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Channel: 「詩客」短歌時評
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短歌相互評⑥ 岡野大嗣から加賀田優子「だるんだるん」へ

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作品 加賀田優子「だるんだるん」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-06-03-18504.html 

評者 岡野大嗣


たんぽぽを折るのとすごいわるくちをいうのとではどっちがひどいだろう

 一読して、「たんぽぽを折るのがひどいことなのは、すごいわるくちをいうのがひどいことなのと同じ」という意味が頭に響いて、英語の比較構文みたいだな、と思った。「どっちがひどいだろう」と思案しているこの人の頭の中では「たんぽぽを折る」のと「すごいわるくちをいう」の、ひどさ、はニアリーイコールで、「どっちがひどいだろう」には、ひどいほうはやめておこう、ではなく、どっちのほうが相手に与えるダメージが大きいだろう、「≧」あるいは「≦」で少しでもひどいほうを選びたいな、という無邪気な悪意を感じる。

 

さからっているんじゃなくてみんなただもといた川に戻りたいだけ

加賀田さんの歌では、ひらがなが蠢いているようにみえるときがある。一首目では「折」、この歌では「川」と「戻」。歌をながめたとき、液晶パネルの画素欠損の部分が光ってみえるように、漢字の持つイメージが鮮やかに目に飛び込んでくる。それから漢字はとつぜん磁力をもつ。磁力をもった漢字にひらがなは砂鉄のように吸い寄せられて意味をつくりはじめる。

 

海がわのホテルの壁をぬりかえるおにいさんたち灰色の服

カメラワークが鮮やかな歌。まず海が映される。そこから左か右にパンされていって「ホテル」、の「海がわ」、の「壁」、まで来て、空間的なひろがりを感じる。次に「ぬりかえ」ている行為が映され、潮風にやられてきた壁があたらしく塗装されていく様子に、その海沿い一帯の時間のひろがりも感じられてくる。その瞬間、カメラは急にズームアップして行為の主の「おにいさんたち灰色の服」を映し出す。目いっぱいひろげられていた時空のふろしきが唐突にたたまれて、この海沿い一帯の時空はすべて「灰色の服」から生まれてきたものなんじゃないかという錯覚に陥る。「おにいさんたち」と「灰色の服」のあいだに助詞がないことは同格関係をより強調していて、この「おにいさんたち」は、特別に塀の外での作業をゆるされた囚人に思えてくる。 


運転手さんの鼻歌がとぎれないようにねむったふりをつづける

タクシーの車中だろうか。「ねむったふり」をつづける理由はふたつ考えられる。

A:運転手さんがあまりに気持ちよさそうに歌う鼻歌を、つづけさせてあげたいから

B:運転手さんの歌う鼻歌があまりに心地よくて、しばらくずっと聴いていたいから

どちらだろう。理由はどちらでも、読者が好きなほうを選べばよくて、とにかく、「ねむったふり」が続けられることで運転手さんの鼻歌は子守唄になる。タクシーという密室に甘美な時間が流れ出す。

 

無理しなくていいよ、いいよ、といいながらまたセックスをしている夢だ

「いいよ」のリフレインが耳に残る。最初と二回目で込められた意味が変わっているように感じる。最初の「いいよ」は許容、二回目の「いいよ」は、気持ちいいふりで発した「いいよ」。ねむった「ふり」がほんとうになって、「ふり」から始まった眠りの中でも「ふり」をしている。やさしい嘘をつきつづけて、この夢には出口がないような気がしてくる。

 

欲しいものリストにとくに欲しくないものがぽつぽつと混ざっている

「ぽつぽつと」が効いている。自分の知っていたはずの自分は、気づかないうちにぽつぽつと死んでいく。欲しいものリストが「欲しくないもの」で埋め尽くされる日に、自分はいったい誰なんだろう。

 

なくなった幼稚園には花のさく木ばかり残されていてまぶしい

たんぽぽを折るのとすごいわるくちをいうのを天秤にかけていた子がいたような気がする幼稚園。あいまいな自分の内に存在する「欲しいものリスト」と違って、公共に存在するものは「なくなるべき/残していいもの」が明快な基準で選別されている。

 

ドアすこしひかってたから開けるときありがとうっていってしまった

どういう状況でこの謝意は口をつくだろうか。ひかっていてくれてありがとう。自分を見失いそうになる暗やみの中でひかってくれていたら。つい言ってしまうだろうな。このドアが、出口のない夢の中でみつけたドアだとしたら、眠りからさめただけなのに何故かうれしくなっているときの気持ちに説明がつくような気がした。

 

みつ豆の缶でつくったおもちゃにはしばらく蟻がこびりついていた

洗いおとせていなかった蜜は、過去に存在した時間の痕跡。人間には認識できないレイヤーに蟻が群がりこびりつき、過去が現在に追いつこうとする。缶でつくったおもちゃのまわりにだけタイムラグが生じている。

 

くじけそうな日にきこえてきてしまう秘密兵器をだすときの音

「きく」ではなくて「きこえてきてしまう」こと。不可抗力でそうなっているのではなく、無意識に選択しているのかもしれない。それはただ「もといた川に戻りたいだけ」。くじけそうな自分を、くじけていない自分のほうへぐっとたぐりよせるために、秘密兵器をだす音を「きこえてきてしまう」ように脳みそが指令を出している。

 

だけど庭それは崩壊寸前の血だまりに似ている花と花

「崩壊寸前の」「血だまりに似ている」は共に「花と花」を修飾して、そんな異様な光景「だけど」それはまぎれもなく庭。「だけど庭」が初句に置かれているから永遠にループできる。何度もループして読むうちに、繰り返しの中で少しずつ拍をずらしながらグルーヴを生んでいくミニマルテクノのように、崩壊寸前の庭は脈打ち始める。崩壊に到るまでの時間が景色を伴って現われては消えていく。

 

首元も袖口も裾もだるんだるんだるんだるんした服をきてゆく

だるん、の執拗なリフレイン。これでもほんとうはまだ足りない。だるん、は「だるんだるん」でワンセット、「首元」にも「袖口」にも「裾」にも「だるんだるん」が必要だから。「だるんだるん」をまとった私は、どこかるんるんしているようにみえる。「首元も/袖口も裾も/だるんだるん/だるんだるんした/服をきてゆく」(5/8/6/8/7)と、初句と結句に挟まれた三つの句はそれぞれ1音ずつ字余りで、その音の間延びは生地の「だるんだるん」を思わせる。あやとりでつくったゴムの延び縮みを本物だと錯視するあの感じ。

 

暑いらしい最高気温を一度二度三度くりかえすテレビの声

「三度」まで執拗に繰り返されて、情報としての「最高気温」は意味をうしない、ただのテレビの声になる。

 

たべものを見ても退屈そうにする動物たちをながめにいこう

はじめは反応していたのかもしれない。けれど、飼いならされてきた巨大な時間の中で、いつしか餌に反応しなくなった動物たち。そこに居ることを忘れているような動物たち。毎日決まった時間にもらえる「たべもの」は、動物たちにとって、欲しくないものだらけになった「欲しいものリスト」なんじゃないか。

 

口うつしされた輪ゴムがどうしてもどうしても輪ゴムの味がする

「輪ゴムを口うつしされる」という普通じゃない状況でも、輪ゴムの味が輪ゴムの味でしかないという軽い絶望。でも裏返せば、欲しいものも欲しくないものもわからなくなった自分になったとしても、きっと輪ゴムの味だけは確かに感じられる。それは軽い希望だと思った。

 


短歌時評 第129回 悦子の部屋にいくぞ 柳本々々

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小津夜景×関悦史「悦子の部屋」イベントを聴いてきた。下北沢のB&Bは思い出の場所で、わたしは三年前はじめてこの本屋のイベントで、西原天気さんや田島健一さんや鴇田智哉さんや宮本佳世乃さんに(一方的に)お会いした(そのころは、こそこそしていたので)。このときおもったのは、あえるひとにはあえるのではないかということだ。わたしはこのほんやで、会える哲学のようなものを教わった。そのころそれを夜景さんに話したが、まさか三年くらいたって夜景さんがそこでトークショーをすることになるとは、と思った。けっきょくわたしはこんかいのイベントで三年前とおなじ位置のおなじ椅子にすわった。わたしはけものか、と思ったが、なにかふあんなことがあるたびにドラム式洗濯機のうえから動かなくなる猫のきもちがなんとなくわかった。やぎもと・とまと…。

イベントで心に残った夜景さんの言葉(「ふわふわしてるが深刻」「前衛様式になると…」は関悦史さんの言葉。ちなみに私が当日速記でノートに走り書きしたものなので、夜景さんや関さんの本意とずれている場合があります)。

「賞のときはパーソナリティーを出す。句集の時は完成度をあげる」

「詩は立つことだけが価値ではない」

「前衛様式になるとどうしても自由律の俺が俺がになる場合がある」

「ある年を過ぎると自分自分はもういいと思う」

「ふわふわしてるが深刻」

「書いた以上のことは考えてないからわからない」

「空き家も建築であることによって構造からは逃げられていない」

「子音は痕跡としてからだにのこる」

「B級要素が私には必要だと思った」

「屹立が許される年齢がある」

「フラワーズ・カンフーという連作は女子高生として詠んでいる」

「けっこう吟行してる」

「ぷるんぷるんの句は写生句。はじめて俳句をおもしろいなと思えた句」

「フランスに住むようになってわからない言葉の中でゆったりしていられるようになった」

 

     ※

 短歌をつくる人間として、定型にかんしてこのイベントをとおしておもったことを書いてみよう。

「フランス語の中で暮らしていて、わからない言葉のなかでもゆったりできるようになった」という夜景さんの言葉が印象的だったのだが、短詩=定型ってそもそもそういう〈ちょっとやそっとわからない言葉があっても動じない耐性を身につける〉ようなとこがあるのではないか

大事なのは、わかる/わからないには実は階層なんてない事だ。本当は意味生成はその二つを往還しサイクルする。岩松了の言葉を思い出そう。「わかりたいとは人間誰しも思うわけです。思うわけですが、『わかる』ということが『わからない』ということに勝るとは、ゆめゆめ思って欲しくない、と私は思うわけです」

鶴見俊輔は「ハクスリーの『ルダンの悪魔』では、突然「天啓を受けた」と言って、みんなが見ている前で弟の首を切ってしまう。人間にはそういう衝動につき動かされるというものがあって、その歴史が繰り返されている」と述べたが、これも「わかる/わからない」の二項対立を超えたものだ。超わかると超わからないの拮抗というか。それを小津夜景はフランスという異言語をとおして、生の文法や語法として、学んだ。小津夜景にとってフランスとは言語認知がテーマ化される場所でもあったのだ。

定型詩は、よく口のきもちよさのようなことが言われるけれど、わからないことのきもちよさときもちわるさの原っぱを腹ばいですすんでいくようなところもあるのではないか。そうしてね、ずっとそのわかる/わからないの階梯を考えていく。どこでその「/」が揺れ動くかを臨床してゆく。定型詩人は、ことばの臨床医になる。みじかいことばで。

 

 

短歌相互評⑦ 川島結佳子から西藤定「Spoken, Written and Printed」へ

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作品 西藤定「Spoken, Written and Printed」  http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-07-01-18578.html

評者 川島結佳子

 

 一読して就職活動中の連作であろう、と思う。美大に通いポーズでしか就職活動をしていなかった私にとって、就職活動がどのくらい大変なのかは想像するしかないのだが、社会に出る第一歩としてとても重要な場面であるはずだ。

待ち合わす大手町駅ありえない方から風が実際に吹く

 大手町駅は広く、迷路のようであり、出口もたくさんある。オフィス街であり何処も似たような景色だ。同じような広い駅でも渋谷ならハチ公、新宿ならアルタ前など待ち合わせとなる目印となる場所があるが大手町にはそれがない。そこを待ち合わせ場所にするということは恐らく親密な誰かとの待ち合わせなのだろう。また、迷路のような駅であることから何処から風が吹いてもおかしくはない。「ありえない方」の言葉に特別な期待感がある。


「おい、じじい」ときみは呼びくる藤色のUSBを差し出しながら

 「おい、じじい」の呼び方で一首目の親密さが強調される。作者がどういう人物であるのかも想像できる。USBというアイテムは現代的でありながらも「藤色」であることが初句のあだ名と響きあっている。


自立する書類カバンに買い替えて公衆トイレでそこを見ていた

 自立する書類カバンに自分を重ねている。公衆トイレは不特定多数人が使う場所であり、自分が「個」から不特定多数に混ざっていくような印象を受ける。「そこ」とは何処の事だろう。自立している未来だろうか。


きみが善いことをしたからにんべんのなかのなかむらさんからはがき

 「きみが善いことをした」と言いきる作者に優しさを感じる。「にんべんのなか」のにんべんを発見できるのも作者の人柄の良さが出ている。


読むために書くのだろうか履歴書の性別欄を最初に埋めて

 全体の連作の中で一番「はっ」とさせられたのがこの一首である。履歴書は誰かに「読まれる」ために書くのであり自分で「読むために書く」と考えた事がなかった。確かに履歴書を書くと今までの自分の歴史を改めて振り返ることが出来る。性別欄を埋めるのは履歴書を書く上で最も簡単な作業である。昔、テストを受ける時に「簡単な問題から解いていきなさい」と言われた時のような懐かしさを感じる。


