作品 阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」へ http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-05-06-18435.html
評者 安田百合絵
どことなく春のけだるさを帯びていながら、ただ物憂いだけではなく、一首単位で見ても、連作単位で見ても、不思議な割り切れなさが残る。というより、一見さらっと読めてしまうようでいながら、案外難しい連作だという印象を受ける。
そうした読後感はおそらく、十首のなかで様々な時間が交錯していることから来ているように思う。この〈時間〉という要素に注目しながら、自分にできる範囲で連作を読んでみたい。
父親とラッパの写真 父親は若くなりラッパを吹いている
最初の一首は、すなおに読めばそのまま歌意をとれる。アルバムでも眺めているのか、作中主体は父親の写真を見ているようだ。そのなかで若い父親がラッパを吹いているというのである。ただ、「父親とラッパの写真」という把握は、どことなく奇妙にうつる。「父親とラッパ」として、父とラッパが等価に並べられている。しかも父は「若くて」ではなく「若くなり」、ラッパを「吹いていた」ではなく「吹いている」。若くなり、という遡行的な意識、そして吹いているという現在時称の使用に注意しなければならない。おそらく作者は、写真を眺めているうちに、過去と現在を隔てる時間の感覚を失ってしまったのだろう。あたかも自分が過去に遡って「若くなった」父親を眺めているかのような、不思議な時空間が演出されているように見える。
そしておそらくは、すでに見てきたこの時間の逆行に対抗するのが、「父親とラッパの写真」という奇妙な描写であって、父親というきわめて自分に近いはずの人物をラッパと同じようなマチエール(素材・物質)として捉える醒めた意識が冒頭に示されることによって、意識はかろうじて「現在」に係留され、現在形の使用が正当化される。写真を眺めているというだけの歌のように見えながらも、過去の時間、現在の時間、遡行的な時間意識、という要素が幾重にも折り重なっている。
プリンぐちゃぐちゃにぐちゃぐちゃにかき混ぜる 桜の過去のきみに会いたい
この歌では、よりストレートに時間の重層性が表わされている。「桜の過去のきみ」という表現はレトリカルで、読者に失われた時間のことを思わせずにいない。プリンをかき混ぜることが何を意味するのか、明確には分からないものの、「ぐちゃぐちゃに」を二度も重ねてかき混ぜられているプリンは、現在の不如意さを際立たせているようだ。その現在から、「桜の過去」が照射される。桜の咲く季節に「きみ」と会った幸福な時間を思い返しているのだろうか。「桜の過去のきみ」という入り組んだ表現のあとに「会いたい」というストレートな願望が置かれ、切ない読後感が残る。
さびしさはしかたがないということの中にあるいてゆく烏骨鶏
二首目の「桜の過去のきみに会いたい」を引き継ぐようにして、三首目には「さびしさ」が現れる。この歌もきわめて修辞的だ。「さびしさはしかたがない」と全てひらがなで書かれている二句目までは、おそらく作中主体の心情なのだろう。「さびしさはしかたがない」という、諦念と投げやりな気持ちがない交ぜになった心情のうちに景色を眺めていると、歩いてきた烏骨鶏が視界に入ってくる。強いて解釈するならこの歌はそのように読むこともできるだろうか。結句で登場する烏骨鶏はいかにも唐突だが、やや異様にも思えるこの対象によってのみ主体の意識は外界につながっている。主体を支配しているのは、しかたがないと思いながらも自分の身から離れない「さびしさ」であり、そうであるからこそ、「さびしさはしかたがないということの」という危うい上句が成立するのだろう。主体にとってそこにあるのは景色ではなく、「さびしさはしかたがない」という思いだけなのだ。
片寄ったけれどたいした問題じゃなくお弁当あたためている
四首目以降、さらに日常の光景の描写が続く。こうした歌においては、普段は様々な想念に埋没して気づかれることのない、主体の意識がかすかに灯る瞬間が写し取られているように思う。「片寄ったけれどたいした問題じゃなく」という意識が「お弁当をあたためる」という行為を照らし出す。お弁当をあたためるのはおそらく電子レンジなどの機械なのだが、「たいした問題ではない」というおおらかさまでがお弁当をあたためることに寄与しているかのようだ。
こころゆくまで郵便局の入り口にさかさに置かれてるカップ酒
