Quantcast
Channel: 「詩客」短歌時評
Viewing all articles
Browse latest Browse all 243

短歌時評182回 あるべき批評の役割とは 桑原 憂太郎

$
0
0

 

 今回は、二つの話題から、短歌文芸のあるべき批評の役割というのを考えてみたい。

 一つ目。
 枡野浩一の全短歌集『毎日のように手紙はくるけれどあなた以外の人からである』(左右社)が刊行された。
この刊行にあわせて「短歌研究」11月号は、「25年目の枡野浩一論」という小特集を組んでいる。
 この企画、筆者としては、枡野浩一の短歌についての本格的な評論を期待したのだが、読むと、穂村弘と土井礼一郎によるライトな論考と、12名の歌人による一首評だけで、ちょいと期待はずれ。それでも一首評からは枡野作品の多面性が分かったし、そもそも、短歌総合誌で枡野浩一を正面から取り上げたこと自体、挑戦的な企画であったといえよう。

 穂村によれば、枡野は歌人というマイノリティの存在のなかでもマイノリティの存在であるという。つまり、枡野浩一は「マイノリティの中のマイノリティ」(「短歌研究」前掲)というわけだ。そして、穂村は、「枡野浩一は常に共同体の外にいた」ともいう。
 確かに、穂村のいうように、歌人の集まる共同体に属さなければ、いつまでたってもマイノリティではあるだろう。歌人のほとんどは、結社や同人やグループに属し、そうした小さなコミュニティの中で様々な役割を持ちながら、広く短歌の世界の共同体の一員として存在している。なぜそういう存在になるのかといえば、歌を詠むのは一人の孤独な作業に違いないのだが、自分が作った作品を他者と共有するためには、他者とのかかわりが必要になるからだ。そうして、短歌の世界には、いくつもの結社とか同人とかグループとかが必然的に生まれ、それらは、共同体のひとつのパーツとして存在している、というわけだ。
 そんな共同体の外に枡野浩一はいた、という。
 だから、枡野浩一は、マイノリティだと穂村はいいたいのだろう。
 この穂村の主張、筆者もそうだとは思う。
 しかし、筆者は、それだけではないとも思う。
 枡野が歌人の中でマイノリティだったのは、枡野の短歌作品が、共同体の外での評価はどうあれ、短歌の世界の共同体内では批評するほどのものではなかった、ということも理由にあったろうと思う。

 例えば、今回の全短歌集のタイトルになった作品やその他の枡野の代表歌らしいものをあげてみる。

毎日のように手紙はくるけれどあなた以外の人からである
こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう
かなしみはだれのものでもありがちでありふれていておもしろくない

 こうした作品、改めて読んでみて、どうだろう。何かギクシャクした感じがしないだろうか。
 なんというか、若年者の心の中のつぶやきだったり、あるいは心の叫びだったりということはわかるけど、どうにも日本語としてこなれていないというか、たどたどしい感じがしないだろうか。
 こうしたギクシャク感がどこからきているのか、というと、端的にいって、定型に嵌まっている、という点にある。
 だいたい、私たちの心の中の叫びなり、つぶやきなりが定型にきっちり嵌まるわけがないではないか。にもかかわらず、ぴったり定型に嵌まっているからギクシャクしているのである。
 定型という器に、自分の言いたいことをむりやり嵌め込んでいる、といってもいいかもしれない。
 しかし、そんな自分のいいたいことを無理やり定型に嵌め込んでも、短歌とは呼べるかもしれないが、韻詩とはいえない。
 何がいいたいかというと、掲出の作品には、口語を韻詩へと変換するときの格闘がないのである。これらの作品は、韻詩ならではの韻律や調べを整え修辞や統辞を施して叙述する、ということに全く及んでいない。口語短歌が洗練していく歴史のなかでみられた、口語で発想された事柄を韻詩に変換して短歌定型になじませるように叙述する、という、口語を韻詩へと変換するときの格闘がないのである。
 
 であるから、これらの作品が、どんなに詠われている内容に読者が共感しようとも、韻詩としての叙述への格闘が見られない以上は、短歌文芸としての批評の対象にはならないのだ。
 枡野がマイノリティであった要因は、そこにあったと筆者は考えている。

 そうはいうものの、今回、全短歌集として改めて先の特集にある12人の一首評を読むと、枡野作品の韻詩としての魅力を、少ない紙幅のなかできちんと論じているのもあって、大いに注目した。

好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君
ある歌を思いださずにいられなくなる風景を写真に撮った
こまぎれの ゆめを いろいろ みた どれも かなった けれど ゆめ こまぎれの

