阿部完市は晩年「抽象俳句」という言葉を漏らした。言語が抽象ということに相似した出来事であるのは確かだが、詩、俳句作品で使われる多くの単語は具体的なものを指し示す。その点色の面と線によるフォルムが作る抽象絵画と並行関係にはならない。だが最近ミシェル・アンリの「見えないものを見る カンディンスキー論」(青木研二訳)を読み、二つを結ぶ考え方があるのを知った。
「描くことは見せることであるが、この見せることの目的は、人が見ておらず、人から見られることもあり得ないものをわれわれに見せることである。」
「具象絵画の主題は、美的体験の構成要素であったりその体験の訪れを促したりするどころではなく、そうした訪れを妨げ、極端にいえば許さないのである。」
「生が芸術と絵画の唯一の内容を形成することができ、また形成すべきであるのは、― その内容が抽象的で、目に見えないかぎりにおいてであるが―、生がそれ自体では決して対象ではないからである。」 では「いったい生はどのようにして芸術の中に存在しているか。抽象からの返答はこうである。つまり、それが存在するのは、われわれが絵の上に見たり見たと思ったりしているものとしてでは決してなく、そういうイメージが生じるときにわれわれが自分のうちに感じとるものとして、色とフォルムのもつ音色や基調色としてであり、絵とは両者を構成したもの[コンポジション]なのである。」
「絵画の」を「言語芸術の」「詩、俳句の」と置き換えて引用すると
「絵画(詩、俳句)の、あらゆる絵画(詩、俳句)の内容、それは<内部>である。それ自体目に見えず、目に見えないままであるほかなく、永遠に<夜>の中にとどまる生である。」
ということになる。そして私はミシェル・アンリによって書き変えられたカンディンスキーの等式
「内部=内在性=目に見えないもの=生=情念=抽象」
に従ったものとして詩に適用された抽象概念を理解する。そして一般論ではなく具体的な作品としての抽象詩、抽象俳句も、そのように理解し、その上で絵画における具象に相当するものを詩、俳句においては現実における具体的な事実、あるいは論理的な意味と私は考える。それを脱することが阿部完市が言った「抽象」になると思う。
前に引用した「具象絵画の主題は、美的体験の構成要素であったりその体験の訪れを促したりするどころではなく、そうした訪れを妨げ、極端にいえば許さないのである。」 を詩にあてはめると、何が書かれているか普通に分かる作品は美的体験の訪れを妨げ、極端に言えば許さない、ということになる。もっともこれは抽象詩以外の詩、俳句についてはちょっと極端な言い方かもしれない。具象のくびきを逃れたいという強い思いがミシェル・アンリにこのような言い方をさせたのであろう。しかし短い俳句は特にそうであるが、作品に具体的な事実や論理的な意味が生(なま)のまま入ってくると、確かにそれは詩を追い出してしまう。論理的な意味の破壊を徹底すれば、詩は全くうわ言のようなものになるであろうが、抽象詩は限界に近づこうとする。それは「言葉が通じる」ということの限界領域にとどまるということである。そこに抽象絵画と同じく[コンポジション] として抽象詩が存在する。
その、人から見られることがあり得ないもの、誰も一度も見たことがないものを表現した具体例として、「沈黙と沈黙の間」(2017年)に収録されたエッセイ「パーマーの初来日と朗読講演」で山内功一朗が紹介しているマイケル・パーマーのテクストを引用したい。これは彼が朗読用テクストを提供したダンス作品「スリッピング・グリンプス」公演に出演するダンサーたちへの呼びかけとして彼が書き下ろしたものである。15名への呼びかけの内、5名分は次の通りである。
手足の動きが軽やかな、頭からオークの樹が生えているハッサン
末っ子の七男坊、背中には翼の生えた蛇の刺青、無口なマッテオ
シナイ半島の娘、見つめる瞳に幾重ものベールがかかったミリアム
野良猫と会話し、私たちの街の路面電車やサイレンや秘密を悼むヴィジャイ
