こんにちは。「山羊による手紙(暴力について)」のことを書きます。
よこたえるからだを通る水脈にかわいた瞼ちかづかせてよ
自身の〈からだ〉のうちに〈水脈〉がある。それはただ〈通る〉もので、意思でどうにかなるものではなさそう。からだを〈よこたえ〉ているというから、相手が〈かわいた瞼〉を〈ちかづかせ〉るのを待つしかないというような姿勢をとっているものの、瞼を自分(のからだを通る水脈)にちかづかせるとなにかよいことがあるという予感はあるようです。
その水脈にじかに触れれば、たとえば瞼は涙に濡れるようにうるおうのかもしれない。けれど、希求は〈ちかづかせてよ〉にとどまっていて、その結果どうなるのかはあきらかにならない。おそらくは閉じている瞼と、その内にある目とが、水脈を感じる、そのささやかな感覚を想像できるのがとてもよいです。
昼なのに光るネオンの看板を夜よりずっと眺めてしまう
看板に這わされたネオンライトの細長いガラス管が光っている。夜にはあざやかにその役目を果たしているのを目にしたことがあるのに、太陽光のもとでは弱い光としか見えないその看板を〈夜よりずっと眺めてしまう〉。それは〈昼なのに〉光っているからだと思う。
夜ならばその光を十全なものにできるのに、夜に目あてにするような看板を明るいうちから探す人は多くはないだろうに、光らされている。あるいは、かぼそい光であってもネオンライトがそのちからを振り絞っているように思えたのかもしれない。そんな看板が目に入って、立ち止まってしまったのではないかと読みました。
禁じても禁じてもなお暴力は人を引き連れゆく笛の音
〈笛の音〉から、「ハーメルンの笛吹き男」の伝承を思い浮かべます。〈暴力〉という笛の音に〈引き連れ〉られて人びとが列をなしていく。暴力が他者を従わせる力として行使されるという構造についての喩と思えます。描かれていない「笛吹き男」にあたる存在は暴力を行使する人びとを、連れられて行く人は従わされる人びとを示しているような。
また、笛の音に誘われた人が加わって列が大きくなっていくところを想像すれば、暴力のそういった構造に魅入られた人びとが、暴力の笛の音にあらがわず、その構造を拡げながら強くしていくようすにも思えます。
〈禁じても禁じても〉、「笛吹き男」は笛を吹くのをやめない。禁じても禁じても、人びとは笛の音に誘われて列に加わるのをやめない。どちらにしても禍々しい光景ですが、はたから見ているわたしにも、あなたにも、笛の音は聞こえはじめています。
Nワード口ずさむその閃光のように誰でもいつかは殴る
〈Nワード〉はnegroやniggerなど黒人について示す語のイニシャルをとって、黒人に対する差別用語の総称としていう語です。ある人の属性を示す語が、その属性をもって相手を差別するために使われ、忌避されるようになるという流れがある。差別を意図して使われるだけでなく、(去年公開された映画「ムーンライト」を思い出しますが)差別されている人びとが自虐を意図して自称に用いることもあるようです。
はたして〈口ずさむ〉という語は、Nワードを口にする行為の形容としてふさわしいのか。すこし迷いましたが、なんとなく口をついて出る感じで口にしてしまうからこそ、くらくらするような衝撃、〈閃光〉が生じるのでしょう。閃光がよぎるように、〈誰でもいつかは〉誰かのことを〈殴る〉瞬間があるだろう、と補って読みました。誰でも、意識的にではなくても、暴力を行使してしまうことがある。歌にある比喩とは食い違うかもしれませんが、頭を殴られたとき目を閉じると視界に閃光のような感覚が生じるのを思い出しました。
やなやつを殺すとなれば岩肌の荒野を駆ける山羊だ私は
話し言葉の舌ったらずでリズミカルな語にはじまって、〈殺す〉という語の圧によって速度が増し、仮定の条件のなかでとはいえ自らは〈岩肌の荒野を駆ける山羊〉だと言い切る。いまは文にするために順を変えましたが、〈岩肌の荒野を駆ける〉という終止形のように見える流れで〈山羊だ私は〉と言ってみせる倒置におどろき、その勢いのまま読み終わります。
