藪内亮輔『海蛇と珊瑚』を読む。帯には「第58回角川短歌賞を史上最高得点票で受賞した」という売り文句がある。期待して読み始めると冒頭「花と雨」に
傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へ出てゆく
というオーソドックスすぎるほどの一首が置かれている。「史上最高得点票」というから、どんなに凄いのかと思ったのに。或いは、短歌の世界はこういうものをいまだによしとしているの? 騙された思いがして気分が悪くなった。事実、後ろの永田和宏による解説を読んでみると「史上最高得点票」とは、「四人の選考委員が全員一致で選んだ」ということに過ぎないらしい。なんだ。。。僕は、ミートハンマーを持ち出してきて、上製本の4隅を潰し、1頁1頁丁寧に捲って各頁に銀色の鈍い刺に全体重を乗せながら激しく打ち続けたくなった。
しかしこの気分は、読み進めるうちに激変した。帯の誇大広告など不要な代物であることを感知した。そして残酷なまでの興味が湧き始めた。残酷?なぜ?それは「著者による短歌解体ショーの現場に否応なく立ち会わされている」からだ。短歌というジャンルそのものの解体。
詩は性器の上あたりで書くもの。
ほのひかり雨の性器がだれひとり追へぬ速度でねじきれてゆく
前書きによって支えられている短歌世界。ただ、解体レベルで言えばこれなどはまだ表皮に傷をつけた程度に過ぎない。129頁に出て来る「私のレッスン」と題された作品は、7頁に及ぶ散文詩のような、エッセイのような(それは吉増剛造を想起させる、小さな文字の伏流水までご丁寧に含んでいて……)、その中の所々に短歌が紛れ込んでいるというような形式を取る。なお、原文では引用4行目「高」「恋」には「コ」、5行目の「山」には「耶麻?」とルビが振られている
私のレッスン
これは私のレッスンです。これは死のフィクションです。これは詩のエクイエムです。
死詩死んでからが始まりなのです。はじめましょう私たちの死後の世界を。
私はけが(穢、怪我、毛が…)をした足を引きずりながら、山科は小野ノ(小町 ”The Other Voice
…。)に降り立ちました。毀れかけた(高、恋われかけた、)お天気のなかをゆき(逝き、行き、
…)ながら、ゆきの山より「出でて来」た(…北、北に、いや…)兎に出会いました。
そういえば、
日本には、S音と濁音がtもに入っていない名前は1%しかないらしい。
あなたとかわたしとか西野つかさにたくさんの花、悔やまないから
(冒頭部)
以上の引用で、約1頁分なので、これ以降、6頁、同様の散文形式が続く。引用の最後に至ってようやく所謂短歌形式のものが現れるが、散文に埋もれて直ぐには見つからない。ちなみに西野つかさとは、「河下水希による漫画作品。及びこれを原作とするアニメ等のメディアミックス作品『いちご100%』に現れるメインヒロインの1人」(らしい。「ピクシブ百科事典」https://dic.pixiv.net/a/%E8%A5%BF%E9%87%8E%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%95より)
ここにおいて完全に短歌の独立性は死んでいる。ここまで形式が破壊された経験を短歌の歴史は持たないのではないか。
しかしこの『海蛇と珊瑚』のミソは、解体後も元の短歌形式がなお、肉片がぴくぴくと生き物のように跳ねるように、或いはゾンビのように繰りかえし繰り返し蘇り、頁を満たしてゆくという点にある。「散文詩orエッセイ」が終わったあとには、
一通の手紙が光りつつ燃える朝にして銀の傘をひらきつ
という短歌形式がしれーっとまた再び、何事もなかったかのようにそこにある。(ちなみに、手紙・朝・燃える、、、はやはり吉増剛造の語彙なのだと思う)。骨から外されても、まだ生気を失っていないという衝撃。
しかし著者は、解体をなおも続ける。例えばこうだ。その後「何事もないかのような」一般的形態の短歌が2種続いたあと、またもや前書きのある歌が2篇続く。そして今度は、「あとがき」(と言うのだろうか)を有する歌が登場する。そのうちの1つが以下の作品。
永遠の月、永遠のてのひらに蝶をのせゐつ 死ねばはなびら
詩歌とはもはや死を語るための詐術の一種に他ならない。
私は窓枠の中に収められた庭のニガウリのごつごつとした表面を、雨が仄かに照らす
のを見る。
前履きやあとがきのある歌はその後も断続的に現れている。
そもそも「部立て」のようなもので、全体を括る行為が短歌(や俳句)の世界では一般的に行われている以上、完全に独立性を保っているとは言い難い。しかし、本書においては、過剰なほどにその点が繰り返し、破壊されようとしていることは明らかである。一首一首の独立性の放棄は、「前書き」「あとがき」以外にも、例えば176頁冒頭から現れる次のような二首の繋がりの仕方に見出すことができる。
蓮根を切つたら俎板まで切れた やうな気持ちで会つて罵倒して
そのあとセックスして寝た、原子炉が燃えてゐた。僕は手に取らうとした。
これらの短歌は単独でも読むことができる。しかし、2首繋いで、恋人同士が出会い、お互い深く傷つけあうようなシーンを想起させる上の句。に、続けて、例えば〈仲直りして「セックスして寝る」ことで、心の中に燃え続ける永劫に失われることのない熱い気持ちをよみがえらせた〉というような愛の物語を想像してみることも可能になる。独立性を放棄することで、物語の流れに依拠する別の形態の詩が蠢き始めているのに気付く。もうこれは、詩の方へと走り始めている。
本稿では短歌の形式だけのことを書いたが内容面でも、性的な内容が過剰に書かれていたり、会話のものがあったりする。ああ、短歌死んでるな、とまた思った。
満ち満ちる虚無と、それをカムフラージュするための軽み。そしてさらに言えば、そういう擬態すらとうに見透かされていることを充分意識することによって深まる憂鬱。それを読者にちゃんと伝えるためには、短歌形式そのものに囚われつつも捨てるという奇妙な模索を晒け出すしか方法はなかったのだろう。
短歌というジャンルが「書き手」によって解体され、さらに執拗に繰り返される解体ショー。
この歌集、いいじゃないか。
(2018年12月 角川書店刊 2,200円)