どんな質問にも四ヶ国語で答えられる女、本人の主張によれば両親はカメとカタツムリのパロマ
読もうと思えば喩で読める部分もあるが、この全体を寓意や暗喩(既に見たものの言い換え)で読む人は少ないのではないか。刺激としておかれた言葉を、すぐに既知の「説明」に結び付けようとはせずに、言葉が読み手の意識の中に広げる波紋に身を(意識を)任せる、という読み方をするのではないか。それが抽象詩に近づく唯一の方法であり、抽象絵画を見るときも同じようなことをしていると思う。
プラトンは詩人が行うミメーシス(模倣)を否定的にとらえ、詩人追放を求めた。それに対しジャック・デリダは「エコノミメーシス」(湯浅博雄・小森謙一郎訳)でカントの「判断力批判」を分析し、詩を芸術の最高のものとするカントにおいてミメーシスがどのようなものと理解されているかを明らかにした。
「判断力批判」の重要な言説は詩、言語による芸術を念頭においている。人は魅惑(篠田英雄訳では「感覚的刺戟」)を直接享受するのでなくイデア化することによって自分のものにする。フロイトが言うようにイデア化は喪、追悼の作業において起こることだが、美についても同じことが起きる。無私無欲なはずなのに、暗号化された言語活動の誠実さ、忠実さ、正真正銘な本来性により詩は意味の充満を保証し、私たちに真正な贈与をするとデリダは言う。
「<自分が話すことを聴くこと>は、それがやはりある種の口を経由する限りにおいて、すべてを自己―触発に変え、すべてをイデア化しつつ内部へと同化し、あらゆるものの喪=哀悼を行うこと(諦めること)によってすべてを支配=統御する。」
イデア化という過程、再構成の過程を経て、意識、無意識の全体を直観させる芸術作品が生まれるのだと私は思う。(デリダはそれを、快と認識の結びつきを太古の(記憶以前の)時代の無意識状態へと送りかえしている、と表現する。)すなわち誠実さ、忠実さ、正真正銘な本来性があれば、その「人から見られることもあり得ないもの」、誰も一度も見たことが無いものも、無意識状態を含む「全体」のミメーシスとなりうるのではないかと思う。(具体的な感情のできごと、信仰の信条、社会の事象に言及していなくても。)それはカンディンスキーが強調した作品の「神秘的な必然性」に通底することではないか。
ミシェル・アンリは「自己に関して生の味わう体験が根源的に<苦しむこと>であり、中略 <喜び>の中を<苦しみ>が通り過ぎるという永久運動なのである。こうした永久運動の実現でないとすれば、芸術とはいったい何であろうか。」と言う。破壊される前の現実は苦しみ以外のものではないが、抽象詩はカンディンスキーのように誰も一度も見たことがないものを見せ、「自己の情念を強化しつつその情念にもとづくことで見る能力を拡張してい」 こうとする。
しかし冒険的であるだけに、抽象詩は誠実さ、忠実さ、正真正銘な本来性の判断に困難がある。私が考える抽象詩に近いものとしてここに引用したくなる詩は何篇もあるのだが、どうしても誠実さ、忠実さ、正真正銘な本来性という基準に合致するとの確信に至らず、ここで引用できなかった。合致すると断言できるということは一部暗喩的なつながりが生じてきてしまっているということで、抽象詩を実現できているほど合致は曖昧になる。基準への合致を断言できないのは逃れがたいことなのだ。前に引用したパーマーのテクストは、実在する人物(ダンサー達)への呼びかけということで、重心の定まり、その誠実さへの信頼を得ているのだと思う。そして基準に合致していない作品は、単なる「おしゃべり」になる。
ジョルジョ・アガンベンは「イタリア的カテゴリー 詩学序説」で二十世紀の詩を決定づけている二重の不可能性を「・・・一方では、嘆きを語ろうとする、結局はおしゃべりに堕してしまう試みであり、他方では、語ることを嘆こう=告発しよう―ドイツ語のklageにおける「告訴する」という法的な含意においても―とする、結局は沈黙に帰してしまう試みである。」(岡田温司 監訳)と書いているが、抽象詩はおしゃべりとなるリスクに極めて隣接していると言わざるを得ない。しかしそれでも[コンポジション] としての抽象詩は、現実に沈黙させられることのないひとつの可能性だと私は思う。