 一首目。前掲の「短歌研究」の一首評で、阿波野巧也が「定型になぞって読んだときのリズムのよさがすごい」と評しているが、その通りと思う。定型を一度崩して、きちんと調べを作り直している。つまり、韻律を崩して、また組み直しているわけであり、そんな大胆な構成が素晴らしい。また、好きだった君への思いを、初句から、雨、日々と転がして結句に持っていくのもたいへん技巧的である。
 二首目。「ある歌を思いださずにいられなくなる風景」なんて、なかなか詩的ではないか。それを写真に撮ったというのは、こちらも詩的な喩としてとらえることができよう。こうした叙述は、自分の心の叫びやつぶやきをそのまま叙述したものとは、大いに異なっている。詩的な喩についてもっと突っ込んだ分析をすれば、口語の新たな可能性まで内包している作品ともいえるかもしれない。
 三首目。こちらも、韻詩の特性を利用して、口語の柔らかいリフレインを効果的に配置している。また、「どれも」「けれど」の配置もまた絶妙で、こうした細かな技法によって韻律の良さが加味されているといえるだろう。

 こうした枡野の作品については、現代口語短歌の優れた作品として、広く批評の俎上にあげてきちんと論じるべきであろうと筆者は考える。
 つまり、枡野短歌については、今回の全短歌集の刊行によって、売れているとか売れていないとかの評価ではなく、作品そのものの批評がなされることに期待したい。ここからが、批評の役割である。

 二つ目。
 同じく「短歌研究」11月号から。
「第十回中城ふみ子賞」が発表された。
 この賞は、中城ふみ子の出身地である帯広市や、デビューにかかわった短歌研究社などが主催し、隔年で開催されている賞で、今回で10回の節目を迎えた。また、今年は、中城ふみ子の生誕百年でもあるという。
 そんな記念すべき回の受賞作は、大黒千加「境界線」50首。
 大黒は、東京都在住で、かばん所属(受賞時)。
 連作の内容は、というと、中高年である女性が主人公の、バツイチ年上男性との恋愛を描いている。東京スカイツリーや谷中墓地や荒川が出てくるので、台東区とかそこら辺りが連作の舞台だ。そして、男性の十代とおぼしき娘のほか、マキタの掃除機、焼きまんじゅう、小松菜の味噌汁、池波正太郎などといった安っぽい、チープなアイテムで連作が展開されている。

とことこと各停電車で逢ひにゆく何度この川渡つただらう
君とともにある人生は楽しかりたとへば焼きまんぢうの輝き
君の娘の君を見上げて笑う顔吾を見て笑ふ君に似てゐて

 言うなれば、ありがちな辛気臭い中間小説のようなストーリー仕立てであり、文芸作品としてことさら目新しい設定ではない。だから、もしこれを原作としてテレビドラマにでもするならば、ストーリーも設定もあまりにもベタすぎて到底、映像化に耐えるものでもないだろう。
 しかし、短歌作品は、そもそもストーリーを追ってはいけないのだ。
 連作として、どんなにベタな内容だとしても、一首としての批評は別だ。

 一首目。「この川」のダイクシスに注目したい。この川と叙述することで、主人公は、各停電車のなかにいることがわかる。ちょうど川を渡った時の心情が叙述されているのである。そんな臨場感が生み出されているからこそ、初句の「とことこ」がいきてくるのである。
 二首目。口語脈のなかに、「楽しかり」と文語が混じることが、韻詩特有の表現。こんな大胆な叙述は、現代口語短歌以外の文芸では絶対にありえない。俳句でも、川柳でも、小説も何もできやしない。短歌ならでは、そのなかでも、現代口語短歌ならではの叙述である。こうした、叙述が許容されているのが、現代の短歌なのだ。さらに、「楽しかり」と3句終わりを文語で切ったことで、韻詩としての落ち着きが生まれている、ということもいえるだろう。
 三首目。要は、男性の娘が男性を見て笑う顔は、男性が主人公を見て笑う顔に似ている、といっているだけのことで、こうやって散文に変換すると、面白くも何ともないただの読みにくい叙述になるのだが、韻詩として叙述することで、実に面白い叙述となる。こうしたところが韻詩としての大きな魅力なのだ。すなわち、散文では何ということもない叙述も、韻詩に変換することで韻律や調べが生まれ、韻詩として短歌特有の面白さを味わうことができるのである。

 このように、短歌作品を批評するには、小説や脚本の批評の仕方とは違う、短歌ならではの批評の仕方があるのだ。そして、そうした短歌ならではの批評をすることで、短歌文芸ならではの良さを知らしめることになるわけであり、それこそが短歌文芸のあるべき批評の役割と考えるのである。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 243

Trending Articles