買いたいと思ったらもう買っているおはぎ、おはぎは米の惑星

 「おはぎは米の惑星」という比喩に脱帽する。確かに形、表面のでこぼこさは惑星によく似ている。「買いたいと思ったらもう買っている」にスピード感がある。おはぎは手軽に支配できる惑星なのかもしれない。


間がわるく手で押し返す自動ドアその手ごたえで「やれます」と言う

 これは分かる!恐らくあるあるである。回転式の自動ドアであろう。手で押している人を何回も見たことあるし、私も実際に押したことがある。自動ドアを手で押すことは世の中の流れに任せず自分で生きていく、という決意であろうか。結句の「やれます」というきっぱりとした物言いに気持ちが表現されている。
 

花びらが流れてきてもこれは豪、あなたが見たいのは神田川

 この「豪」は恐らく皇居の堀の事であろう。堀に浮かぶ花びらは何処へも行くことが出来ない。「神田川」と聞くと南こうせつとかぐや姫の「神田川」を思い出す。作者は何も怖くないのだろう。あなたの優しさ以外は。

短歌相互評⑧ 西藤定から川島結佳子「たぶん」へ

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作品 川島結佳子「たぶん」  http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-07-01-18583.html

評者 西藤定

 

青春は気味悪くあり錆びついた傘差し向かう同窓会へ

女だが女装してゆく鉄黒のタイツ私の脚細く見せ

 「気味悪い」は、単なる不快ではなく未知のものへの得体のしれない不安を含む感覚だ。同窓会に参加する作中主体にとって「青春」は自分自身が歩んできた過去のはずだ。それは今でも得体のしれないものなのだ。

 二首目の「女装」は武装なのだと思わされる。ともすればマウントの取り合いになりがちな同窓会で、精一杯の防御としての装いなのかもしれない。一方で「錆びついた傘」と、装いに徹しきれない主体も表れている。

 

手すりにも掴まらず立つおばあさんの体重支えるくるぶしの骨

 先の二首目とこの四首目に共通するのは「論理の視覚化」ではないかと思う。二首目「脚細く見せ」、四首目「体重支える」は、たとえば目に見えるものの描写に徹して歌を詠もうとするなら、省略して構わない部分だ。なぜ同窓会に行くにあたって「鉄黒のタイツ」を履くのか、なぜおばあさんは「手すりにも掴まらず立」っているのか、川島さんはそれを読者に想像で補わせず、主体が頭の中で行っている論理付けをそのまま押し出してくる。

 「そこまで言うのか」とも思が、これは決して蛇足ではないだろう。これらの表現は、主体の内面の理屈付けを、むしろ目に見えるもののように描写に組み込んでいる。連作前半をつらぬく冷淡で無骨な文体(「を」の助詞抜きや言い差しの多用など)によるところもあるだろうが、まるで剝き出しの「くるぶしの骨」がそこに見えているような不思議な迫力が感じられる。

 

ドライフラワーなのか私は出会う人出会う人皆「変わらない」と言い

蜘蛛ならば巣を張る隅を陣取った私にも生ビールは注がれ

 自己卑下でシンパシーを誘いつつ、同時に発想の鮮やかさで興を誘おうというのなら、それは「自虐ネタ」だ。しかしこの六首目と七首目、見かけ上は「自虐ネタ」の型に沿っていながら、興を誘うどころか恨み言を真正面から突き付けてくるような凄みがある。「ドライフラワーなのか私は」と初句字余りで大仰に「ツッコミ」を打ち出したあと、三句目からすっと落ち着いたまじめなトーンに帰り、そして結句は字余りと言い差しで粘っこく締める。七首目も上句の「陣取った」がおそらく一番力の入るところで、そこから急に「素」に戻り、最後は字余りと言い差しで終わる。

 これらの歌も二首目、四首目と同様に、歌に流れる理屈が明晰で、読者が自由に解釈の幅を広げる余地はない。だからひとたび「突きつけられた」と感じたら、もうそれを躱す手立てがない。

 

「つまんない女だ」君と私とで笑う私のつまらなさなど

膝に痣残したままで雪みたく忘れてゆける私だ たぶん

 連作終わりに近づくと、逆にふんだんに省略を効かせた歌も表れてくる。八首目、「つまんない女だ」と言ったのは君か私か、言われたのは君か私か、文面だけから一意に定めることはできない。ただ「君」と「私」と「つまんない女」の三項が宙づりで浮かんでいて、それだけが読後に長く尾を引く。

 十首目、痣は残るのに膝をぶつけたこととその痛みは雪が溶けるように忘れてしまう、と解釈することができるが、ほかの読み方も可能だろう。「忘れてゆける」対象は同窓会での会話や、さかのぼって学生時代そのものへと広がっていく。一字空けのあと「たぶん」の音が重く響いて、痣の存在を思い出させるようだ。同窓会での会話によって、主体はどんな「痣」を付けたのだろうか。

 それでも、主体は同窓会に欠席はしなかったのだ、と最後に思った。

 

俳句評 俳句の国から短歌国探訪(2)穂村弘と言う短歌 丑丸 敬史

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(1)はじめに

 俳句実作者である筆者の短歌国探訪記の今回が4回中の2回目となる。

 前回、短歌と俳句の違いとその理由について思うところを「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(1)短歌は若者の器か」として書いた。

 その要点を纏める。

(短歌に関して)
1. 「31文字」は日本人にとって「マジックナンバー」であり、恋に限らず何物かを伸びやかに歌うのに過不足がない。
2. 鬱屈した熱き思いを抱く若者がその思いを伸びやかに開放する、短歌はそれを受け止める器として最も相応しい青春の詩文学である。
3. 現在の若手世代のライトバース、ニューウェーヴの洗礼を受けた短歌世界では描かれる世界は軽い。ライトバースは軽妙な内容の文学にこそ合う。盛り付けるものが軽いものであれば、盛り付ける器も軽いものを選ばねばならぬ。
4. 短歌が口語化したのはライトバース化との連動があったからこそである。短歌の描く世界が軽くなったからである。軽い世界を殊更に軽く描く。それが若者に歓迎された。言葉を尽くせる短歌は内容が軽くとも力で読ませることができる。ライトバースは短歌に適する。
5. 日本が続き、そこに若者がいる限り、短歌の未来は決して暗くはない。
6. 日本人であるならば全ての詩人は短歌を詠める筈である。短歌を歌わない手はない。

(俳句に関して)
1. 有季定型伝統俳句は俳句の一ジャンルに過ぎない。現代俳句のウイングはもっともっと広い。
2. 角川「俳句」は初心者向けの俳句入門書であり、これを手引きにしたのでは俳句の重要な流れを見落としてしまう。
3. 「一読分かる俳句が良い俳句」ではない。読解力を必要とする良い俳句は存在する。
4. 俳句は伸びやかに歌うことのできない鬱屈した奇矯の文学型式である。
5. 満たされない中にこそ充足を感じようとする俳句、それは侘びの精神的支柱を持ってして初めて成った。伸びやかに歌えないのではなく、伸びやかに歌わない、そこにこそ俳句の美学がある。俳句は内省的な文学である。
6. 鬱屈した若者に鬱屈した詩形式は合わない。抑制的に歌うことを運命付けられた俳句は若者の熱狂を呼べない。
7. この窮屈な俳句美学を理解し愛するためには、ある程度人生を生きる必要がある。斯して俳句は老成の文学化する。
8. 大方の俳句はライトバース化していない。抑制的な老成文学であるという俳句の特性にライトバースは馴染まない。言葉を尽くせない俳句でさらに内容が軽くなると目も当てられない。

 前回、なぜ自分は俳句を書くが短歌を書かないかの理由を省みた。現在の短歌シーンの有り様に共感できないからである。ただ、歌人が俳句シーンに対してその中央値しか見えないように、俳人である筆者も短歌シーンに対しても同じであろう。

(2)穂村短歌

 その現在の短歌の中央値として今回は穂村弘短歌を採り上げる。穂村は短歌界では知らぬ者もいないほどの人気ぶりだが、筆者の短歌の知識は高校までの教科書止まりであったから、申し訳ないことに短歌を勉強するまで筆者は知らなかった。「ダ・ヴィンチ」も読まないので穂村の人気コーナー「短歌ください」もついぞ知らなかった。
 今回、彼の第一歌集『シンジケート』を読んだ。それに加えて、歌人の山田航が穂村短歌50首を選んで鑑賞した『世界中が夕焼け』を参考にした。本書は、もともと山田が自身のブログ「穂村弘百首鑑賞」で鑑賞した100首から50首を厳選して書籍化したものである。本書中で、山田の鑑賞に穂村がさらにコメントを寄せるという輪環構造を持っているのが興味深い。鑑賞に対するコメントという形を取っているものの、自歌自註になっている。あとがきで穂村自身が用心深く語っているように、自歌自註は面白くならないことが多いが、穂村がどのような作家態度(の表明)で作品を世に出しているのかという参考にはなろう。

 穂村弘は平成最大の歌人だ。穂村弘以前・以後とすら言えるほど、現代短歌に与えた影響は大きい。どんなかたちであれ、穂村弘の磁場を離れて存在している現代歌人はいない。第一歌集『シンジケート』は、もはや古典と呼べる一冊だ。

 これは山田の巻頭文である。のっけからかなりの持ち上げ方である。穂村が革命的な歌人であり、短歌の啓蒙者として現代をリードしている現状を述べている。本書は、上述のような経緯で誕生したため、書籍化する意図もなく、一ファンとして山田が穂村短歌を鑑賞したものであり、穂村短歌言祝ぎの書である。山田には穂村短歌へのリスペクトとともに愛が溢れている。ただし、そのためどうしても彼の歌を批評的に鑑賞することはできていない。穂村短歌の一つの重要な特色が「露悪的」であるにもかかわらず露悪的に鑑賞することができない。ファンによる作品鑑賞は得てしてこうなる。
 今回、筆者はことさら「露悪的」な読みを穂村短歌に施そうという意図というよりは、山田の読みの足りない部分を補完する読みを心掛けた。

(3)<降りますランプ>に取り囲まれて

 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

 この歌が『世界中が夕焼け』の冒頭に置かれている。本歌に対して山田は「人口に膾炙した代表的な一首。甘やかな相聞歌である。」とした上で、額田王の<あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る>のイメージを重ねている、とする。そして、「終バスは、この先どこに行くのかわからないふたりの未来を暗示している。年の中に一瞬生まれた幻想空間のなかでふたりは逃避するように眠るのだ」と鑑賞している。
 フィクションは短歌にとってお手の物だが、これもフィクションの恋愛想望歌である。短歌は演劇の舞台設定を描くことに昔から長けている。本歌のこの2人は<降りますランプ>を押すこともなく終点まで静かに眠り続けることであろう。つまり、本歌は「終バス」で「終点」に向かう愛の形を描いている。山田は逃避愛のように読み込んでいるが、「終」が逆に成就することのない恋愛を暗示する。いや、そもそも終点もない行き先もないマボロシのバス。寒色系の「紫」もそれを暗示する。古代貴重な「紫」は富貴の象徴であったかもしれないが、紫が貴重でもなくなった現在、額田王の「紫」と穂村の「紫」は同列ではなく、穂村は「紫」のマイナスのイメージの寒々しさを強調する。

 終バスにふたりは眠るバラ色の<降りますランプ>に取り囲まれて
 
 なら歌の雰囲気はガラリと変わる。
 本歌は「甘やかな相聞歌」なのではなく、漱石の『それから』のように、祝福されない、成就もしない哀歌なのである。見た目の美しさに惑わされてはならない。穂村短歌は見た目ほど「甘」くない。穂村が額田王の歌を本歌取として作ったようにも筆者には思えないが、ともあれ、本歌は洒落た歌である。
 穂村はこのような歌が作れるものの、彼の中ではセンターではない。穂村の短歌は多面的である。次に見るような歌にこそ彼の真骨頂がある。

(4)シンジケートをつくろうよ

 子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」

 第一歌集『シンジケート』の題名にもなった歌。本歌に対しての山田の次のような鑑賞は天真爛漫過ぎる。これは山田の穂村短歌鑑賞の瑕疵が分かりやすい形で表出したものである。

 表題歌にもなっているこの歌で表明されているのは、家庭を持つことで自分たちの恋愛が社会性を帯びることの拒否である。これは『シンジケート』という歌集全体のペースに置かれているテーゼであり、己の存在が社会化してゆくことへの拒否と嫌悪の共同体こそがニューウエーブ短歌運動だったのかもしれない。