〈殺す〉という可能性、あるいはその意思を美化しているようにも思えて反感はありましたが、〈やなやつ〉に対して抱いている感情がそれだけ際立っているということでもあります。岩肌の荒野に対するには、人間の足や靴では頼りないでしょう。期待されるのは、岩肌にぶつかり鈍い音を立てる山羊の蹄、荒野を駆ける脚力。それだけの感情をみなぎらせている姿を見ました。
葬りかたのはなし 冬の噴水になるようそっと息を吐き出す
〈葬りかたのはなし〉だと前置きして、そのひとつの例として〈冬の噴水になるようそっと息を吐き出す〉ことを挙げているのか、あるいは、葬りかたについて話をしていて、そっと息を吐き出すように呼吸しているということかもしれない。
冬の冷たく乾いた空気のなかにほとばしる水のきらめき、〈そっと〉から想像されるそのささやかさ、きんと冷えた水しぶきの温度。冬の噴水というもののありかたが、葬ること、あるいは葬りかたのはなしにふさわしいというのでしょう。冬の噴水〈になるよう〉息を吐き出す、というのは、冬の噴水「のように」息を吐き出す、という喩とは話がちがいます。そうなってほしいという気持ちが強いということです。
ちなみに、葬るとはもともと死んだあとの身体を埋めるということですが、転じて「表に出てこ(られ)ないようにする」という意味にもなります。どちらの意味合いなのかによって、受ける印象が大きく変わってしまうように思います。
雪球を受け取ってかじる歯の奥に失語症めく冬のにおいが
〈雪球〉とあるから、たんなる「玉」ではなくて雪合戦において投げるための雪の球だろうと思います。雪合戦の最中なのかな、もし投げろという意味合いで渡されたのであれば、相手は〈受け取ってかじる〉姿におどろいているかもしれません。
雪をかじるとまず舌や歯に、そして〈歯の奥〉、喉から鼻へと感覚が抜けていく。触覚や味覚の先に〈失語症めく冬のにおい〉を感じる。雪をかじった瞬間の刺激をきっかけとして、語彙や話すちからが失われてしまうような感じ。驚きや、かるい絶望も想像されます。
雪が降り積もって風景がもとの姿をなくしていくようすや、冷たいものを口に入れると口の中が冷えきって感覚がなくなる感じを下敷きにして読んでみると、失語症というたとえがわりとすんなり入ってきました。
教えてもらった神戸の海側↔山側をずっと覚えているよずっとだ
神戸のあたりはたしか海のぎりぎりまで山が連なっていて、南のほうの港街と北のほうの山に囲まれた街とを隔てていたような気がする。もちろん〈海側↔︎山側〉について教えてくれた人はもっと神戸にくわしかったでしょう。海側・山側それぞれの街のようすについて、風景について、住んでいる人の感じについて、食べ物について、など。〈↔〉という記号にこめられている意味はなんだろう。たとえば、ふたつの地域の「差異」かもしれません。
では、〈ずっと〉〈ずっとだ〉というリフレインの執拗さによって見える〈教えてもらった神戸の海側↔山側〉に対する執着や、〈覚えているよ〉と告げる切迫した感じは、どこからくるのでしょうか。この人にとって教えてくれた相手の占めるウエイトが大きいからなのか、話題そのもの、神戸という街のありかた(ふたつの地域の「差異」?)についてなにか記憶に残る引っかかりがあったのか、あるいはどちらもなのか。想像するしかなくて、その想像についてはここには書かないことにします。
お互いの性のかたちをたしかめる作業をくり返しするばかり
自分と相手の間のことだろうとも思うし、もっと広く、誰かと誰かの間のこと、くらいにも思えます。〈性〉という語から、たとえば性交渉、恋愛関係などにおいてその親愛をお互いに〈たしかめる〉ような行為、を思い浮かべたりもしますが、性の〈かたち〉をたしかめる、となるとそのような行為だけを指すというのはしっくりこないかもしれない。また〈作業〉という語からは、必要ではあるがどこか義務として行われているような感じも受けます。