「こころゆくまで」から始まる五首目は、かの有名な「シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい」(斉藤斎藤)を喚起せずにはいない。ただ、斉藤斎藤の歌の誇張するような「心ゆくまで」とは違って、この歌の「こころゆくまで」は「カップ酒」を受けており、日常に溶け込んでいる。このカップ酒は長い時間そこに置かれているのだろう。ともすれば、荒廃した景色といった印象を与えかねない捨てられたカップ酒を見つめ、それを「こころゆくまで」置かれている、と表現する主体の意識に読者は少し救われたような気分になる。春と郵便局といえば「春あさき郵便局に来てみれば液体糊がすきとおり立つ」(大滝和子)の歌が思い浮かぶが、郵便局とカップ酒のとりあわせも不思議で心に残る。
三匹の犬がこっちを見つめてる 茶色いやつがいちばん見てた
この歌も、あまりにも歌意が明快にとれるのでつい見過ごしてしまうが、上句の「見つめてる」から下句の「見てた」へと自然な移行がなされていることには注意を喚起しておいてもよいだろう。「見つめてる」の時点では、主体は犬に見られているのだが、「見てた」の時点で展開されているのは主体の回想(「茶色いやつがいちばん見てた」)である。一字空けを隔てて、描写の時間から回想の時間に、時間の質が一気に変容する。それにともなって、読者はそれと意識しないまま、風景の描写から主体の感想へ、客観から主観へと自然に導かれ、下句で読者は親密な空間に招き入れられる。この時間の質の移行が(読者自身にも気づかれないほど)あまりにも自然になされているので、それだけにいっそうこの親密さの導入は成功しているように思われる。
なんとなく片手に載せてさしだした豆菓子をきみはもらってくれた
この歌に「たよりになんかならないけれど君のためのお菓子を紙袋のままわたす」(永井祐)を思った。おそらく作者の脳裏にもこの歌は意識されていただろう。どちらの歌も、お菓子を渡すというさりげない行為のうちに、「きみ」と作中主体の距離が浮かびあがるようになっている。「もらってくれた」という表現からは、その裏返しとして「もらってくれなかったかもしれない」可能性が示唆され、それと同時に受け取ってくれたことで「きみ」との関係性が改めて確認できたような安堵感も伝わってくる。「なんとなく」片手に載せてさしだすという日常のさりげない振舞いが描かれているのだが、ここでもやはり「もらってくれた」という結句によって主体の意識が照らされる。
充電器を持ってでかけた一日のつけたり外したりたのしいな
八首目は解釈が難しい。歌意は解きほぐすまでもなくストレートに読めるものの、充電器をつけたり外したりする一日が「たのしい」と言われていることの意味を考えるとよく分からなくなってくる。つけたり外したりしているのは、スマートフォンなどの電子機器の充電器だろう。繰り返し充電して使うことが必要なほど多忙な一日だったのだろうか。「たのしい」はあるいは、「日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」(永井祐)にあるような、皮肉な「たのしい」なのかもしれない。いずれにしても、充電器を抜き差しするという、本来的に「たのしく」なりようのない行為を記述したあと、それを「たのしいな」とあっさり総括してしまう主体の意識を読み取ることが要請されているのだろう。
フジカラーの緑のベンチふたつみてずっとその後見かけて座る
九首目、「三匹の犬」と並んでタイトルになっている「フジカラーの緑のベンチ」が登場する。特段に見た記憶がなくとも、フジカラーの緑のベンチ、と聞くと、すぐに古色蒼然としたくたびれたベンチの姿が浮かんでくる。この歌も時間の流れが複雑な歌であるように見える。ふたつみて、まではよいとして、「ずっとその後見かけて座る」という表現は普通の日本語ではない。ある時点で、作中主体は(おそらくは普段通りなれているはずの道に)フジカラーの緑のベンチがあるのを発見したのだろう。気づくことによって、フジカラーのベンチは作中主体にとって風景から浮かびあがり、その意味で風景に溶け込むことのない特別なオブジェとなる。だからこそ、その後はそのベンチを「見かけ」るたびに、「ずっと」何度でも座り続けることになる。そう読むならば「ずっとその後見かけて座る」は、「ずっとその後(も、それを)見かけ(るたびにそれを意識し)て座る」ということになるだろうが、その習慣を「ずっとその後見かけて座る」という(これもテクニカルな)表現として結句に置くことが、不思議な印象を作り出している。