 『世界中が夕焼け』で穂村はこの歌にこのようにコメントを寄せている。

 「シンジケート」って言葉は妙ですよね。違う言葉でもありうると思うんだけどあまりポピュラーな言葉じゃないし、なぜここで「シンジケート」だったのか、わからないですね、今となっては。「壁に向かって手をあげなさい」っていうのは、まあ、「FBIだ。壁に向かって手をあげろ」みたいなイメージなんだろうけど、でも、必ずしも接続しているわけじゃないよね。ホールドアップの場面でもないわけだから、なぜ下の句でそうなのか。だから、意外とこれわかんないね、自分でも。この歌は歌集を作る時、落とそうとしたんです。(中略)林あまりさんに原稿を見せたときに、それを入れなきゃダメだと言われて。そのとき、「悪い歌が歌集に入ることより、いい歌を落とすことを恐れなさい」って言われて納得しました。僕もそのあとは、誰か新人にアドバイスを求められると、「誰かに一度でも引用された歌は全部入れるように」ってふうに言ってます。でも、タイトルの歌って絶対タイトルの歌だって思って読まれるに決まってるから、それが気にいらないっていうのは、ちょっと嫌なことなんですよね。ただ、どの歌が注目されて人に知られていくかは、作者も選ぶことができないので。選ばれている、みんながよく知っている歌が必ずしも好きな歌ってわけじゃないですよね。この歌は本当は好きじゃないですね。好きじゃなかったから落とそうとしたんです。でも、誰かに引用されるとか、取り上げられると褒められるって、すごく「選べない」ことなんだよね。

 作者はこの歌の成立過程に関しては覚えていないと口を濁しているため、筆者が代わりに穂村弘のなりきりで語ろう。

 テレビドラマなんかでFBIが相手に向かって「壁に向かって手をあげろ!」なんて言って壁に手をつけさせて相手を捕縛する。そんなシーンってよくありますよね。でもこの行為って、壁に手をつけさせて女性と後背位で交わろうとする男の行為、そのものでもありますよね。「壁に手をついて」とか言ったりして。その際、ギャングめかして(ギャグめかして)「壁に向かって手をあげろ」と女性の耳元で囁いたりする。「死にたくなければ俺の言う通りにしろ」とか言ってね。セックスって本来なら子供を作ることにつながる行為だけど、子供ができちゃ困るケースでのセックスの方が実際には多いわけです。だから「子供をつくろうよ」なんて言いながらすることはないし、じゃ何をつくるために俺たちやってるの?って思ったりもするわけです。で、ここはごっこ遊びのていで、実際に痴戯にはそんな側面ありますよね、壁に向かって手をついて、これからやる儀式は子供をつくるためのもんなんかじゃなくて、我々二人が秘密結社(シンジケート)をつくるための儀式なんだよ、って感じの歌にしたかった。「子供(なんかつくるより)よりシンジケートをつくろうよ」ってね。でもこの歌の発表後に、この歌の持つ生々しさというか、露悪的なところが自分では鼻について最初は歌集の初稿では落としたんです。でも、他の方の短歌評を読むと、意外にもこの歌のそういう側面に触れられずに読まれているんですよね。気づいてて好意的に気づかないふりをしてくれているだけかもしれないんですが。山田さんも林あまりさんもそうは読んでいない。なので、林さんにも言われたことだし、ということで歌集に入れました。愛着のない歌だったわけじゃなかったから、歌集の題名にもしたんです。

 自歌(自作)自註で作者が真実を語るとは限らないことは銘記すべきである。

 「この歌は歌集を作る時、落とそうとしたんです。(中略)林あまりさんに原稿を見せたときに、それを入れなきゃダメだと言われて。そのとき、「悪い歌が歌集に入ることより、いい歌を落とすことを恐れなさい」って言われて納得しました。」と穂村が言っている下りは、間接的ではあるが明瞭に、穂村自身この歌が「いい歌」であるということを自覚していたことを示す(こう言う風に間接的に自歌を褒める穂村さんて素敵、笑)。詰まるところ、この歌は自信作であったのだが、当初歌集の草稿からは落としていたのだ、ということを彼自身が語っている。自信作であるとわかっていながら落とさざるを得なかった理由として、穂村がこの歌に対して迷いを持っていたことが示される。それは他人の評価である。自信作が世に認められるとは限らない。筆者なぞは、本歌は穂村を語る代名詞にしてもいいと思うくらい銘品であると思うのだが、当の穂村はこの句のポルノグラフィックなところに躊躇いがあり当初は除いていた節がある。この歌が含んでいる毒を考えれば、読み手から嫌悪される可能性だって十分にあった。こう言う毒のある歌が好きな読者もいるだろうが、無難な路線を行くのが大人の選択である。穂村が目指す短歌は、現代の「大衆による、大衆のための、大衆の歌」であるところの流行歌なのだから。

(5)朝顔(べんき)に転がる黄緑の玉

 女の腹なぐり続けて夏のあさ朝顔(べんき)に転がる黄緑の玉

本歌も『世界中が夕焼け』の50首鑑賞に採り上げられている。実は上掲の《子供より……》は『世界中が夕焼け』の見出し50首には含まれておらず、本歌の解説の中で引用という形で鑑賞されている。つまり、残念ながら山田は《子供より……》に関しての本質を理解せず、表面的な露悪さで分かりやすい本歌を採ってしまった形だ。本歌に関しての山田の鑑賞は次のよう。

 女の腹をなぐり続けるのは、おそらくは堕胎させようとしているのだろう。そして自分に子供ができるということへの嫌悪感から吐き気を覚え、元気に向かって吐く。そのときに見えたのが黄緑の玉。便器に消臭剤として転がっている樟脳のことである。嗅覚に訴えかけることで作中主体のどうしようもない嫌悪感が伝わってくるのである。

 男性は小便も精液も同じ陰茎から出す。樟脳の玉が転がる便器に用を足していて、腹をなぐり続けた彼女のお腹の中に放出したかつての自分の精液を思い出し、その原因を作った自分に怒り「自己嫌悪」に陥る。山田の解釈の「嫌悪」が「自己嫌悪」を指しているのかは曖昧である。加えて「黄緑の玉」が睾丸の隠喩であることも指摘しておかねばなるまい。これも「女」の妊娠を想起させる仕掛けである。
 このような筆者の鑑賞は深読み、穿ち過ぎの類ではない。穂村自身からしたらこのような読みを誘う仕掛けを鏤めて作っている。それを誘うところが穂村短歌である。軽佻浮薄なライトな穂村短歌のイメージがあるとしたらそれは、世界戦略を目論む穂村が戦略的に作りだしているイメージであり(大衆による大衆のための大衆の歌)、穂村短歌の本質はずっと深いところにある。穂村短歌を侮ってはいけない。

 体温計加えて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

 「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 「猫投げるくらいがなによ本気出して怒りゃハミガキしぼりきるわよ」

 「耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ」

 ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

 A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル

 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

 夜のあちこちでTAXIがドア開く飛び発つかぶと虫の真似して

 筆者はこのような機知で読ませるライトな歌は好きではない。この手の歌はその時代の風潮に乗りいっときは持て囃されるかもしれないが、その分廃れるのも早い。ただ、穂村短歌に1986年にスポットが当たってからすでに30年経ったものの、彼の短歌は未だに短歌界のセンターに君臨し続けている。彼の短歌は古びないのか。全ての芸術作品を後世に受け渡すだけのキャパシティーを人類は有していない。時間は厳しく(偶然も加味されて)芸術作品を濾し取って作品を古典とする。穂村短歌が山田の言うように古典になるのか(なったとは言うのは早計である)、それとも一時代の徒花、とまでは言わなくとも一時代を画した作風として総括されるものに終わるのか、今は分からない。
 詩歌の古典は人(短歌に関しては日本人)に愛誦され続けられるものの謂である。この人とは一般人のことである。一般人が愛誦したくなるような短歌とは何か。それを考えるに、「子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」」が100年先に愛誦歌が足り得ているとは筆者には思えない。山田航はそこまで深くは考えずに「歌人ための古典」というくらいの意味で「古典」という言葉を使ったのであろうか。穂村の露悪的なところのない(の見えない)繊細な叙情歌だけがもし古典たり得たとしても当の穂村自身は少しも譽れには感じないだろう。俵万智のセンターの歌は古典となり、穂村弘のセンターの歌は古典とならないとしてもそれは仕方ない。
 先鋭的な歌人は一般人が古典と思う歌をつくることを目指している訳ではないし、先鋭的な詩歌は一般人が受け入れられないことの方が多い。吉岡実は詩人にとっては超超有名な一流詩人であるが、彼の作品は未だに一般人にとっての古典ではない。恐らくこの先も。しかし、吉岡を知る人間には吉岡は至宝である。穂村の歌が玄人好みの歌であるかと問われれば、筆者にはそう思える。モーツァルトの「素人も喜び、玄人も唸らせる」と同様な作品づくりを穂村に感じる。

(6)「十二階かんむり売り場でございます」

 「十二階かんむり売り場でございます」月のあかりの屋上に出る

 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』収録。本歌も『世界中が夕焼け』から。山田も穂村も触れていないが、種明かしをすれば、これはかの「冠位十二階」から思いついた短歌である。冠位十二階は、日本で604年に制定された日本で初めての冠位・位階であり、朝廷に仕える臣下を12の等級に分けた。「冠位十二階」「十二階冠位」「十二階冠売り場」となる。言葉遊び、筆者はこのようなタイプの言葉遊びをヒントにできた作品は嫌いではない。本歌は馬鹿馬鹿しいと言えばそうかもしれないが、単なる言葉遊びに終わらないしっとりした叙情を湛えている。下記の歌も叙情歌である。

 抱き寄せる腕に背きて月光の中に丸まる水銀のごと

 孵るものなしと知ってもほおずきの混沌(カオス)を揉めば暗き海鳴り

 「水銀のごと」が儚くも怪しい。「暗き海鳴り」と歌の陰影の冥さをます。今更、天真爛漫に多幸的な叙情歌を歌ってどうすんの的なふてぶてしさは穂村のポリシーでもある。

(7)終わりに

 穂村短歌が一筋縄ではいかないことはごく僅かな例を引くことによってすら、明瞭に理解できる。理知的なイロニカルな叙情性の万華鏡としての穂村の歌は現代性を短歌にどのように持ち込めば良いかというテクニカルな豊富な実例を歌人に示している。これに触発されて次々の多様な穂村チルドレンが誕生したことを筆者はいとも簡単に信じられるのである。
 俳句界には穂村のように俳句の革新に向けてマスメディアを通じてマルチにカリスマ的に影響力を発信し続けている若手俳人はいない(ある程度年齢が行っている「若手」も含め)。それは、前回の「短歌は若者の器か」に書かせていただいた俳句と短歌の本質的な差異によるところが大であろう。短歌が若手の歌であるからこそ若手の騎手も容易に現れる。一方、俳句ではなかなかにそうはいかない。ただ、戦中戦後の若手俳人による俳句の革新がなされたことを思い出すならば、俳句にそのような負の特性はあるとしても、やはり革新は常に若手から起こることは俳句に関しても間違ってはいないであろう。穂村短歌が俳人に与うる啓示があるとしたら、それはこの仮説を支持するものになるであろう。

短歌作品評⑨ 小津夜景から加藤治郎へ  ガリガリ君と、夏の思い出。

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作品   ヘイヘイ 加藤治郎 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-08-05-18644.html   評者  小津夜景       加藤治郎の新作が出たので感想を、との依頼があった。タイトルは「ヘイヘイ」。一瞬どうして私が?と思ったが、先方の説明によると、今度の彼の新作は短歌×詩のコンポジションである、ついては複数の詩型を融合させて作品をつくるあなたにそれを読み解いてほしいのだ、とのこと。
とはいえ「ヘイヘイ」は「読み解く」といった硬質な響きがこの上なく不似合いな作品である。たしかに加藤は大胆な比喩や措辞をもってして世に知られる歌人ではあるが、「ヘイヘイ」は物語全体が大変分かりやすいイメージで展開されており、またこのことは加藤から読者に向けられた本作の企図が、読解のスリルよりもコーヒーブレイク的快楽に置かれていることをシンプルに物語っている。実際この作品を読んでわたしが感じたのは、クールでこなれた描写からなる、軽いペーパーバックを繰る午後のひとときのような快適さだった。

そう、ペーパーバック的洗練という観点からみて「ヘイヘイ」はきわめて質の高い作品だ。舞台は夏。それも最も夏らしいといえるような日々である。作品は広々とした青空を底なしの背景として据えながら、作中人物の行為を近景としてさりげなく描く。そうしてこの作中人物が、この夏をいつもと同じように過ごしつつ、過ぎ去った(おそらくはただ一度きりの)あの夏を回想するようすを追ってゆく。   便箋に青いインクがしみてゆくお元気ですか夏のゆうぐれ

ダウンロードのゆっくり進むファイルにはハイアイアイと歌が聞こえる

雲の下にあるかなしみと雲の上にあるかなしみとどっちが軽い

冒頭の三首。読者を引き込むために、初手から加藤が紋切り型もかくやとばかりのロンサムな物腰を、迷いなくソリッドにキメてきたことに私は感動する。また一見センチメンタルに見えて、一首の中に無駄な情緒が皆無なのもいい。作品のてざわりはフラジャイルでありながら、しかしムードに流されていない。三つの歌の景の切り取り方も、抒情を捌く手つきも、それらが繰り出される順序も、まるでCMのように最適化が効いている。