この歌を読むと、性差(という語はせいぜい肉体の話にしか使いたくないけれど)がある(性差がある……?)とされている日常の中で人と関わっていると、〈お互いの性のかたちをたしかめる〉ことは、なかば無意識のうちになされる〈作業〉となっているようにあらためて思うのです。たとえば相手のことをよくわかろうとするために相手の〈性のかたち〉、性のありかた、について知ろうとする(もちろん触れられたくない、秘めておきたいことは誰にも少なからずある……)ための作業、あるいは相手の〈性のかたち〉、自分・相手の性についての考えかた、を探って自分の身をまもる(うまく見きわめなければひどく傷つけられる羽目になることだってある)ための作業、……。人と関わるなかで少しでも安心するために必要となる、そういう途方もない緻密な作業があって、わかりますか。
そして、自身や相手の性(性差?)を意識すればするほど、お互いに〈作業をくり返しするばかり〉という荒涼とした感じにもなってくるように思います。そんな作業のことを想像すらしないような人がいるからなのかもしれませんけど。
残雪を汚すばかりの足持てばなるべく弱く踏みつつ帰る
自分の足は、地面や路上に溶けのこっている〈残雪〉を〈汚すばかりの足〉だといいます。風景のなかに雪がのこっていることがこの人にとってよいことであり、その風景を壊してしまうようなことはしたくない、というのがわかる。すでに泥や靴や車輪の跡によって雪が汚されはじめていることも踏まえているでしょう。
それでも、歩いている以上はその雪を踏んで行くしかない。だから〈なるべく弱く踏みつつ帰る〉という。〈帰る〉とは、みずからの居場所に戻るということ。それはこの人にとって欠かせない行為のひとつの象徴だから、ここに置かれてよく効いています。
痛みやすい人が、自分のなかに避けられない暴力性があることを自覚し、葛藤しながら行動を決めていく姿がある。そのまんまの表明が終わりにおかれていることで、この一連が「山羊」による「手紙」として差し出されていることをあらためて思います。
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世界は暴力に満ちていて、どんな人でも暴力(たとえば差別)の構造に巻き込まれてしまうことがあるし、みずから暴力を行使してしまうこともある。そのことを自覚すること、そして行動すること。相手にとって脅威にならないためには、ただ身体を横たえているしかないのかもしれない。でも、その姿は別の暴力を引き寄せてしまうかもしれない。強すぎる光のなかであっても、かぼそい光へと視線を向け、立ち止まってみることはできる。
「山羊による手紙」には、たとえばこういうことが書かれていたように思います。それだけが書いてあるわけではないので、ここまでたくさん書いておくことがありました。だから、どうかこれをまとめや要約とは思わないでほしいです。そんなことはできない。
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山羊による手紙、といえば、まど・みちお作詞の「やぎさんゆうびん」という童謡があります。その詞は、諳んじられる人もいると思いますが、
しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら おてがみ たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに
くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら おてがみ たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに
というもの。おろかな山羊たちだと思うでしょうか。着いたばかりの手紙を、食べはしないにせよ、開きもせず読みもせずに捻じって屑籠に投げ込んだことはないですか。
たとえ着いた手紙をきちんと受け取れないようなことがあっても、〈しかたがないので〉と言い訳しながらだとしても、こちらからも手紙を書く。せめて、そのくらいのことはしていきたい。そう思うような短歌を読み、ここにしばらく書きました。