱーとも
おなじかざむきにどあがあって
おなじようにどあにかぜがあたっていることのどうじせいを
かいているのだとしたら
あるいみよこならびともいえますね
ただかりにそうだとしても
そのときぼくがでんわをかけているそのひとは
なんとなくですが
ぼくじしんのようなきがして
けっきょくおもうのは
ぼくたちとは
ぼくぷらすたにんではなくて
ぼくじしんのふくすうけいなんじゃないか
ということです
これがもしすごろくならば
じゅういちますもどるという
てんしょんだださがりなじたいになりますが
はじめのほうのうたにもどってよみなおしてみると
またなにかのぞんでいるね
というときの
のぞんでいるしゅたいは
ぼくのようでいて
たにんのようでもある
ゆめのいせきのあるあぱーとも
ぼくのへやにもひとのへやにもよめる
ぼくからぼくがめばえ
あたらしいぼくがふるいぼくのへやをみている
そうよめばてんびんがつりあいます
めをあけてここはどこでしょう
というときのここも
ぼくのへやであって
たにんのへやであるかのようです
こわされたぱずる
ちきゅうぎ
せーらーむーん
ひとのへやのものをみるまなざしにしては
おもいいれのつよさがうかがえますし
でもじぶんのへやだとしたら
じぶんからかいり
したようなかんじがします
このうたは
てがきれいだとじぶんをほめる
うたと
ひとりでわらう
うたに
おせろみたいにはさまれて
やっぱりぼくはひとりなんだな
というげんじつをつきつけられながらも
だれかのけはいみたいなものをどことなくただよわせている
そのだれかがたとえじぶんのけはいだったとしても
そのけはいにぼくはまもられている
しょうぞう
ということばもだんだんふしぎにおもえてきました
いまここをみらいにのこす
といういしがそこにはあって
どうじにみらいからのてりかえしに
ときがいてついているようでもある
かわかないたおるのひとつがうんめいとよばれてた
この
ごびのかこけいは
みらいからのてりかえし
ではないかとおもうのです
みらいにむけられたひかりがみらいからかえってきて
そのひかりにいちれんが
うべなわれている
しゅくふくされている
でも
しゅくふくとじゅそは
ひょうりいったいかもしれません
たいふうのこえは
ししゃのこえににているようにおもうからです
だれもがししゃににているといううたがあり
しんだひとのかみのきれいなうたがあり
おしいれにだれかすんでたうたがあり
ておくれだからやさしいひとがたちがいるうたがある
みらいからのてりかえしによっていてついたじかんは
はじまりもおわりもなく
ひとつのじかんのなかにかこもみらいもふくまれて
どこまでもくうかんてきにひろがっていく
それをやぶるのはたしゃです
たしゃはじかんのいてつきをとかす
たとえばけいこうとうのくるい
というのも
こんとろーるのおよばざるをくるいとするのなら
ひとつのたしゃでしょう
たしゃがやぶれめを
ほころびをつくり
それがいやおうなくぼくがいきていることに
そしてしにむかっているということに
ちょくめんさせる
ぼくはひとりでうまれひとりでしぬ
たしゃは
ぼくがたんすうけいである
というじじつをつきつける
うみへいかなきゃというわけわからなきしょうどうも
うちにふくれあがるげんじつというものの
おぞましさにどうしようもなくなってでてきたことばなんでしょう
そうくちにするほかないことば
だからせっぱくせいをもつ
おんしんふつうになりたい
ということばもおもえばそうでした
でもせっぱくせいをもちながらも
いきたいばしょが
うみ
というのはいかにもありきたりなきがします
かってきたししゅうよまずにまちにくりだす
というさいごのうたもどこかでみたようなかんじがしますし
ほんとうはだあれもすきじゃない
という
にしゅめもすなおすぎるようなきがしました
べつにありきたりをわるくいうたんらくをおかすつもりはないのですが
このぼくにほんとうにからだがあるのかというぎもんがめばえます
しをかくひとびとのしゅうごういしき
みたいなものがうんだまぼろしではないかと
めかにずむでかんがえるならおそらく
ぼくをしょうぞうにしてぼくをみらいにつたえることで
みらいからのてりかえしをうけてじかんをいてつかせることのためには
ぼくをふくすうけいにすることがひつようで
ぼくをふくすうけいにするためには
ぼくのこじんてきすぎるぶぶん
とくしゅすぎるぶぶんははずしていくひつようがあった
つまりあんまりこじんぷれーをしすぎてはいけなかった
ぼくはふへんせいをまとうことでぼくたちになった
ということなのでしょう
なんて
めいたんていをきどってすいりしてみても
なれないさぎをしているようなきもちにしかならないですが
ともかくもこのいちれんは
わんだーよりしんぱしーによりすぎているとおもうのです
それはけってんといえばけってんなのでしょうけれど
ふくさんぶつのようにべつのおもしろさがあって