どこかの夏に降り立って
缶コーヒーを飲んでいる
返事を待っているばかり
生きているのかわからない

ここに間奏詩(インテルメッツォ)を挟むことで、物語の情感は流れに乗ることなく一度クールダウンされ、作品全体の雰囲気が明るく、さわやかで、すっと自立した感傷に留められているのがわかる。ところでこの、CM的洗練からのフィードバックを強く感じさせる四行については、詩というより変則的な詞書であると捉えた方がすっきりするだろう。というのも、本作の詩と短歌との間には互いの形式のあり方を意識させる種類のせめぎあいがなく、むしろ状況の補足・調整のための積極的親しさが感じられるからで、また正味のところ詞書の発展系が歌物語であることを思い返してみても、この四行は進化した詞書そのものだからだ。つまり「ヘイヘイ」における詩的形態の導入は〈形式の混在〉を演出することでテキストの多声化を図りつつ、同時にきわめてプラグマティックに物語のアングルを切り替える意図をもっている、と推測できる。
おもったより、おもったのは、音楽が言葉のなかにあってたのしい

青空のなかにも雲があることのすこしうれしくともだちを呼ぶ

午後からは行き先不明のわたくしでメロンフローズンころころと吸う

「おもったより、おもったのは、」の「、」は思弁と情緒とのあいだの振り子的運動、存在者の存在様式をリズミカルに入れ替えるギアとして機能している。存在者の存在様式にゆさぶりをかけるこのような原始的リズムすなわち「音楽」は、さまざまなヴァリエーションでもって加藤作品のいたるところにその跡ととどめている。私の感じるところ、加藤作品における大胆なエクリチュールは、おしなべて読者の身体に直接訴えかけるてごわい弾力性を孕んでおり、またこの弾力性こそが彼の作品の生命力の核心となる。これを外見上〈記号的遊戯〉に見える部分にこそ、実は加藤の〈肉体的本性〉が生々しく湧き躍っている、と言いかえてもよい。加藤による記号との戯れが書斎派のそれとは違い、荒削りで不統一なカオスを感じさせるのも、つねに肉体を実感でみたそうとするディオニソス的衝動でもって、記号という秩序すなわちアポロン的なものを掴みとる性癖のあらわれなのではないかと思う。

また「青空のなかにも雲があることのすこしうれしくともだちを呼ぶ」の「雲」が、ロンサムなモードに最適な符号であることにも一応触れておく必要があるだろう。雲ひとつない青空は、あまりに果てしなさすぎる。無窮のさびしさを癒す「雲」は自然のなりゆきとして「ともだち」の観念を召喚し、またこう考えると、この歌にはいくぶん漢詩的な伝統が息づいてもいる(もっとも「ヘイヘイ」は、どの語の背後もあっさりとしており、こうした意味づけをこれっぽっちも当てにしていないが)。さらに言えば「午後からは行き先不明のわたくし」と「ころころと」も、漂流感覚をありのまま読者に伝えている。

砂漠の色の夏の午後
ホットケーキを裏がえす
ナイフとフォーク用意して
宅配便を待っている

この四行についても同様に、詩の形態(形式ではなく)をした詞書であると捉えると見晴らしがいい。ここではまず「砂漠」という把握が効いている。やはり「ヘイヘイ」の大地はひろびろと乾いた色をしているのだ。次に「ホットケーキ」の色と質感がよく、さらに「宅配便」といった外の世界と内の世界とを循環するマテリアルが、以下につづく回想を自然に引き込んでいる。
蜂蜜の流れる部屋にきみといるなんに濡れたか分からない髪

水風呂に夏のひかりのみちていてあなたの指がおへそをさわる

つめたい雲がまぶしくて
おなかの上におりてくる
あたっているのあたってる
シャワーの水はくすぐったい

感覚を介して受けとめる光の変化、温度の変化、空気の質感の変化。光や水が肌にふれるときの、言葉にならない幸福感。夏という舞台だけが表現できる性愛の解放。五感をいっぱいに広げて世界を掴むことは、加藤作品における真に基礎的な意味での土台である。この土台を〈幼児性〉という視点の導入によって解き明かそうとする者は多く、その一人に柳本々々がいるが、先日柳本と加藤の歌について語り合っていたとき彼はこの特徴を〈五感の総動員〉と言い直してみせた。

五感の総動員。たしかに「ヘイヘイ」から溢れ出す真のテーマも〈あの感覚を、カラダが今でも覚えている〉といった告白だ。しかもそれは非常にあっけらかんとした告白であり、個人的心情の内部にたてこもったそれではない。あるいは感傷へ深入りしそうなときも、己のアクションでもってそれを阻むのである。

燃えがらのような雲だけういている沈んでいるまた起き上がるから

八月になってもなにも起こらない線路の前に立っている影

はちみつ色の道をゆき
ゼリーの壁を指でおす
ヘイヘイというあんただれ
顔があったら見せてくれ

流浪の象徴である「雲」が「燃えがらのよう」になったという空の把握。もう何も起こらない(あの夏はそうではなかった)「線路」の前にすっと立つ「影」という地の把握。作中人物の記憶している〈あの夏〉は天地のどこにも存在しない。

だが無論「ヘイヘイ」は失われた時間の旧懐がそのストーリーの本意なのではない。むしろ記憶の背後に感慨すべきものなどなにもないといった、クールな認識がこの作品の語っていることだ。「ヘイヘイ」において、記憶とは人生の蜃気楼であり、まるで心を置き去りにするかのように、カラダだけがそれを覚えている。まただからこそ「ヘイヘイというあんただれ/顔があったら見せてくれ」と加藤は書くのだろう。そっと幽霊に、語りかけるように。
どんなあしたがこようが俺は生きてやる ガリガリくんはソーダ味だな

ヘイヘイという、あの夏に立つ蜃気楼。最後の一首で作中人物は、その歌声が喚起する行き場のない感傷をアクションで振り切ってしまう。もちろんそのアクションとはガリガリ君を噛むことだ。この夏のゆうぐれの風景の中で。    

短歌評 短歌を見ました 鈴木 一平

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 『穀物』が見つかったので、続きを読んでいきます。

 詩のなかで短歌や俳句といったジャンルの作品が使われていると、初めと終わりの流れを読む時間に亀裂ができるというか、短歌や俳句らしい部分を飛び石伝いに読んでしまいます。詩は後景に退き、読む目を包み込む空間になることで、作品に生じる奥行き。それは、読み飛ばされる行のいくつかにも俳句や短歌が埋め込まれているのではないか、という期待のために波打ち、観測のたびに詩が立ち上がるかのようです。とはいえ、たいていは前後に行が空けられ、それとわかるような体裁になっているので、いわゆる詩型を持った作品は、形式を可視化する余白を含めて作品であるといえます。もちろん、余白は恣意的な空白として強調されることなく並列される行同士の間にも、ごく薄く張り渡されています。
 飛び石伝いに作品を読むとは、目の前に広げられた紙面の限定を弱め、紙面と読みのあいだに余白を立ち上げることを意味します。私たちはこの余白を通して作品を読んでいます。余白は複数の配置に埋め込まれた作品同士を重ね合わせ、形式から価値のある意味を引きずり出す。目の前の言葉同士の配置関係に依存し、作品として自律しているかのように思えたイメージが移動を始めるとき、言葉が文字通り動いて見えるようです。

(1)

  十指のみ動かしできる予言かな剣を手にするKかざせば

  忘年のために覚えし手品あり幾度か晒す年跨いでも

(2)

  大飛出、蛙、山姥 追憶にあなた方の顔が見えない

  分数を蛙に何故か教えたることが残りし記憶のひとつ

 廣野翔一『虹を出す手品』は、作品同士の近接性によって生起する象が特徴的です。(1)「十指のみ」では手に持つトランプのキングの剣を握る手と、それをかざす指が示され、入れ子状の関係が作品の自律性を強調しつつも、その構図は「手品」によって受け止められ、忘年会の余興として次作品に埋め込まれます。「幾度か晒す年跨いでも」と示される反復性の提示は、前掲の作品が提示する「予言」と呼応し、予言としてかざされる身振りが繰り返し行われるという鈍い再起性を生み出しています。
 (2)「大飛出」でははじめにいくつかの能面が提示されたその下で、「あなた方」と呼ばれている顔が配置されています。「あなた方」は能面とともに能面ではないだれかの顔の存在を暗示させつつ、それが見えないことを「仮面によって隠された顔」のイメージをとおして強めているようです。そして提示される「分数を」では、「蛙」と示される対象がカエルを想起させることでユーモラスな情景を匂わせつつも、前掲「大飛出」によって能面の蛙が被される。

(3)

  野良犬が骸避けたり後続車我に続いて避けたるを見ゆ

  前門の客、後門の大飛出いずれにも負け街を追われき

「野良犬・我・後続車」と「客・街を追われたもの・大飛出」の組み合わせから、前者の作品において異質な「骸」と後者において明文化されず、従って作中主体に帰着される「街を追われたもの」が呼応し、その結果として明文化される作中主体「我」に折り返される「骸→街を追われたもの→我」という構図が見られます。
 作中主体と書きましたが、この連作は作品同士の換喩的な言葉の組み合わせをとおして、作品内部に固有の位置をもたない人間、普段は作品の外で生活をしているだれかの姿を、わりあい具体的なプロフィールといっしょに浮かび上らせる点が特徴的です。

(4)

  片方の腕で成し得ることなれば鳥居のごときクレーン動く

  点検の前に残水を吐かせおりうつ伏せの後逆立ちをさせ

  父に叔父そして祖父みな泥を掘る職を選べり業のごとくに

 上記(4)に挙げた作品のほかにも、おそらく土木仕事に関係する語彙があちこちに見られ、傾向的な同一性がわりあい強く結ばれます。これが、いわゆる作中主体や、語り手と呼ばれる枠組みに言い換えられます。語り手は言葉の配置が生み出す意味が結実し、できる限り矛盾の少ないかたちでつくりだされるイメージとして、言葉を操作する視点ですが、語り手自体は配置によって操作可能で、これは署名によって示される書き手自身の存在や、書き手による言葉の配置が持つ傾向性と合わせて、作品がどのように意味づけられているのかを知るための手がかりとして機能しています。
 作中主体は作品がつくられると同時に生まれるのではなく、作品が読まれ、そこで描かれているものがどのようなものなのかを評価するにあたって設定されます。作中主体という要素を概念として意図的に使用しない限りは、作品ごと、または作品間の言葉の並べ方をもとにあらわれる語りの影から、よりふさわしい輪郭を組み立てていくのが基本だとおもいます。(4)の作品をそれぞれ単体で読むのか、連作による一連の流れのなかで読むのか、それぞれの見方で「クレーン」や「点検」の意味は異なりますし、後者をつよく念頭に入れるのであれば、これらの語は作品が作中主体のプロフィールに関わりうるものとして与えられています。「鳥居」の意味も「風俗の話題があがる 遠き日にかじった宗教学を思うね」といった作品をとおして、かつて宗教学を学んだ私と土木業に従事する私から、物語のようなものも組み立てられます。そのまま、「声殺し夜の鳥居の前を過ぐ墓の前ではなけれど怖し」や「仮説材使いて髪に近づける人間聞かず 春の建築」にも接続します。個人的には、次に引用する作品同士の組み合わせが面白いとおもいました。「潜める」「沈黙」をとおして、「鹿」(もしくは「筍」)と「上司」の重なりを媒介する山。

(5)

  雨降りの街の光は眩しいか山に潜める鹿を思いて

  裏山に入りてしばしの沈黙ののち、筍を抱いて上司は

 こうしてある言葉を別の視点や時系列で使用することで、作中主体はそれぞれの私が属していた作品を飛び越えて、言葉が持つ価値を計算し、その意味を深めていくとともに、意味が抱えうる領域を広げていきます。書き手と作中主体が出会うのは、こうして言葉が並べられ、作品が並べられていく、余白を背にした配置関係を通してですが、それらは作品ごとに異なる意味を組織するので、作中主体はバラバラな視点を持っているからこそ、より強固に立ち上がるのかもしれません。
 ところで短歌や俳句は、数ある表現ジャンルのなかでも作品に題名が付されない点で特異性を持ち、作品と書き手の関係は題名を媒介せずに結ばれることが多く、分かちがたいつながりを感じます。連作にはかろうじてタイトルがつけられます。連作は作品自体の固有性をゆるく包み込む枠として、収録作間に余白を呼び込むことで、連続的な順序を離れて収録作のあいだに動き出す言葉の配置をつくります。とはいえ、歌集に収められたときに連作は章題へと繰り上げられるので、やはり題名とは異なる、不思議な立ち位置のような気がします。 

 短歌相互評⑩ 浅野大輝から濱田友郎「旅番組について」へ

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 作品 濱田友郎「旅番組について」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-09-02-18717.html

 評者 浅野大輝

 

旅番組は日常のなかに存在しながら、旅という非日常の世界を映し出す。濱田友郎「旅番組について」は、そうした日常/非日常の接近や拮抗を感じさせる一連であると思う。

 

こらーって何年ぶりに言われたかわからずソファに麦茶をこぼす

 