過剰な飛躍なのを承知で敢えていえば、この歌は愛の喩としても読みうるのかもしれない。風景や集団のうちに要素として溶け込んで、もしかしたら一生気づかないままだったかもしれない誰かを、ある日ふとしたきっかけで目に留め、ほかのものから切り離して、対象として眺める。そのことが「愛着(attachement)」を生み、それはやがて「愛」になる。フジカラーのベンチというごく些細なものに視線を注ぎ、それに愛着を覚えるようになる一連のプロセスは、その意味では愛が生まれる過程とそのまま重なっているようにも見える。
割り箸と空気が絡み合っているきみが帰っていったそのあとも
連作の掉尾を飾る歌には、三度目の「きみ」が登場する。きみが帰っていったあとの様子が描写されているのだが、ここで作者は「割り箸と空気が絡み合っている」という不思議な表現を選んでいる。本当は割り箸しか見えないはずなのに、割り箸と空気が絡み合う不可視の光景をあえて現前させることで、この一首にはどことなくなまめかしさが漂うと同時に、やはり時間の流れを濃密にあらわすことになる。割り箸がおかれているだけの情景はいわば静物画だが、そこに見えない空気との絡み合いを(文字の上だけでも)描くことで、その風景は活きたものとなって時間の流れを身にまとう。
「きみ」がそこにいるときも、その箸で食事をしていたときも、その箸は空気と絡み合っていた。「きみが帰っていったそのあとも」割り箸と空気が絡み合っているのと同じように。それでも、きみが帰って一人になったそのあとに、はじめて作中主体は割り箸を意識し、それが空気と絡み合っていることを意識する。「きみ」の不在を埋めるかのように呼び出される「空気」の透明さは、よるべなく切ない。
大辻隆弘は『近代短歌の範型』中の評論「多元化する「今」——近代短歌と現代口語短歌の時間表現」において、「近代短歌の叙述」が「作者を「今」という固定された一つの時間の定点に立たしめることによって成立して」おり、様々な過去時称をあらわす助動詞を駆使して、現在という一点を基軸に様々な複雑な過去を帯びた現在を表すことができるのに対して、現在の若手歌人の口語短歌では「時間の定点が一箇所に固定しておらず、それらの「今」を作者自身が移動することによって一首の叙述を形作ってゆく」とする。そして、その差異の原因として「現代短歌における過去を表す助動詞の貧困」を挙げ、さらにもっと根本的に、それは「一瞬一瞬、様々に変化する生き生きした「今」をできる限り正直に記述しようとしている」からなのだろう、と述べている。大辻が挙げている永井祐らの例は説得的であり、全体の論旨としても明快で、もっともだとうなずける論考だと思う。
けれども、この連作をこうして見てゆくと、口語短歌には「生き生きと明滅する「今」を記述する」だけでなく、存外「彫りの深い」時間性の表出も可能なのではないか、というような思いがきざしてくる。一首目の(ほとんどロラン・バルトの『明るい部屋』に重ねて読みたくなるような)父親の写真の歌には、たしかに動詞の時称としては現在形しか使われていない。その意味では主体の厚みをもった過去が歌のなかに含みこまれているわけではない。けれども、そこで現在の作中主体が経験している時間は、父親が「若くなり」「ラッパを吹いている」という現在なのであり、彼は自分がまだ生まれていなかったかもしれない過去に遡行してその時間を束の間呼び戻している。この現在は、単なる現在ではなく、歴史的な過去でもなく、呼び戻された過去を生き直す現在というよりほかない現在である。
あるいはフジカラーの緑のベンチの歌も、使われているのは現在時称だけだが、技巧的な表現によって、意識の明滅の連続とは違う時間がここには示されていると言えないだろうか。現在形が使われていても、それはいわば見かけ上の現在形にすぎず、ふたつみて、に続く「ずっとその後見かけて座る」には、現在の積み重ねという以上の厚みがある。意識は、ベンチを二つ見たという過去、見るたびにそれに座るようになったという習慣的過去(あるいは過去と現在)、それを記述する現在、といういくつもの地点を(現在の意識の連続としてというよりは)ベンチに目を留め、腰掛ける習慣がつくまでの長い時間の流れを現在の地点から愛おしむようにして描いているように思う。
むしろ、父親とラッパの歌などに見られる現在形は、「現在」「今」という意識自体をラディカルに問い直すものであるとも言えるだろう。同人誌「羽根と根」の連作中に「きみがケトルでココアをお湯に溶かしてる 瞬間はなみだの加加速度」(阿波野巧也「たくさんのココアと加加速度」)という歌があったように(ちなみに阿波野が連作冒頭に引いているWikipediaの記事によると、加加速度とは「単位時間あたりの加速度の変化率」だという)、もとより阿波野は時間の感覚にとても敏感な歌人である。そうした瞬間や現在への鋭い意識は、この連作では確かな技術に支えられ、「きみ」や父親、公園のベンチといった具体的なオブジェをきらめかせている。