キャシーのために 柳本々々
中家さんの連作タイトルは「離さないで」。詞書にも「お前はほんとうの花ではないこと」と書かれているがこれはカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のオリジナルとコピーのテーマを想起させる。
飽食の時代の宝飾店のカフェ グレーのスーツの男ばかりだ
「飽食」=「宝飾」の時代という表面的な価値観があふれる世界に、色をうしなった「グレーのスーツの男ばかり」がコピーのように現れる。
そういう世界のなかで、《離さないで》と訴えかけることはどのような力と無力をもつのだろう。
ringoって書いてあるから林檎だとわかる真っ赤な〇の記号は
無意識に選んでいるんだ、炭酸の気泡の音か雨の音かを
ひとつは、微細な眼と耳の感覚をもつことだ。語り手は、「ringo」と「林檎」の差異に注目からそこからそのリンゴが「○」に結びついていくプロセスに注目している(ちなみに「○」は中家さんのひとつのテーマとなっている。○は、生へのうずきだ。参照:歌集『うずく、まる』)。または「無意識」の「音」が、意識上の「炭酸の気泡の音か雨の音か」に分別されてゆくそのプロセスを意識化しなおしている。
これは、微細な意識のひだにわけいっていくことである。無意識と意識の往還をたどるように意識しなおしながら、〈わたし〉の認知がうまれる現場を歌にする。それはわたしが〈そのようにして〉世界とむきあっていたことの小さな〈証拠〉になるはずだ。
カズオ・イシグロの語り口の特徴は、それがたとえ信頼できなかったとしても、ミスリードにあふれていたとしても、〈想起〉にあるが、その物語としての〈長い想起〉とは、認知がたえず波のようにあらわれる現場そのものでもある。
火葬なら灰があなたの体温と同じになれる瞬間がある
灰とあなたは「同じ」になってしまう瞬間があるが、しかしその「同じ」になる瞬間そのものを〈わたし〉は認知として意識している。
かさねられ母音に打ち消される子音 異国の言葉で囁いていて
かさねられ〈同じ〉にかきけされようとしても、わたしは「異国の言葉」としての声をもとめる。
離さないで、とはそうした認知のひだを言葉をとおして〈生まれ直す〉ことなのではないか。
わたしたちは、語り直し、生まれ直すのだ。たえず。『わたしを離さないで』のキャシーのように。わたしが・わたしを・離さないために。