①部屋でくつろいでいて、何かの瞬間に「こらーっ」という声を主体は聞く。驚いた主体が、思わずソファに麦茶をこぼす。

②「こらーっ」と言われたのは時間的には過去の話で、それを主体は「何年ぶりに言われたかわからず」と思い返している。ぼーっとそのことを考えているうちに、ソファに麦茶をこぼしてしまう。

 初読のときは①の読みとして捉えていたのだが、読んでいるうちに②の読みを取りたくなった。「何年ぶりに言われたか」という自身の内省は、いまこの瞬間に成立する思いではなくて、ある程度の時間をかけて過去を思い返すことで成立する思いである。①の読みではその認識がうまく掬い取れない。驚いて麦茶をこぼすのであれば、「こらーっ」という声のあと瞬間的に麦茶をこぼすほかなく、「何年ぶりに言われたか」という思いは歌をつくる段階で呼び出された後付けの説明という性格を帯びてしまう。

 ②の読みであれば、そうした認識も歌の読みに捉えることができる。むしろ、現代口語による時制表現の上で、主体の認識やその動きが巧みに表現されていると考えることができるのではないだろうか。歌のなかには過去の情報もあるが、それはあくまでもいまこの瞬間の主体の心において生起している事柄なのである。主体がいま生きているということが、確かなこととして感じられるようにも思う。

 言い方にもよるけれど、「こらーっ」というのは基本的には注意喚起のための言葉である。ただ、それを「何年ぶり」と考えてしまう主体の様子を見ていると、どことなく温かみのある「こらーっ」が想像される。

 「麦茶をこぼす」という言い方は、〈意図せず麦茶をこぼしてしまう〉場合にも、〈意図して麦茶をこぼす〉場合にも使う。ここにも口語の面白さがある。僕は上の読みで〈意図せず麦茶をこぼしてしまう〉読みをとったけれど、〈意図して麦茶をこぼす〉のも面白いかもしれない。温かい「こらーっ」に再び会うためなら、ソファに麦茶をこぼすくらいしてしまおうかなとも思う。

 

 

ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げてとひまわりに言えるのか

 

 「ミサイルが来る」という時事性と、「ひまわり」の叙情性の交錯が良いなと思う。同時に、「ミサイルが来る」ということがかなり身近な、現実の手触りが感じられる事象として存在していることに改めて驚く。

 「屋内にいる場合:窓から離れるか、窓のない部屋に移動する」という文言は、最近よく耳にするものだろう。これは内閣官房国民保護ポータルサイトに掲載されている「弾道ミサイル落下時の行動について」中の一文であるが、「ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げて」というのはそのメッセージを受けてのものと推測できる。このメッセージは、自分の意思で移動できるものを主な受け手として想定したものである。

 「ひまわり」が選ばれた背景には、植物であって基本的にはある1箇所に根を張って生活しているという事実や、時に太陽を追って動くとされる、夏の輝かしさのなかに直立するイメージがあるのだろう。またもしかしたら、震災以降ひまわりが放射性物質を吸収するというデマがささやかれたことなども影響しているかもしれない。

 ミサイルが来るから窓のない部屋に逃げてくれとひまわりに伝えるのは、非常に残酷なことである。そもそも自分の意思で動くことができない上に、たとえ移動できたとしてもその先は自身にとっては地獄のような暗闇なのだから。

 何らかの危機によって住み慣れた場所を捨て、過酷な環境に身を置かなくてはならないという状況は、人間の避難行動にも当てはまる。この歌で扱われる「逃げて」という言葉の背後には、土地に根ざして築き上げてきた暮らしを捨てよと伝える残酷さと、たとえ過酷な環境に向かうことになってもとにかくいま生きて欲しいという願いの苦しみとが、せめぎあっているように思えてならない。

 

 

駅にある小さな本屋に選ばれた小説なのだ 雨はつづいて

 

 まず、歌で語られる発見に素直に頷いてしまった。

 「駅にある小さな本屋」では、小規模でも最大限の売り上げを出せるように、なるべく広く支持を集めうる話題書が多く並ぶ。自分はいつも「話題ばっかり追いやがって」となんとなくひねくれた気持ちで見てしまうが、しかし良く考えてみればその本たちは、その小さな本屋のスペースを占有するに値すると判断された先鋭たちなのである。「〜なのだ」という断定により、そうした日常のなかの発見が鮮やかに立ち上げられているように思う。

 一字空けのあとの「雨はつづいて」では、突然視線が目の前の「小説」から風景へ向けられる。この視線の移り変わりで、少し歌の景をどう取るかが分かれてくるかもしれない。

①主体が小さな本屋で販売されている小説を見て、その小説が選ばれた本であるということに気づく。ふっと本屋から外へ顔を上げると、雨が続いている。

②主体は小さな本屋で購入した小説を読んでいて、ふいにその小説が選ばれた本であったことに気づく。ふっと小説から顔を上げると、その先ではまだ雨が続いている。

 個人的には、②の読みを取りたい。書店で顔を上げた先に雨の風景があるというよりも、本から顔を上げた瞬間に一気に外の風景に引き戻されるという体感の方が、唐突な「雨はつづいて」への接続に即しているように思える。また、たとえば「小説がある」「小説だ」という言葉と比べると、「小説なのだ」という言葉にはどこか本の内容を一度引き受けた上で、改めて「そうであったのだ」と発見し直すニュアンスが強いように思われる。そう思うと、書店に並ぶ小説をぱっと見たときに思ったというよりは、小説を一度手にとって開いて、それからふっと思い至った実感がある気がしてくるのである。

 

 

限りなく高貴なものと限りなく俗なもの yeah 苔むす寺に

 

 そこで「yeah」なのかよと笑ってしまったのだけど、リズムがとても好きで初読のときから気に入ってしまった一首だった。

 この歌のリズムを大まかに捉えるとしたら、〈5・7・5・5+2・7〉という形になるだろうか。通常の短歌定型〈5・7・5・7・7〉には、〈5・7〉のリズムの反復があって、その後に〈7〉が添えられて歌い納められるという長歌以来のリズムの構成意識が残されている。濱田作品の前半部分にあたる〈5・7・5・5〉というリズムでは、この〈5・7〉というリズムの反復が不完全な形で中断されるため、安定した〈5・7〉の形に早く解決したいという欲求が生まれてくる。リズムの中断と解決への欲求がタメを生み出し、〈+2〉の溢れ出るような勢いを作る。この〈+2〉部分でのリズム的欲求解消のために「yeah」という言葉が選びとられているのが、まさにラップにおけるフロウのようで心地よさが感じられる。

 「苔むす寺」における「高貴なもの」と「俗なもの」の共存は、非日常と日常の拮抗に通じるイメージだろう。非日常と日常の交錯によるエネルギーとリズムのエネルギーとが結託し、一首を興味深いものにしている。

 

 

ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね……

 

 一連のなかで最も好きだったのがこの一首。

 いくら「ドーナツを愛する母」だからといって、「年金」がすべて「ポン・デ・リング」であったらきっと困ってしまうのではないかという気もするが、この作品中ではそうした日常的な考え、社会通念の転覆が図られる。「ならね……」という言いさしには「そうであったら良いのに」というニュアンスがあるから、むしろ「母」の「年金」がすべて「ポン・デ・リング」であるという非日常の方に価値が置かれていることになるのである。

 また下の句の「ポン・デ・リング」でのリズムの取り方も注目すべきだろう。普段ポン・デ・リングという単語を口にするときには意識しない「・」、そして言いさしの「……」という微妙に質の違う休符がそれぞれ活用されることで、下の句のなんともならないような、希望に対する歯切れの悪さが巧みに表現されている。

 ドーナツを愛するからといって、「母」の年金はポン・デ・リングにはならない。それは非日常的な願いが、日常的な通念に負けてしまっている様子でもあるのではないだろうか。リズムにおける歯切れの悪さには、そうした状況への悔しさや諦めきれなさが見え隠れしているようにも感じられる。

 

 

踊りたいというか踊らされたくて旅番組のような生活

 

 旅番組においては、さまざまなタレントたちが旅という非日常の時間の演出に駆り出される。それは自らの意思で踊っているというよりも、背後にある番組構成上の都合に踊らされているように見える。この歌の特異さは、そうした踊らされている様にむしろ興味を抱いている点にある。誰かによって踊らされるというのは、自分の行く末が他者の手に委ねられているという状況ではあるが、一方で自身のことを心配せず他者に任せておけば良い状況でもある。主体の願いの後ろ向きな明るさが、危うさをはらんだ魅力として感じ取れる。

 加えて「旅番組のような生活」というのも、非日常と日常が混ざり合うような不思議な直喩と言えるだろう。「旅番組」は日常のなかにありながら非日常を提示する特殊な存在であると同時に、虚構性の強いものでもある。対してそれと取り合わせられる「生活」は、時にそのまま日常を指す、現実性の強い言葉である。この二つのイメージが接続されることで、虚構とも現実ともつかない、浮遊感のある「生活」のイメージが新たに形成されている。

 誰かの手によって踊らされている不穏な安心のなかで、現実味の薄い「生活」を楽しく送ること。それは許されないことなのかもしれないが、だからこそ淡く願ってしまうものであるようにも思う。

 

 

セフレじゃないよね? うんむしろビートルズかもねロンドンの屋上の

 

 一連のなかでは時折、他者との対話が顔を覗かせているが、この一首はそうした対話性が顕著に表れているタイプの作品と言えるだろう。

 「セフレ」=セックスフレンドは肉体関係のみの、ある意味割り切った関係性。となると、対比されている「ロンドンの屋上の」「ビートルズ」は、簡単には割り切れない、相互に深く絡み合ってしまった関係性であることがこの一首からだけでも想像できる。

 歌の外部情報を含めて読みを進めていくと、こうした「セフレ」と「ビートルズ」とが表現する関係性の違いはより明瞭になる。「ロンドンの屋上の」「ビートルズ」は、1969年1月に行われたルーフトップ・コンサートでの彼らの様子を想起させる。ビートルズがロンドンのアップル社屋上で行った、事実上最後のライヴ・パフォーマンス。バンドとして活動しながらも、彼らの関係はすでに破綻へと向かっていた。終わりを互いに感じながらも、そう簡単に互いを割り切れない、利害や愛憎の入り混じった関係性。「うんむしろビートルズかもね」と切り出すさまは、たとえ終わろうとも簡単には切り離せないような関係を、相手との間に希求しているものであると言えるだろう。

 

 

たち消えたアイデアたちがぼくを航空母艦で待っていたらうれしい

 

 「たち消えたアイデアたち」が、どこかで自分を待ってくれているのではないか。そうした願いにまず共感する。この歌でのポイントは、そんなアイデアたちが待っている場所として期待されているのが「航空母艦」である点と、あくまでもそこで「待っていたらうれしい」とだけ伝えている点にあると思う。

 アイデアは気がついたらどこからか湧いてきたり、気がつけばどこかに消えてしまったり、非常に自由な存在である。そう思うと、彼らは人間のように足で移動するというよりは、もっと軽やかな、翼などで空を飛び回るものであるように思われてくる。そしてアイデアは人工的な産物でもあるから、きっと人工的な飛行体を受け止める、航空母艦のようなところで離着陸を繰り返すのではないだろうかと想像される。

 また、あくまでもそうしたアイデアたちに対する主体の思いが「待っていたらうれしい」という控えめなものであることにも、何か優しさのようなものがあるだろう。すぐさま戻って来いというのではなくて、いつかまたどこかで会えたら良いという、淡い未来に対する期待なのである。

 自分の手を離れてしまったアイデアに対する想像。そこに生まれる優しさ。日常から非日常へのやわらかい視線を感じる歌だと思う。

 

 

奨学金決まったきみがこれからは毎日食べるトルコのアイス

 

 シンプルな佇まいの一首ながら、さまざまな思考を呼び起こす歌であるように感じる。

 「奨学金」というのは、言い方を変えてしまえば未来の自分の負債である。その時は金銭的に潤うが、将来的にはそれを返済していかなければならないことになる。学生時代という特殊な時間を確保するための、あくまでも一時的な潤沢なのだ。

 そんな「奨学金」をもらえることが決まった「きみ」が、「これからは毎日食べる」という「トルコのアイス」。ここでの「毎日」は、永遠のようでいてもちろん永遠ではない。どこかで必ず終わりが来てしまう。それはトルコアイスのどこまでも引き伸ばされていくようなさま、どこかで必ず途切れてしまうという運命ともリンクする。

 永遠に続くようにも思える、人生におけるわずかばかりの時間。どこかで途切れてしまうことを考えると、そうした時間はきっと日常のようでいて限りなく非日常的な時間でもある。

 

 

わたし眠る われら府民の淀川に低体温症の蟹眠る

 

 「わたし眠る」というのは、連作中にも表れていた「きみ」の発話だろうか。それとも、この歌の後半に登場する「蟹」の発話だろうか。もしかしたら、自分の発話ということもあるかもしれない。