「描くことは見せることであるが、この見せることの目的は、人が見ておらず、人から見られることもあり得ないものをわれわれに見せることである。」
「具象絵画の主題は、美的体験の構成要素であったりその体験の訪れを促したりするどころではなく、そうした訪れを妨げ、極端にいえば許さないのである。」
「生が芸術と絵画の唯一の内容を形成することができ、また形成すべきであるのは、― その内容が抽象的で、目に見えないかぎりにおいてであるが―、生がそれ自体では決して対象ではないからである。」 では「いったい生はどのようにして芸術の中に存在しているか。抽象からの返答はこうである。つまり、それが存在するのは、われわれが絵の上に見たり見たと思ったりしているものとしてでは決してなく、そういうイメージが生じるときにわれわれが自分のうちに感じとるものとして、色とフォルムのもつ音色や基調色としてであり、絵とは両者を構成したもの[コンポジション]なのである。」
「絵画の」を「言語芸術の」「詩、俳句の」と置き換えて引用すると
「絵画(詩、俳句)の、あらゆる絵画(詩、俳句)の内容、それは<内部>である。それ自体目に見えず、目に見えないままであるほかなく、永遠に<夜>の中にとどまる生である。」
ということになる。そして私はミシェル・アンリによって書き変えられたカンディンスキーの等式
「内部=内在性=目に見えないもの=生=情念=抽象」
に従ったものとして詩に適用された抽象概念を理解する。そして一般論ではなく具体的な作品としての抽象詩、抽象俳句も、そのように理解し、その上で絵画における具象に相当するものを詩、俳句においては現実における具体的な事実、あるいは論理的な意味と私は考える。それを脱することが阿部完市が言った「抽象」になると思う。
前に引用した「具象絵画の主題は、美的体験の構成要素であったりその体験の訪れを促したりするどころではなく、そうした訪れを妨げ、極端にいえば許さないのである。」 を詩にあてはめると、何が書かれているか普通に分かる作品は美的体験の訪れを妨げ、極端に言えば許さない、ということになる。もっともこれは抽象詩以外の詩、俳句についてはちょっと極端な言い方かもしれない。具象のくびきを逃れたいという強い思いがミシェル・アンリにこのような言い方をさせたのであろう。しかし短い俳句は特にそうであるが、作品に具体的な事実や論理的な意味が生(なま)のまま入ってくると、確かにそれは詩を追い出してしまう。論理的な意味の破壊を徹底すれば、詩は全くうわ言のようなものになるであろうが、抽象詩は限界に近づこうとする。それは「言葉が通じる」ということの限界領域にとどまるということである。そこに抽象絵画と同じく[コンポジション] として抽象詩が存在する。
その、人から見られることがあり得ないもの、誰も一度も見たことがないものを表現した具体例として、「沈黙と沈黙の間」(2017年)に収録されたエッセイ「パーマーの初来日と朗読講演」で山内功一朗が紹介しているマイケル・パーマーのテクストを引用したい。これは彼が朗読用テクストを提供したダンス作品「スリッピング・グリンプス」公演に出演するダンサーたちへの呼びかけとして彼が書き下ろしたものである。15名への呼びかけの内、5名分は次の通りである。
手足の動きが軽やかな、頭からオークの樹が生えているハッサン
末っ子の七男坊、背中には翼の生えた蛇の刺青、無口なマッテオ
シナイ半島の娘、見つめる瞳に幾重ものベールがかかったミリアム
野良猫と会話し、私たちの街の路面電車やサイレンや秘密を悼むヴィジャイ
どんな質問にも四ヶ国語で答えられる女、本人の主張によれば両親はカメとカタツムリのパロマ