こじんにふへんがべたぬりされていることで
ふじゅんぶつがはっせいしているところなどは
ひじょうにきょうぶかいとおもうのです
いわかんをともないながらも
ひつぜんをまとったようなかおをしてそこにいる
ぼくたち
ちなみに
さいごからにしゅめがけっきょく
このにく
なのか
ねこのにく
なのかはさいごまでわかりませんでした
いんりつをかんがえるのなら
ねこ
なのでしょうが
そのばあいのさめたかんじにたいし
この
だったばあいの
なぞのおもいいれや
ね
というぶきみなごびは
とてもみりょくにおもいます
このようないみのふくすうせいも
きずといえばきずですが
きずにこそひかりがとどまるものなのではないでしょうか
こんごのごかつやくをおいのりします
つたないひょうでもうしわけありませんでした
おさやことり
いわくらふみや さま
ゆめとゆめのいせきはどちらがきれいなのでしょう
えらばれなかったせんたくし
おこらなかったできごとが
いまここをてらしているのだとしたら
ざせつとうよきょくせつのなんてゆたかなことでしょう
そのばしょはきっとぶんきのてまえですね
すりつぶされたせみはくらいみらいのよかんのようなものでしょうが
ころがる
というのはすこしふしぎないいかたです
すりつぶされたものは
なんとなく
もうころがれないようなきがして
すりつぶされているじょうたいと
ころがっているじょうたいが
べつのみらいとしてしめされているかのようです
ぱられるわーるど
なんていってしまうとさすがにちんぷがすぎますが
よみすぎでしょうか
おんしんふつうになりたい
わたしもときどきそうおもいます
でもこのねがいをかなえるのはむずかしいですね
ほんとうにたちきりたいのは
じぶんからじぶんへのれんらくなのですから
だからきっとしんののぞみはべつにあって
それにとどかないはがゆさがもたらすことばなのでしょう
なみがほんとうはおとをもつように
とうめいによもうとするならば
かみさまはしをかくひとがきらい
ということになるのでしょうけれど
ひとりねのかみさま
というふじゅんぶつをついよみとりたくなります
かみさまもひとりでねているのだな
だから
しをかくひとがきらいなのだな
という
つながりそうにないけどつながりそうなろんりに
すこしひかりをくっせつさせてよんだほうが
よくひかるうたなきがします
しんでいるひとのかみがきれい
これがひげとかかつらだったらどうだったかな
とかんがえてしまいます
でもここではしんでることよりも
それをたにんとみていることで
なにかがきょうゆうされていることが
よりたいせつにされているのだとおもいました
ひげやかつらではこじんぷれーがすぎるので
おもいはひとつになれませんね
そういうところからもうかがえるように
なんにんかのひとたちのかんけいが
このいちれんにはあるようなきがします
たいとるにもぼくたちとありますからね
ぼくたち
ということばが
つぎのうたでいよいよとうじょうします
このことばとてもふしぎですね
たいふうのちかづくよるにひとりでいるのだから
たいとるも
ぼくのしょうぞう
がただしいようなきがします
もちろん
こうどなでんわきも
ぱそこんもあるじだいなので
(まさかじだいげきたんかではないですよね
せーらーむーんやとーますが
まあたらしかったじだいだったりして)
たいふうでこもっていてもでんぱがとぎれないかぎりは
だれかとでもつながりをもつことができます
でもはたして
そういういみでのぼくたちなんでしょうか
ひかってるね ぼくたち
というときのぼくたちはよこならびにおもえます
うしろにいてもいいです
とにかくおなじほうこうをむいているようなかんじがします
どあにかぜぶつかってるね
で
どあのほうこうがしめされているのも
そのいちいんでしょう
ですが
でんわきのらいんなどでつながっていたら
そのかんけいはむかいあわせになるんじゃないでしょうか
だからなんとなくですが
ぼくたちはおなじへやにいるようなかんじがするのです
あっ
でも
でんわしているあいてのあぱーとも
おなじかざむきにどあがあって
おなじようにどあにかぜがあたっていることのどうじせいを
かいているのだとしたら
あるいみよこならびともいえますね
ただかりにそうだとしても
そのときぼくがでんわをかけているそのひとは
なんとなくですが
ぼくじしんのようなきがして
けっきょくおもうのは
ぼくたちとは
ぼくぷらすたにんではなくて
ぼくじしんのふくすうけいなんじゃないか
ということです
これがもしすごろくならば
じゅういちますもどるという
てんしょんだださがりなじたいになりますが
はじめのほうのうたにもどってよみなおしてみると
またなにかのぞんでいるね
というときの
のぞんでいるしゅたいは
ぼくのようでいて
たにんのようでもある
ゆめのいせきのあるあぱーとも
ぼくのへやにもひとのへやにもよめる