 個人的には、冒頭部分は「きみ」の発話として一首を読んでいた。「淀川」というものを想定するときは、自分が見たり感じたりしているものが「川」であるとわかる程度にマクロな視点で観察しているような印象を受けるから、主体と「淀川」の間には物理的距離があるように感じられる。そうなると、「淀川」で眠る「蟹」と主体との間にも物理的距離があることになる。「わたし眠る」は、助詞抜きの効果も相まって他者の発話をその場で聞いているような印象があるため、なんとなく心理的にも物理的にも近い位置にいる「わたし」=連作中の「きみ」がいるような想像をする。これらの感覚が合わさって、主体が「きみ」の発話を聞いていて、それとは少し異なった位相に「淀川」や「蟹」がいる、という景が頭のなかに浮かんでくる。

 一般に人間や恒温動物に現れる症状である「低体温症」を変温動物である「蟹」の修飾に用いることで、「蟹」に人格が与えられ、どこか特別な存在として彼らを立ち上げる。「眠る」と発話する「きみ」も淀川に眠る「蟹」も、そしてそれを感じ取っている主体自身も、みな近い場所に暮らしている特別な「府民」なのである。「われら府民の淀川」をハブとして、土地に暮らす者たちの共鳴が生まれているのではないだろうか。

 「きみ」が放った言葉を聞きながら、自分たちの身近に流れる淀川に意識が及び、さらにそこに暮らす生きものたちにも眠りが訪れることに想像を巡らせてゆく。そうして、そこに現れる他者すべてと自身とをリンクさせていく。他者との心理的なつながりが現れた一首であると、個人的には読みたい。

 

 

習慣と運。あとはゲームやわ。千のナイフの降る舗道かな

 

 連作のラストを飾る一首。「習慣と運。あとはゲームやわ。」という発話には、主体の人生訓を読み取ることができるだろう。日常のものとして継続されていく「習慣」と、偶発的に変化を生み出す「運」、そうした日常とは隔絶された非日常の空間としての「ゲーム」。この3つの成分によって生を捉えるという意識が、主体にはあるように思う。

「千のナイフ」というと坂本龍一『千のナイフ』や、そのタイトルのもとになったアンリ・ミショー『みじめな奇蹟』の一節が思い浮かぶ。

 

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突然、一本のナイフが、突然千のナイフが、稲妻を嵌めこみ光線を閃めかせた千の大鎌、いくつかの森を一気に全部刈りとれるほどに巨大な大鎌が、恐ろしい勢いで、驚くべきスピードで、空間を上から下まで切断しに飛びこんでくる。

/アンリ・ミショー『みじめな奇蹟』(小海永二・訳、国文社、1969年)

 

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 「千のナイフの降る舗道」は、ゲームのなかの風景のように見える。非日常な危機である「千のナイフ」が、日常的な場所である「舗道」に降り注ぐという部分に、非日常/日常という両者のせめぎ合いがある。

 

 

 連作全体を通じて非日常/日常の拮抗があることは何度も述べてきたが、読みの可能性がさまざまな方向にひらかれた作品が多いということもまた、連作の特徴として挙げられるだろう。こうした傾向は、コンテクストからテクストを立ち上げる読者の読解力・想像力を信頼していることの証左でもあるだろうか。

 ここまでいろいろと書いてはみたものの、まだまだ多くのものが隠れた連作であるようにも思われる。本作品が多くの読者によってじっくりと読み解かれていくこと、またその際に今回の僕の評が叩き台の一つとして機能してくれることを願って、ひとまず筆を擱くことにする。

 

 

 


短歌相互評⑪ 濱田友郎から浅野大輝「銀の鳥」へ

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作品 浅野大輝「銀の鳥」へ

評者 濱田友郎

 

こんにちは、濱田友郎です。浅野大輝さんの連作「銀の鳥」を評します。この連作はこちら(http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-09-02-18723.html)で全文をごらんいただけます。こちらのオリジナルをどうぞ傍に置きながら、拙文も読んでいただけたらとおもいます。

   ✳︎

感情のすがたを町にするときにどうしてここにある精米所

まず目を引いたのはこの歌であった。「どうしてここにある精米所」、のフレーズ感。思わぬ場所に、あそことかそこにあるんじゃなくて、「ここ」にあるのか! しかも「精米所」が! へぇ~……。下のフレーズ感に負けずに、上句に立ち止まって再読してみると、感情にすがたが(すでに)あるのか? そしてそのすがたを町にできてしまうのか? と、驚くわけだが、どうだろうか。ここでわたしはPCソフト「3Dマイホームデザイナー」や、ゲーム「シムシティ」のことに思い当たる。 

・3DマイホームデザイナーPRO8 製品紹介

https://youtu.be/UqBu3QbEXAU?t=59s

・Japanese TV Commercials [1704] Sim City シムシティー

https://www.youtube.com/watch?v=r39mhkN8Sm4

 

 「シムシティ」では、プレイヤーは市長としてあらゆるインフラを整え、あらゆる建物をたて、さまざまなパラメーターに気を使いながら、住民の質を高めていく。「マイホームデザイナー」シリーズでは、思い思いの家屋の間取り図を平面に与えると、それがぐぐっと具現化されて、スクリーンにぽんと立体の家が建つ。建てた家の中では、いろいろに家具を置いてみたり、その家を実際に歩いてみたりといったシミュレーションも可能になっている。おもしろいのでぜひ触ってみてください。

 

さて歌にもどると、この主体は、頭の中にある感情を、上記のようなソフトウェアにモリモリ読み込ませ、あとはエンターキーを押すことでシミュレートできるという感じだろうか。かくしてさわやかな全能感の眺望を得、町を見渡してみると、おや、こんなところに精米所が…… この驚きは、まず精米所がそのシミュレーターにすでにプリインストールされていたことに対する驚きや喜びだろう(精米所まで収録されてるのか! すげ~)し、自分の感情において精米所の対応物が存在していたことに対する驚きでもあるだろう(精米所的な感情の部分……)。精米所って、初手で玄米を買うタイプのひとにしか必要じゃないし、そんなに使うなら精米機だって買えないほどには高価じゃない。だけど必要になるときもある、そんなものたちへの、なんともいえんノスタルジックな部分ということかもしれん。おもしろかった。また、

              くちなしの北限をもとめるこころありたりきみの言葉のなかに

 

も、似たような前提が共有されているとおもう。まず「こころ」に空間的な部分があること、そしてそれを言葉によってシミュレートし把握する、そんな力能が主体のなかにあること。このような認識にはちょっとびっくりしたが、「くちなしの北限」には、(口無し、の連想も手伝って、)「言えることといえないことの境界」や「言葉でどこまでいけるのか」といった感覚がなんとなくあり、しかもそれが「言葉」の「中」にある、ということで、徹底して空間的な把握のなか、きみとわたしの関係性が感ぜられ、興味深い。ただ、この歌に関しては、きみとわたしの間で、感情を言語化する能力のマウントバトルを勝手にやっているかのような滑稽さもなんとなく感ぜられ(きみの言ったことをこちらはさらに巧みに言語化するぜ、というような主体が感ぜられ)、そのあたりで、これまであまりわたしが短歌で読んでこなかった感触を得た。

連作「銀の鳥」はいくつかの概念の縁語的関係が書き手によって周到に用意され、それによって蜘蛛の巣のような連作の空間を作っているように見える。〈花〉〈鳥〉〈落下〉〈町〉〈旅〉〈夏休み〉などがまずパッと目につくが、そういった作者の用意した線を追っていくのも、連作にとってわるいことではないだろう。まず〈花〉について。

 

消去法なれどしづかに選びだす迂回路すでに花に汚れて

花瑠瑠とよびかけるときやはらかくぼくらのくちにある花の束

水をやりそこねたことも語られて日記に花の飢ゑうるはしき

蕊ふかくふふみて朝顔の中に空ありつねに朝焼けの空

 

一首目はさきほど取り扱っていた〈町〉とも関連する。あらゆる道があるなかでなにか迂回しなくてはいけないし、消去法のなかでその選択肢は多くない。そんななか選ぶ道は「花に汚れて」しまっているという。この歌は集合的な花のにぎやかな下品さみたいなものを使いながら、精神的なゆきばのなさみたいなものを表現しているのだろう。しかし切迫とした感じではない。「しづかに選び出す」には主体の全能感を感じる。

 

 二首目。これホノルルって読むんですね……。この漢字表記は、なかなかお耽美なイメージが美しく、また、いつかクイズで見たら答えてドヤれてうれしい感じの知識です。「やはらかく」や「ぼくらのくち」といった語の流れから、たしかにホノルル、っていう言葉を発音するときのくちのあの感じ。という身体的な共感を読者の口元に流し込みつつ、それを「花瑠瑠」からひっぱってきた「花の束」という喩にまとめている。なるほどなあ。と納得するその一方で、読者を導いてくれるはずの「やはらかく」や「ぼくらの」が、読むときのテンションによっては、読者を囲い込みに来ているような、あのちょっと不潔な感覚を放っていなくもない。「花の束」は、数本の花が、なんとなく、口にふさふさと揺れているようで、ホノルルのトロピカルなイメージともあいまって、良い。

 

三、四首目は〈夏休み〉、という補助線を引いていいだろう。朝顔の観察日記に水をやらなかったことも記入してしまう素直な小学生、それを読んでその花の飢えもうるわしく感じてしまう書き手、というような構図がなんとなく浮かぶ。四首目、朝だけにひらく朝顔は、つねに朝焼けの空をその花のなかに反芻する、という、ロマンティックな把握+仮構・加工をバシっと決めているが、なんといってもその中心に大切に「蕊」を「ふふ」ませているのが、どういったらいいか、なんとも……気持ちわるいかんじで、文体のあざやかさもあいまって、独特の存在感をはなちつつ一連を終えている。

 

こうしてみてみると連作内で花は汚れたり、飢えたり、口にはさまったり、蕊をふくんだりして、なかなか大変そうだが、その概念としてはさまざまに両義的な意味がぶちこまれているようで、このように花のモチーフになんども立ち返る書き手のみぶりは執念深い。

 

つづいて〈鳥〉や〈落下〉について。

 

銀紙を小さな銀の鳥にするきみはゆふぐれ祈りのやうに

落鳥といひてしばらくうつくしき鳥の落下をまなうらに見ゆ

想像のなかになんどもたふすため咲かす想像上のくちなし

もういちど、とだれかが告げてもう一度夏にたふれてゆく遊撃手

だとしてもひとの祈りが白鳥を描く晩夏の夜はろばろと

 

一首目、例えば千羽鶴を折るような情景が一読で思い浮かべられると思うが、鶴を折る行為の〈祈り〉性がすでに共有されている読み手には、「祈りのやうに」は直喩としてはもちろんピンボケにみえるのだけど、それだけ「きみ」の行為や「銀の鳥」がまぶしく、尊く見えてしまったのかもしれない。

 

二首目、三首目などは、想像のレベルででものを落としたり、倒したりするのを見る、そしておそらくはそれはいくらでもまなうらで上映されるのだが、なぜそんなことを? と、読み手としてはやきもきするのだが、ぽとりと落ちて鳥の死ぬ「落鳥」という語を「うつくし」く仕立て上げなければならないような、強迫的なものに書き手は駆動されているのかもしれなくて、なんどでも繰り返し上映されるイメージの中で、その痛みをなんとか薄めたい、さらにはそれをエイヤッと無化しようとしているのが「うつくしき」だ、というような姿がうっすらと見えてこなくもない。そんなんで咲かされるくちなしの気持ちにもなれば? と思うこともあるが、書き手はそのような水準は問題としていないのだろう。というように、なんとなく不安を感じる歌たちだった。

 

四首目でもそれらと似たことが厳かに、どこか儀式めいて演じられている(だれかが告げて、のあたりが)。景としてはテレビで甲子園のリプレイを見るようなことを思い浮かべたらよいだろうか。まず「夏にたふれてゆく遊撃手」のイメージの喚起力が高いこと。そして「もういちど」、そして「もういちど」と、アンコールにこたえるようにして継起的にそれが再演されること。そのふたつが先ほど見た二・三首目とのちがいで、二・三首目の自傷の印象にくらべてこの歌になんとなく明るさや救いが感じられるゆえんではないだろうか。

 

かつて一首目では「祈りのやうに」折られた銀の鳥であったが、五首目ではひとのいのりが白鳥を描くという、この逆転についての自己言及が、その初句の「だとしても」だろうか。うーん、ひとの祈りが白鳥をえがくというのも、難しいが、でも祈りが、なにかの超越的な存在をまるで経由しないかのようにそのまま白鳥を描いてしまう、という祈りのイメージにはなんだか奇妙なデフォルメが効いているようにも思う。以下はかなり直観的なものいいになってしまうが、この連作における〈祈り〉には、超越者がいるようで、でもやっぱりいないんじゃないか、という気もする。超越者へ垂直に接近していくことを、どこか最初からあきらめてしまっているような感じ。ということはこの祈りは儀式することが大切で、けっきょくひとの祈りはひとのものになるのだろう。また、

 

さうだなあ すべてがきみにもどること 上着のなかに日差しは残り

 

などをそういった線の上で読むと、主体にとっての超越的な存在は〈きみ〉だったのかもしれないし、その吸引力にはなすすべもないのかもしれない。というような落としどころも発見できるだろう。

 