読もうと思えば喩で読める部分もあるが、この全体を寓意や暗喩(既に見たものの言い換え)で読む人は少ないのではないか。刺激としておかれた言葉を、すぐに既知の「説明」に結び付けようとはせずに、言葉が読み手の意識の中に広げる波紋に身を(意識を)任せる、という読み方をするのではないか。それが抽象詩に近づく唯一の方法であり、抽象絵画を見るときも同じようなことをしていると思う。
プラトンは詩人が行うミメーシス(模倣)を否定的にとらえ、詩人追放を求めた。それに対しジャック・デリダは「エコノミメーシス」(湯浅博雄・小森謙一郎訳)でカントの「判断力批判」を分析し、詩を芸術の最高のものとするカントにおいてミメーシスがどのようなものと理解されているかを明らかにした。
「判断力批判」の重要な言説は詩、言語による芸術を念頭においている。人は魅惑(篠田英雄訳では「感覚的刺戟」)を直接享受するのでなくイデア化することによって自分のものにする。フロイトが言うようにイデア化は喪、追悼の作業において起こることだが、美についても同じことが起きる。無私無欲なはずなのに、暗号化された言語活動の誠実さ、忠実さ、正真正銘な本来性により詩は意味の充満を保証し、私たちに真正な贈与をするとデリダは言う。
「<自分が話すことを聴くこと>は、それがやはりある種の口を経由する限りにおいて、すべてを自己―触発に変え、すべてをイデア化しつつ内部へと同化し、あらゆるものの喪=哀悼を行うこと(諦めること)によってすべてを支配=統御する。」
イデア化という過程、再構成の過程を経て、意識、無意識の全体を直観させる芸術作品が生まれるのだと私は思う。(デリダはそれを、快と認識の結びつきを太古の(記憶以前の)時代の無意識状態へと送りかえしている、と表現する。)すなわち誠実さ、忠実さ、正真正銘な本来性があれば、その「人から見られることもあり得ないもの」、誰も一度も見たことが無いものも、無意識状態を含む「全体」のミメーシスとなりうるのではないかと思う。(具体的な感情のできごと、信仰の信条、社会の事象に言及していなくても。)それはカンディンスキーが強調した作品の「神秘的な必然性」に通底することではないか。
ミシェル・アンリは「自己に関して生の味わう体験が根源的に<苦しむこと>であり、中略 <喜び>の中を<苦しみ>が通り過ぎるという永久運動なのである。こうした永久運動の実現でないとすれば、芸術とはいったい何であろうか。」と言う。破壊される前の現実は苦しみ以外のものではないが、抽象詩はカンディンスキーのように誰も一度も見たことがないものを見せ、「自己の情念を強化しつつその情念にもとづくことで見る能力を拡張してい」 こうとする。
しかし冒険的であるだけに、抽象詩は誠実さ、忠実さ、正真正銘な本来性の判断に困難がある。私が考える抽象詩に近いものとしてここに引用したくなる詩は何篇もあるのだが、どうしても誠実さ、忠実さ、正真正銘な本来性という基準に合致するとの確信に至らず、ここで引用できなかった。合致すると断言できるということは一部暗喩的なつながりが生じてきてしまっているということで、抽象詩を実現できているほど合致は曖昧になる。基準への合致を断言できないのは逃れがたいことなのだ。前に引用したパーマーのテクストは、実在する人物(ダンサー達)への呼びかけということで、重心の定まり、その誠実さへの信頼を得ているのだと思う。そして基準に合致していない作品は、単なる「おしゃべり」になる。
ジョルジョ・アガンベンは「イタリア的カテゴリー 詩学序説」で二十世紀の詩を決定づけている二重の不可能性を「・・・一方では、嘆きを語ろうとする、結局はおしゃべりに堕してしまう試みであり、他方では、語ることを嘆こう=告発しよう―ドイツ語のklageにおける「告訴する」という法的な含意においても―とする、結局は沈黙に帰してしまう試みである。」(岡田温司 監訳)と書いているが、抽象詩はおしゃべりとなるリスクに極めて隣接していると言わざるを得ない。しかしそれでも[コンポジション] としての抽象詩は、現実に沈黙させられることのないひとつの可能性だと私は思う。