ぼくからぼくがめばえ
あたらしいぼくがふるいぼくのへやをみている
そうよめばてんびんがつりあいます
めをあけてここはどこでしょう
というときのここも
ぼくのへやであって
たにんのへやであるかのようです
こわされたぱずる
ちきゅうぎ
せーらーむーん
ひとのへやのものをみるまなざしにしては
おもいいれのつよさがうかがえますし
でもじぶんのへやだとしたら
じぶんからかいり
したようなかんじがします
このうたは
てがきれいだとじぶんをほめる
うたと
ひとりでわらう
うたに
おせろみたいにはさまれて
やっぱりぼくはひとりなんだな
というげんじつをつきつけられながらも
だれかのけはいみたいなものをどことなくただよわせている
そのだれかがたとえじぶんのけはいだったとしても
そのけはいにぼくはまもられている
しょうぞう
ということばもだんだんふしぎにおもえてきました
いまここをみらいにのこす
といういしがそこにはあって
どうじにみらいからのてりかえしに
ときがいてついているようでもある
かわかないたおるのひとつがうんめいとよばれてた
この
ごびのかこけいは
みらいからのてりかえし
ではないかとおもうのです
みらいにむけられたひかりがみらいからかえってきて
そのひかりにいちれんが
うべなわれている
しゅくふくされている
でも
しゅくふくとじゅそは
ひょうりいったいかもしれません
たいふうのこえは
ししゃのこえににているようにおもうからです
だれもがししゃににているといううたがあり
しんだひとのかみのきれいなうたがあり
おしいれにだれかすんでたうたがあり
ておくれだからやさしいひとがたちがいるうたがある
みらいからのてりかえしによっていてついたじかんは
はじまりもおわりもなく
ひとつのじかんのなかにかこもみらいもふくまれて
どこまでもくうかんてきにひろがっていく
それをやぶるのはたしゃです
たしゃはじかんのいてつきをとかす
たとえばけいこうとうのくるい
というのも
こんとろーるのおよばざるをくるいとするのなら
ひとつのたしゃでしょう
たしゃがやぶれめを
ほころびをつくり
それがいやおうなくぼくがいきていることに
そしてしにむかっているということに
ちょくめんさせる
ぼくはひとりでうまれひとりでしぬ
たしゃは
ぼくがたんすうけいである
というじじつをつきつける
うみへいかなきゃというわけわからなきしょうどうも
うちにふくれあがるげんじつというものの
おぞましさにどうしようもなくなってでてきたことばなんでしょう
そうくちにするほかないことば
だからせっぱくせいをもつ
おんしんふつうになりたい
ということばもおもえばそうでした
でもせっぱくせいをもちながらも
いきたいばしょが
うみ
というのはいかにもありきたりなきがします
かってきたししゅうよまずにまちにくりだす
というさいごのうたもどこかでみたようなかんじがしますし
ほんとうはだあれもすきじゃない
という
にしゅめもすなおすぎるようなきがしました
べつにありきたりをわるくいうたんらくをおかすつもりはないのですが
このぼくにほんとうにからだがあるのかというぎもんがめばえます
しをかくひとびとのしゅうごういしき
みたいなものがうんだまぼろしではないかと
めかにずむでかんがえるならおそらく
ぼくをしょうぞうにしてぼくをみらいにつたえることで
みらいからのてりかえしをうけてじかんをいてつかせることのためには
ぼくをふくすうけいにすることがひつようで
ぼくをふくすうけいにするためには
ぼくのこじんてきすぎるぶぶん
とくしゅすぎるぶぶんははずしていくひつようがあった
つまりあんまりこじんぷれーをしすぎてはいけなかった
ぼくはふへんせいをまとうことでぼくたちになった
ということなのでしょう
なんて
めいたんていをきどってすいりしてみても
なれないさぎをしているようなきもちにしかならないですが
ともかくもこのいちれんは
わんだーよりしんぱしーによりすぎているとおもうのです
それはけってんといえばけってんなのでしょうけれど
ふくさんぶつのようにべつのおもしろさがあって
こじんにふへんがべたぬりされていることで
ふじゅんぶつがはっせいしているところなどは
ひじょうにきょうぶかいとおもうのです
いわかんをともないながらも
ひつぜんをまとったようなかおをしてそこにいる
ぼくたち
ちなみに
さいごからにしゅめがけっきょく
このにく
なのか
ねこのにく
なのかはさいごまでわかりませんでした
いんりつをかんがえるのなら
ねこ
なのでしょうが
そのばあいのさめたかんじにたいし
この
だったばあいの
なぞのおもいいれや
ね
というぶきみなごびは
とてもみりょくにおもいます
このようないみのふくすうせいも
きずといえばきずですが
きずにこそひかりがとどまるものなのではないでしょうか
こんごのごかつやくをおいのりします
つたないひょうでもうしわけありませんでした
おさやことり