連作全体としての感想をざっくりと書く。わかりやすい取っ手としては〈花〉〈鳥〉〈落下〉〈旅〉〈町〉〈夏休み〉などがあり、縁語的な連関にわたしは導かれる。こういったモチーフの連関によって一首一首が細い糸で結ばれて、それらの線はたくさんの軸を渡って、蜘蛛の巣状のネットワークをつくっているように思われる。それは世界の緊密さやしずけさ親密さを思わせる(そしてそれらは連作内で自己言及される)一方、そこには火種がない。縁語が縁語を呼ぶような豊かな類似性の中で、その風穴はとくには空いていない。そういう連作経験だったようにおもう。

 

ちなみにシムシティというゲームではプレイヤー=市長は理不尽な家事に襲われ、市長はその予想外の出費に悩まされることになる(おれの市民は家事を起こしてしまうほど愚かなのか……!)。そういったことがこの町では起こらないかもしれない。「すべて」は「すでに」起こり、「もういちど」「まなうら」で「想像」され、「語られ」る、そんな空気をこの町に感じるのですね。

短歌時評第130回 文語と口語はどちらがはずかしいか 吉岡太朗

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吉岡太

 1

 文語体で書くか口語体で書くかという問題は、私個人にとって割とどうでもいい。けれど世間様はどうもそうは思わないようだ。

 十年くらい前に文語を使ったり口語を使ったりしていたら、「吉岡くんは、どっちでやるの?」と言われた。そんな風に言われたことを別の人に言って「そんなんどっちでもいいですよね?」と訊いたら「どっちでもよくないと思う」と返ってきた。あれから十年経って最近、旧かなの歌を発表したら「あれ? 旧かなに変えたんですか?」と訊かれた。

 私は自分の作風とか自分の文体みたいなものには関心がなくて、そういうことを決めるのは書く自分ではなく書かれる内容の方だと思っているから、その都度内容に合う文体が選択できたらいい、という風にしか考えてないのだけど、何とはなしに他を見渡すとそういう人はあまり多くなさそうで、自分の作品自分の文体を持ったり持とうとしたりして書いているように思う。

 競争戦略上はそっちの方が得なのかも知れないが、私は勝手に窮屈に思ってしまうので、このまえ「別の作風で作りたくないんですか?」とある人に訊いてみたところ、「しない。だって短歌はそういうものだから」という答えが返ってきて、ハッとなった。あ、そっか、短歌ってそういうものなんだ。

 

 2

 そうなのだ。短歌は差異の文学なのである。五七五七七という定型があるが、この定型は単にそれを守って作れというルールではない。個々の短歌を鑑賞する際、基準になるものなのだ。

 分かりやすいところで言うと韻律で、定型を完全に順守していても全く同じ短歌でない限り全く同じ音ということはありえない。リズムがよいとかもたつくとか、明るいとかさみしいとか、音だけでも色々あるのである。基準が決まっているから比較が可能で、明確に違いを示すことができる以上、微差でも内容と結びつけば(明るい内容+明るい韻律など)大きな差になる。

 また千年以上の歴史があるので、新しく短歌を作る場合、過去の有名な短歌が基準のようなものになる。具体的にこの作品みたいな場合もあるだろうし、なんとなく漠然と思い描く「これが短歌だ」みたいなもの――言うなら原短歌みたいなものと比べられることもあるだろう。

 だからどういうことが起こるかというと、「Aである」ということが「Bでない」ということを意味してしまうようなことが起こる。つまり「このような文体で書く」が「別の文体で書かない」を意味し、「口語体を用いる」が「文語体を用いない」になるのである。書き手がどう意図しようが、読者は勝手にそのように意味づけをする。

 だから短歌において文語体を用いる、口語体を用いる、ということはただそれを使う以上の意味を持ちかねないわけであり、その選択が拡大解釈されて、使う人の人間性とかそういう部分にも関わるようなものにもなる。

 思えば小学生の頃に、自分のことを「俺」と言うか「僕」と言うかが、決定的なことのように思えて、どちらにするか迷ったことがあるが多分そういう感じなのだろう。

 

 3

 では文語体と口語体ではどのような差異があるか。ここでは単なる技術的な有効性の違いではなく、「はずかしさ」という観点から、ごく簡単にだが比べてみたいと思う。「はずかしさ」というのは人間性にかかわるような部分だからである。

まず文語体と口語体の関係について、確認しておきたい。以下は橋本治『失われた近代を求めてⅠ 言文一致体の誕生』からの引用である。

「文語体」は「文章に使われる書き言葉による文体」なんかではない。「口語体の文章」が一般的になってしまえば、「文章=書き言葉」なのだから、「文語体=口語体」になってしまい、「文語体」という概念を立てる意味がなくなる。「文語体」が「口語体」に対する概念であるのは、「文語体=古典の文体」と理解されているからである。現実には「書き言葉と話し言葉の対立」があると思われているが、実はそうではなくて、あるのは「古い言葉と新しい言葉の対立」なのである。

つまり文語体とは、相対的に過去の文体であるということである。橋本はこうも言っている。「文語=書き言葉」を前提とする「文語体=書き言葉の文章」とは、本来的には漢文のことであると。つまり今文語体とされる言葉は、かつては今の口語体のように扱われていたということだ。

これは短歌ではなく日本語一般に関する文章だが、短歌にもそのまま当てはめて考えることができると思う。文語体で書くということは、過去の文体で書くということなのだ。

 

 4

衛藤ヒロユキのファンタジー漫画『魔法陣グルグル』の16巻にこんなシーンがある。

主人公の少年ニケが魔物と戦う際に、「勇者の剣」という必殺技を使おうとするのだが、その際にこんな呪文を唱える。

 

火よ

大地よ

水よ

風よ

自然界の王たちよ!

その力――

われに託さん!!

 

しかし呪文は発動しない。次のコマでは、ニケが手をかざしている絵に「しーん」という効果音が付いている。

その二コマ先にジュジュという少女がこんな台詞を言う。

 

プーッ

「われ」だって

13歳の

子供が急に

「われ」

 

強力な魔法や技を使う際に大仰な呪文を唱えるというのは、ファンタジー作品のお約束のようなものである。この漫画ではそのお約束を逆手に取り、日常の感覚を持ち込むことによってギャグにしている。これは非常に示唆的なギャグではないだろうか。

文語体で語ることは、日常の文脈では不自然なことではないだろうか。現在の時制を生きている人間が、急に過去の文体で語り出すのである。しかもわざわざそのように語るのだ。それはおかしなことであり、場合によってははずかしいことではないだろうか。

もちろん「短歌だから」と言い張ればよい。「短歌だから」は文語体で書く者を、不自然さ、おかしさ、はずかしさから守る盾のようなものである。つまり短歌は過去の文体で書かれた言葉が収まるべき過去の文脈なのである。

けれどそこに日常の感覚――つまり現代の文脈が持ち込まれたらどうだろう。「気取ってやんの」「古くさっ」短歌を書く人間に面と向かってそんなことを言う人間はそうそういないだと思うが、そのような視点を書き手自身が内在化した時、はずかしさが生じてくるのではないか。

では口語体ではどうだろう。口語体は現在の文体である。先ほど短歌は過去の文脈であると書いたが、だからといって現在の文体を排斥するかといったらそんなことはなさそうだ。短歌は過去の文体だろうが、現在の文体だろうが、何でも受け入れてくれるように思う。けれどやはり過去の文脈であることに変わりはなくて、現在の文脈とは厳然と区別される。

つまり現在の文脈が海だとしたら、短歌という文脈はそこに浮かぶ船のようなものである。船に乗せられることで、文脈に合わない言葉(文語体)も溺れずに済むことができるが、けれど「船に乗っている」ということにより、海を泳ぐ言葉たちとは厳密に区別される。

口語体の短歌の言葉とは、本当なら船に乗らなくても海を泳ぐことのできるのに船に乗っている言葉である。船は受け入れてくれているが、海を泳ぐ言葉たちからすると「あいつらは俺たちとは違うから」と言って馬鹿にされかねない。

 

 

 5

そもそも「はずかしさ」とは何か。それはズレの自覚であろう。周りからズレていると思った時、人ははずかしくなるように思える。

そういう意味で、ズレがより大きいのは文語体の方である。けれど「短歌である」と言い張ることで、そのズレに鈍感になることができる。ズレを相対化したり、「歴史的に正統なのは俺たちであって、ズレているのはお前らだ」と言い張ることも、やろうと思えば可能である。前章の比喩で言えば、「船は海より広い」という理論を展開することができる、ということである。

それに対し、口語体はズレが少ない。それを限りなくゼロにすることもできるかも知れない。けれど、「短歌である」以上、やはり完全なゼロにはならないのである。どんな自然な短歌であっても、日常会話の中で断りもなく突然引用したら、大概の人はびっくりしてしまうだろう。そして口語体で書くということは、おのずとこのズレにゼロに敏感になってしまうことのように思える。

ざっくり言うなら「文語体ははじしらずの文体」「口語体ははずかしがり屋の文体」ということになる。さて、どっちがましだろう。

 

引用

橋本治『失われた近代を求めてⅠ 言文一致体の誕生』2010,朝日新聞出版.

衛藤ヒロユキ『魔法陣グルグル(16)』2003,スクウェア・エニックス.

短歌相互評⑫ 中家菜津子から柳本々々「ようす」へ

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短歌作品  柳本々々「ようす」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-10-07-18782.html

評者 中家菜津子


あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

 

馬場さんは、愛とは牛肉のかたまりのようなものかとおもっていた。肩ロースのかたまりとかなんとか。そういうごろごろっとしたものが愛だとおもっていた。血がしたたるような。はなが舞っているなあ。

 

でも、バケツいっぱいのあめ玉のような愛もあるのかもしれないね。こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの。からだにとりこむような。小学生のころ、隣の席の女の子が机にぎっしりとあめ玉をつめこんでいた。馬場さんはそれをもらったことがある。

 

いったいわたしたちどう歩いていけばいいのかな、と友人が言っている。あめ玉はなめなければ、石のように固いね、と友人がいう。ようす

 

 

*

 

ようす。短歌だけれど。こんな風に読めた。呼んだのかもしれない。韻文を意味の上では散文として。だけどリズムはうたうように。

 

*

 

馬場さんへ

馬場さんのことは、知らないんだけど。馬場さんのことをよく知ってる人がいて。その人を通じてあなたを知ってる。だって、わたしは知らない。誰かが愛をどんなものだと思っているかなんて。あれ、知ってた、わたしの好きな作家は、「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」って言ってた。でもそれは、直接聞いたからじゃなくて、読んだから知ってるんだよ。恋人が愛をどんなものに例えるか思いつかない。それなのに、馬場さんが愛とは牛肉のかたまりのようなものって思っていたのを、この人は知ってるんだから、馬場さんのこと、とてもよく気にかけてる。過去形だから今は、そうは思っていないことまで知ってるんだ。なんだか。羨ましいな。

馬場さんの思っていた愛は、触れるものだから、体感としてわかりやすいな。存在からポエジーが発生するとき、発生したポエジーをメタファーで書きとめる方法と、存在そのものを書きとめる方法があって、他にもあるけど、短歌は後者を武器としていて。ここでは、ポエジーのメタファーとしての肉。でも目の前に確かに存在しているような生々しい肉。かたまりを二回強調して、部位までいったからかな。その表現が面白くて噛みしめた。わかるよ、肉感的な、あ、的じゃなくて肉そのもののか。質量やなまみの感じ。時間と空間を占める密度。ゴーギャンのハムの絵みたいだな。アガペーとエロスで言うならエロス。「血がしたたるような。」は肉にも。はなにもかかっていて。きっと薔薇なんじゃないだろうか。はなの内部は裏返った肉体そのものかもしれない、存在することへの狂おしい希求を感じるよ。でも、馬場さんは、今はちがうんだよね。そのことをこの人も知ってる。

 

馬場さん、この人にとって愛は、バケツいっぱいのあめ玉みたいなんだね。きっと、かたまりの肉と対比された、この人のあめ玉はさ、アガペーなんだよ。「こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの。からだにとりこむような。」すごく丁寧でうつくしいと思った。肉塊は存在の結果なんだけど、あめ玉は誰かがつくったものだからかな。精神の結果みたいな。小学生のころ、机にあめ玉をつめこんだ少女は、馬場さんにあめ玉をくれたんだね。与える愛を馬場さんももらったんだね。

白波多カミンの曲に「あめ玉」って歌があってね。「綺麗な空から爆弾をふらせる金があるのなら綺麗な空からあめ玉を降らせたら素敵だね。今日きみがくれたまるいあめ玉を舌の上で転がしてそんな風におもったんだ。色とりどりのあめ玉が見上げた空から降ってきたらいつもは、なかなか話せないあのこともなんだか笑いあえそうさ」っていう歌詞なの。いや、好きだから引用しただけなんだけど。やっぱり、あめ玉ってアガペーだと思う。

 

*

 

短歌を散文化して読んでみて。そのように読むことをこの連作は求めているから。でも作品は小説ではなく短歌なのだから、主体から見た「馬場さん」を見ているのが読者である私自身になる。もし小説なら主体、ここでいう「この人」のことは意識しない。だから馬場さんに宛てたこんな手紙の形式も、感想のかたちとしてはいいのだろう。けれど、友人の歌に差し掛かって思う。短歌は一首完結だ。小説なら起承転結があるが、馬場さんとあめ玉の小学生と友人は直接的に関係がなくてもいい。あめ玉という連作の中で主体の意識のなかでゆるやかにつながっている。

 

*

「友人」へ

 あなたとこの人を、あわせて「わたしたち」と呼ぶとき、不確定要素ばかりの未来で、あなたは無意識に一緒に歩いていくことを決めているんだ。投げかけられた言葉の先に、この人が存在する。それがあなたの歩いている道だ。この人は、なにか答えただろうか、答えるかわりに、あなたのことをよく見ている、あなたのようすを。あなたが未来へ眼差しをおくるとき、この人は、現在を見ている。それがあなたたちの歩き方だ。

とりこまれない、石のように硬いあめ玉。それはまだ物質だ。ずっとかもしれないし。愛にかわるかもしれないし。愛から物質にもどったのかもしれない。またとりこまれるのかもしれない。そのようすも。このひとはきっと見ている。

 

*

あなたへ

ここまで読んできて、最初の「あなた」へかえってみる。

あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

このひとは。先手をとらない。ずっとようすをみていて、あなたの核心をとらえたから

動きだすんだ。

 

*

この散文を書いている途中で、電話したんだ。「好きなものを好きでいると、最近余裕がなくて、自分を好きになれないって。」って。その人は笑っていた。「それでも、もう、根っから自分のこと十分好きだから、好きなものを好きでいて大丈夫だよ」って。知らないうちに愛も蓄積されていて、無意識の肯定感で自分を守ってくれてるのかな。これも関係ない話。

愛とは。なに?

