二度と会わないつもりで、評は書く。その後誌上で、ときには何かの会場で、出くわしニ三、会話をしてもこれが前段の〈二度と〉を守れなかったことにはあまりならない。残像とは「会った」ことにならないし、更新や変遷の済まされた、者との再会は「はじめまして」だから、最初の〈二度と〉だけがほんとうに大事だ。かつて中山俊一へはそういった評を書いたおぼえがあるし、それは彼に対してのみ行ってきたことでもない。読める形でどこかに置かれてはいない、ものまで含めれば千種創一、木下龍也、岡野大嗣、恋をしている、丸山るい、「加子」時代の加賀田優子、田丸まひる、山田航、岡本真帆‥‥。 最近だと睦月都。また会える、を心待ちにしながらこれは〈二度と〉かもなぁ、と振り返る夜や歌人がある。逆の立ち場での同じこと、もぜんぜん起きているだろう。
みんなしてぼくを そうした薄膜の青春を脱ぐときの万歳
中山俊一『ヌード』(以下、出典の明記のないものは全て同作)
から始まって、
かなしい話の終わりにあなたは「ちゃんちゃん」と添えて笑った夢に降る雪
で終わる『ヌード』を僕は、普段遣いな言葉で言えば〈大学デビューした人が、「これでよかったんだろうか」を思うまで〉の季節、を書いた一連として読んだ。どこから僕はこうなっていったんだろう、という内省から動き出す『ヌード』前半には、【セミヌード】【ヘアヌード】にわかりやすい〈はだか〉を表す語句が散見される。
トランプを半裸で切って春の夜にひとまず並べた。ひとりの手品
注目するのはまず【半裸】であり、しかしすぐに【ひとまず】や【ひとりの】などの展開性、を含む語句へ目がいく。中山がどれだけの他者をその【手品】で巻き込めたのか…と追っていけばひとまず一連には【あなた】がいる。一連の外においては‥‥と邪推すればそこには第一歌集『水銀飛行』(2016年・書肆侃侃房)の良き読者たちがいるだろう。その者たち、の目で読んでいく『ヌード』は、やはり従来からの中山俊一観を覆さない端正さを持っている、一連に見える。
ひどく傷付いたんだねテレヴィジョン点けよう明るく愉しいはずさ
しかしそれは【みんなして】彼を、そう見つめたい気持ちが我々の裡に浮かばせたかりそめの像ではないのか?【だね】や【はずさ】に、言い差されている口調や情景、以上の空疎さを僕は受け取る。『ヌード』には語句の使用頻度、レベルの話でいうとたったの一度しか【あなた】が出てこない。
そして同じ数、【だれかと】が出てくる。
賑やかなことの淋しさふたり観る『さんま御殿』の後の立食
短歌の中でしばしば起こるふしぎなこと、のひとつに、「比喩されるまえのもの」(この場合【賑やかなことの淋しさ】)が、「比喩されたもの」(この場合【『さんま御殿』】【の立食】)によって浮かび上がるとき、その詩的「発光」と「消灯」が同時に行われる、というものがある。比喩にハッとさせられたうえでこの歌を成功していない、一首であると判断するのは、この歌には構造「しか」ない……からだと思う。極論を言えば、
賑やかなことの淋しさふたり観る『さんま御殿』の後の立食
を読んだとき体感的には
『さんま御殿』の後の立食ふたり観る『さんま御殿』の後の立食
を言われた、のと同じことが起きたような気がする。つづいて体感は、素朴な「構造」の話を離れて、一首を生成した「作品世界」の空疎さ、楽しくなさそうな感じ、に続く。『ヌード』世界において【ぼく】や【あなた】は、『ヌード』世界に倦んでいるように感じられる。そのような作品世界において、登場人物が(そして「創造主」が)いちばんしてはならないことに「過剰に」事物を喜んでみせる、というものがある。
おでんには色んなかたちの具があって愉しい冬の晩酌だった
書かれてあることをそのまま受け取る、ならばここにあるのは単に素晴らしき人生のワンシーンだ。しかし「そのまま受け取ったほうがいいこと」は「そのまま書かれてあるもの」の形で投げ出される、べきではないという強い反感がある。これは多分に、その文体に因るものだろう。
なめらかにくぼんだ石の箸置きが指にやさしい飲み会だった
山本まとも『デジャ毛』(2014'09「短歌研究」)
おそらく『場のディティール描写』+『だった』という文体が連れていくのは、こういった歌へ持ってしまうような体感なのだ。それはとりもなおさず、「あはれ」なワンシーンを「多幸感」として書きあげようとした際に起きてしまう詠み/読みの悲劇だ。
そして「あはれ」は、どちらかというと「ちゃかし」の処理との親和性が高い。
『ヌード』において書き出せているのは多幸感ではなく、「ちゃかし」であるように思う。
卒業の塗り潰されてゆく写真■■■渡辺麻友■■■の際立つ笑顔
酔いどれのちゃんちゃらおかしい盆踊りちゃかしてちゃんちゃら酔っ払う
現行最大の覇者であるアイドルグループの映る一枚に、逮捕された指名手配犯の手配写真を思わせる【■■■】という処理を施す。この■の黒さに、成功した「ちゃかし」を見る。一首に漂う酒気の中で発声される【ちゃんちゃらおかしい】【ちゃかし】の語呂のよさに、やけくそのカーニバルを見る。いちどまとめると、多幸感へ向かわんと書かれた多幸感の歌ではなく、いちど「ちゃかし」を経由した多幸感表現において、『ヌード』の中山はなにか、を手にすることができていると思う。
* * *
「持たざるもの」である物憂い青年がマネーゲームにおいて人生の成功を勝ち取り、しかしやがてその生活にも倦んでいく〈ウルフ・オブ・ウォールストリート〉であれば、その倦んでいく様子、にさえも凄いものが宿るだろう。(実際、あの映画の快楽点はそこにあると思う)しかし、『ヌード』から多幸感の差し引かれたその作品世界は、これを書いている僕にとっての「世界」や短歌「作品」の暗い面とかなり重なるものであるから、読みのカタルシスや発見はない。抽出できるものといえば、そのクリアな再現度や、主体のキャラクター性だけかもしれない。
パスタ100gを摑む 束ねるにはみじかい髪を束ねたような
焼き鳥を串から外す。そのように腕枕のうで引き抜く夜は
そのまま、比喩される『性愛』と『消えもの』の、ネガとポジのような歌だが、このような書きぶりへ身体を〈使いこなしている〉感じを読まされる安心感、があると思う。
闇夜から梯子が垂れて救助用ボートに架かる出逢いのように
こんな〈タイタニック〉然とした‥‥と書くとディカプリオちがいだが、このような一瞬は決して訪れないことは分かったうえで、
室外機の風に揺れてる髪だった愛しさのあと知ったことだが
こんな一瞬の【髪】に強く魅かれる。愛おしさの【あと】揺れているというところがポイントで、ここには過剰に喜ばれていない、単に世界での【髪】の目撃のみが置かれている。
どうにでもなれとどうにかしてくれの夕暮れ だれかと喧嘩がしたい
そこからどのように「次」へ踏みだそう、と中山が考えるとき、そこには例えばこの歌の【喧嘩】に予告されているような混沌、へ向かうアクションが必要とされるのではないか。(【どうにでもなれ】と言いつつも、その書きぶりには【どうにでもなれ】のフォーマットに沿うような従順さが含まれているのだが)
中山さんと喧嘩がしたい、と僕は、このようなものを書いた。
似たようなことが『なぞなぞ』評でも起きていたら嬉しい。