短歌のことをひさしぶりに考えてるうちに思考の流れで若林奮の「飛葉」のことに思いいたってわたしが理解してるかぎりでいま思い出しながらしるしてみると木の領域と人間の領域があり木の時間と人間の時間があってそれらは当然全然異なった流れ方をしていてしかしある時葉っぱが枝からたとえば風が吹いて離れると葉っぱが人間の領域にやってくる。若林は銅板で葉っぱを制作することをとおして葉っぱの時間と人間の時間とを重ねることなどが企図されていたのだったろうかそのようにしてそれら葉っぱのようにして時々不意打ちのように歌がわたしの領域に這入ってくることがあり短歌と詩というのも流れている時間も空間の在り方も異なっているけれどとはいえ樹木とそのかたわらにたたずむ人間のように隣接する領域に在って時々風が吹くとそれら時空間が交差してわたしらの知覚に振動をもたらせる。
そのようにしていま〈短歌の時間〉〈詩の時間〉という言葉を仮にここに置いてみた時それらはそれぞれの詩型が経てきた時間のことを指すのかあるいはそれらにふれたときにわたしたちの時間の知覚に作用するその仕方のことを指すのか。いずれかが長針でいずれかが短針であるとしたら、どちらがどちらということになるのだろうか。
峯澤典子さんの詩集『微熱期』について先に某処に書いた短い文章にてわたしは「多彩な詩のかたちをとりながら、幼少の眼差しと成熟した思考とが繊細に縒り合わされ、現れては儚く消えてゆく雪の一片一片のような柔らかい微熱の言葉が、私たちの記憶の奥底にまで届き、降り積もっていく」と記しているのだったけれどこの多彩な詩のかたちのなかには短歌も含まれていてそれは表紙にてタイトルの下にブルーのアルファベットの文字で記されている「BLUE PERIOD」の文字それは微熱期の言い換えであり詩集の本文では二篇目におかれた「ブルーピリオド」という詩篇のタイトルへとさらに変奏されてグラデーションのようにこの「ブルーピリオド」はさらに四つのパートにわかれていて「グラス」「カーテン」「アクアマリン」「ドロップス」さらに細かいグラデーションを奏でながら少しずつトーンを変えながら、「わたしもまた/生家の窓辺を離れ/幼年から老年へと/時間をかけて流れるうちに/ひと、といういきものは/永遠に/水辺の孤児でしかないことを/受け入れていった/生まれた日に授けられた/血の奥のあたたかな悔いを/すこしずつ確かめるかのように」と「グラス」をグラスの時間をのぞきこむようにして、そして「カーテン」がたゆたうように「あじさいの終わるころから/微熱がつづく母のかわりに/夏のくすりをもらいに/海のそばの診療所へ出掛けた」と幼年のほうへと感覚を遡行させていくようにブルーに溶けていくように、やがて最後の「ドロップス」では短歌の連作となっているのだけど一首一首に但し書きあるいはサブタイトルとしての(ブルーが微分されて)英単語が付されていてこの国の子どもでなくてもどこの国の子どもでもどのわたしのことでもかまわないというように、風が吹いていて(三首だけ、抜き出します)。
blue ink
風を抱きふくらむ胸にさすペンのインクがもれて夏ばらがさく
sea
さくさくとかじる氷にあわせ散る波の子どもに濡れる麦わら
sunset
老いるならまばたきをする瞬間の闇を知らない魚になりたい
*
この「詩客」で短歌評の連載をされていた詩人の平居謙さんがまさにこの「詩客」を契機にされたという詩集、歌集、句集、川柳作品集の四冊を同時刊行されてそのサイケデリックな表紙からもすでに漲っているその熱量に圧倒される。そのうちの歌集『星屑東京抄』の裏表紙の帯的なところに「世界初!詩集・歌集・句集・川柳集同時発売!!!爆狂せよ!」という文字(「時」の字は倒れ「!!!」と「よ」はひっくりかえっている)が見えるけれどまさに前人未踏のこころみで「四重奏」と謳っているもののそれぞれの集にそれぞれの詩型にて平居さんと縁のある各ジャンルで活躍するひとたちからの文章が寄せられていて(歌集『星屑東京抄』では巻頭に尾崎まゆみ氏の「緒言」)また平居さん自身によるそれぞれの詩型にまつわる論考等も収録されていて歌集に収録の平居さんによる「歌論 センチメンタル詩論 ―岸上大作ト寺山修司ヲ論ジテ我ガ短詩系文藝総観二至ル」では岸上大作と寺山修司の歌や言葉が引用されていて四重奏どころか交響曲の印象でしかも爆音で奏でられる。
四分冊の途方もない作品なのでまだその全容をつかみきれていないのだけれど詩型が分化されそれぞれ棲み分けられている特有の不思議さ(あるいは不自然さ)を有している詩をめぐるこの国の状況に一石というかバクダンを投じるというべき問題作でどの詩型にたずさわっているひともこの集集に触れて(先ずは自分がかかわっている集からでも)自分が寄って立っている詩型について再考したりあるいはその足もとがぐらつくおもいをさせられたりあるいはべつの詩型へといざなわれるかもしれない爆風でいっせいに枝から放たれた葉っぱが、となりの領域をかき乱す。
始めの「Ⅰ 東京星屑抄」は短歌のみだけれど「Ⅱ 街を歩けば」は散文+短歌のかたちをとっていてタイトルに示唆されているようにフィールドワークの作品のようだが「白鷹薬師町」という作品などはまさに散文と短詩型の融合作品で読んでいるうち遥か遡行する『土佐日記』だったり『伊勢物語』だったりのことがあたまをかすめつつこれは現代における紀行文学とみてよさそうで歌をつくろうとして町を歩いていると角をまがると町が異形の貌を見せ迫って来る自分自身の迷宮へと迷い込んでしまったというような写生的にして内省的である奇妙なねじれのある歌がつづくそのねじれだったり格闘の葛藤の泥臭さだったりにこの詩型の現在の主流への批評だったりあるいは自身が(あるいはそもそも人間が)作歌をするということそのものへの批評だったり諧謔だったりが見え隠れしているように感じられていずれにせよ「町」との闘いというかたちで表現(あるいは表明)されるそのある意味不毛でそれゆえあまりにも詩情漲る格闘から目が離せなくなっているうちにふいに目に飛び込んでくる、
団地前コンビニにまで行き着けば雲の白さよ空の青さよ
の白さや青さの全き余白に眩暈を覚えたり、
煙管屋の腐ったような看板に何故にはためく新しき旗
の旗のはためかす生命感に慄き戦慄したりして、
白鷹線その先にある人混みの一歩手前で風景を作り
のその風景があらゆる詩型の手前にある未分化の詩の原景としていまわたしの目に映っていて。