 

 

最後に短歌を短歌の形に戻してあげなくては。窮屈だったでしょ、ごめんね。

 

*

 

ようす

 

あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

 

馬場さんは愛とは牛肉のかたまりのようなものかとおもっていた

 

肩ロースのかたまりとかなんとか。そういうごろごろっとしたもの

 

が愛だとおもっていた。血がしたたるような。はなが舞っているなあ。

 

でも、バケツいっぱいのあめ玉のような愛もあるのかもしれないね

 

こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの

 

からだにとりこむような。小学生のころ、隣の席の女の子が机にぎっしりと

 

あめ玉をつめこんでいた。馬場さんはそれをもらったことがある。

 

いったいわたしたちどう歩いていけばいいのかな、と友人が言っている。

 

あめ玉はなめなければ、石のように固いね、と友人がいう。ようす

短歌相互評⑬ 柳本々々から中家菜津子「離さないで」へ

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キャシーのために  柳本々々

中家さんの連作タイトルは「離さないで」。詞書にも「お前はほんとうの花ではないこと」と書かれているがこれはカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のオリジナルとコピーのテーマを想起させる。

 飽食の時代の宝飾店のカフェ グレーのスーツの男ばかりだ

「飽食」=「宝飾」の時代という表面的な価値観があふれる世界に、色をうしなった「グレーのスーツの男ばかり」がコピーのように現れる。

そういう世界のなかで、《離さないで》と訴えかけることはどのような力と無力をもつのだろう。

 ringoって書いてあるから林檎だとわかる真っ赤な〇の記号は

 無意識に選んでいるんだ、炭酸の気泡の音か雨の音かを

ひとつは、微細な眼と耳の感覚をもつことだ。語り手は、「ringo」と「林檎」の差異に注目からそこからそのリンゴが「○」に結びついていくプロセスに注目している(ちなみに「○」は中家さんのひとつのテーマとなっている。○は、生へのうずきだ。参照:歌集『うずく、まる』)。または「無意識」の「音」が、意識上の「炭酸の気泡の音か雨の音か」に分別されてゆくそのプロセスを意識化しなおしている。

これは、微細な意識のひだにわけいっていくことである。無意識と意識の往還をたどるように意識しなおしながら、〈わたし〉の認知がうまれる現場を歌にする。それはわたしが〈そのようにして〉世界とむきあっていたことの小さな〈証拠〉になるはずだ。

カズオ・イシグロの語り口の特徴は、それがたとえ信頼できなかったとしても、ミスリードにあふれていたとしても、〈想起〉にあるが、その物語としての〈長い想起〉とは、認知がたえず波のようにあらわれる現場そのものでもある。

 火葬なら灰があなたの体温と同じになれる瞬間がある

灰とあなたは「同じ」になってしまう瞬間があるが、しかしその「同じ」になる瞬間そのものを〈わたし〉は認知として意識している。
 
 かさねられ母音に打ち消される子音 異国の言葉で囁いていて

かさねられ〈同じ〉にかきけされようとしても、わたしは「異国の言葉」としての声をもとめる。

離さないで、とはそうした認知のひだを言葉をとおして〈生まれ直す〉ことなのではないか。

わたしたちは、語り直し、生まれ直すのだ。たえず。『わたしを離さないで』のキャシーのように。わたしが・わたしを・離さないために。

短歌評 俳句の国から短歌国探訪(3)透きとおりゆく世界の中の短歌 丑丸 敬史

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(1)はじめに

 俳句実作者である筆者の短歌国探訪記の今回が4回中の3回目となる。

 前々回、短歌がなぜ若者に共感を呼ぶ詩型であるのかを「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(1)短歌は若者の器か」として書いた。そして、前回は「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(2)穂村弘と言う短歌」で、穂村短歌を通して現代短歌の流れの原点を見ようとした。

 短歌は若者の器である。第一回でこのように考察した。短歌は若者が牽引する。今回は1970年以降の若手のアンソロジーとなる山田航の『桜前線開架宣言』(左右社)より若手の現代短歌を見たい。この本から零れた優れた若手も多かろう、この本のみで若手短歌を俯瞰することに忸怩たる思いはあるものの、普段包括的に短歌に親しんでもいない門外漢のこと、お許しいただきたい。

 『桜前線開架宣言』は1970年以降の生まれの40人を収録している。あとがきには「二十一世紀は短歌が勝ちます」と勝利宣言をしているが、これは現代詩や俳句に対しての相対的勝利というより、山田のその脳裏にはもはや他の詩型は存在せず、彼は短歌という絶対詩型の勝利を確信している。『桜前線開架宣言』に収録された若者による今後の短歌の隆盛が強く信じられるからであろう。確かに山田をその気にさせただけの(山田から見た)質と量を伴った若者の歌がそこに収録されている。と見える。

(2)ぼくたちはこわれてしまった

  なにゆゑかひとりで池を五周する人あり算数の入試問題に     大松達知

 ユーモアは詩には欠かせぬジャンルである。そのユーモアを盛る器として短歌が相応しいことを見てみたい。「たかしくん問題」というものがある。小学校などで使われる算数の文章問題のたかしくん、100円持ってお使いに行かされたり、3キロ離れた場所に時折休憩を挟んで時速4キロの速度で歩かされる。短詩型こそ瞬間芸に強みを発揮する。この短歌の深読み、裏読みとして世の不条理を読み取ることも可能であろう。人間は総じて似たり寄ったりの不条理な日常を生きている。しかし、そのような読みを入れてしまうことはこの短歌の力を減じてしまう。

  さかみちを全速力をかけおりてうちについたら幕府をひらく    望月裕二郎

 これもばかばかしい短歌に見えるが、勢いよく坂道を駆け下りた時の高揚感、興奮をこのように大言壮語したユーモアが微笑ましい。

  信長の愛用の茶器壊したるほどのピンチと言えばわかるか     笹公人

 このピンチ、わかります! この歌は内容から上司と部下の関係を想起させる。この後、この部下は手打ちになったことだろう。絶体絶命のピンチを茶化した才能。田村元の「やがて上司に怒りが満ちてゆく様を再放送を見るやうに見つ」も同様。

  銃弾は届く言葉は届かない この距離感でお願いします      木下龍也

 人付き合いの苦手な若者が望む難しい距離感をストレートに伝えている。銃弾は届く距離というのが寂しい悲歌である。ストレスを感じて人と接するくらいなら撃ち殺される方がまだマシと言う。木下の「後ろから刺された僕のお腹からちょっと刃先が見えているなう」、「本屋っていつも静かに消えるよね死期を悟った猫みたいにさ」も現代社会を冷めた目で引いて眺めている。自分に不適合な社会。この理不尽な現実を受容することは、社会が自分を受容してくれない限り仕方ないことである。

  半島をめぐりしのちに軍艦はわが前に来つイクラを載せて     松村正直

 最後の七でのどんでん返しのオチが素晴らしい。長々と五七五七で言葉を尽くして語るからこその最後の七でのオチが効果的なのである。俳句ではこうはいかないという好例。

  ベニザケの引きこもりなるヒメマスは苫小牧駅にて寿司となる    松木秀

 これも寿司ネタであるが、社会を自分らの世代を皮肉る。海に出ることをやめたヒメマスを「引きこもり」に重ねている。防人の頃から短歌は社会問題、それに翻弄される人生の悲哀を歌ってきた。さらに、松木はそれを社会風刺に昇華している。社会不適合な烙印を押された者は、切り身となって寿司ネタになって消費されるのみと。ただ、そんな社会を変えたいという積極性はなく、その冷めた目線には諦めが感じられる。

  世界じゅうのラーメンスープを泳ぎきりすりきれた龍おやすみなさい 雪舟えま

 情緒、ユーモアのあるファンタジー。書かれている内容はたわいないものであるが、1日頑張ったラーメン丼のすりきれた龍を労う優しい目線が好ましい。

  お客様がおかけになった番号はいま草原をあるいています      吉岡太郎

 これをシュール短歌、ナンセンス短歌、と片付けるわけにはいかないくらい、なぜが心を揺すぶられる繊細な歌である。この草原は風の吹く気持ちの良い草原である。電話から切り離されて自由になった電話番号がこの草原を颯爽と歩いている。

  ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ 中澤系

 集中、筆者が一番衝撃を受けた怪作である。ブラックホラー。「ぼくはこわれてしまったぼくはこわれてしまったぼくはこわ」ではない。「ぼくたち」が現在の社会不安を表している。こわ…、でゼンマイが止まって永遠に歌は紡がれなくしまった。31文字を効果的に使ってこその不気味さ。先ほどから、これらの短歌を読めば読むほどに俳句から見ての短歌の言葉を尽くせる詩型のメリットが羨ましくなる。このような詩心を詠みたいならば短歌は絶大な力を持っていることを認識させられた。気になって「ホラー短歌」で検索したが、残念ながらこれほどのものは見つけられなかった。中澤はすでに亡くなっており、これ以上の怪作を読めないのはとても残念であるが、そのような中澤だからこその絶唱と言えるか。
「中心に死者立つごとく人らみなエレベーターの隅に寄りたり」黒瀬珂瀾も、「死ののちもしばらく耳は残るとふ 草を踏む音、鉄筋の音」澤村斉美、もホラーと言えば言えなくもないが、その繊細な情緒はホラー短歌に分類することを躊躇わせる。

(3)宇宙の風に湯ざめしてゆく

  もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく     雪舟えま

  小さい林で小林ですというときの白樺林にふみこむ気持ち

  ホクレンのマーク、あの木が風にゆれ子どもの頃からずっと眠たい

 「世界じゅうのラーメンスープを泳ぎきりすりきれた龍おやすみなさい」ですでに雪舟を取り上げた。彼女の歌を読むと優しい気持ちにさせられる。山田は地母神に喩えているが、或いはマリアさまの慈悲に喩えられるか。この世の中が肯定されている。「もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく」では壮大な宇宙的な大きな歌ではあってもその情緒は細やかである。この「歌」というのは若者の声、希望と言い換えても良い。「もう歌は出尽くし」と、悲観的な調子から始まるが、描くその世界はディストピアではない。少なくともそうは感じられない。それは「透きとおり」がこの歌を美しくしているからであろう。加えて「湯ざめしてゆく」がその儚さをいや増す。

  青空からそのまま降ってきたようなそれはキリンという管楽器    服部真里子

 キリンが首を下げてきた時の驚きをウィットに富んだ歌にした。キリンの首を長い管のラッパに喩えた。そのラッパから聞こえてくるのはどんな天井の音楽か(実際には牛のように低く鳴くらしい)。

  まいまいは古代楽器の姿して雨の音風の音からだを巡る       小島なお

 楽器つながりで本歌を引く。小島の歌はさらに繊細におおらかである。こちらは蝸牛をホルンに喩えてその音色も歌っている。蝸牛は実際に鳴き声を出さない。それゆえ、逆にその蝸牛の奏でる雨音、風音がより鮮明に聞こえてくる。小島の「わたくしも子を産めるのと天蓋ゆたかに開くグランドピアノ」はさらに想像の翼を豊かに羽ばたかせている。天蓋を開き次々に音を生み出すピアノから、お腹が大きくなった女性から次々に生れ出る赤子を想起させる。

(4)空が濡れるのを待つ

 山田航(1983年生まれ)自身も歌人であり2011年には第55回角川短歌賞を受賞している。山田の短歌を第一歌集『さよならバグ・チルドレン』より引く。

  鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る

  水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ

  鳥が云ふ誰にとつても祖国とはつねに真冬が似合ふものだと

 これらの歌から、山田が上記の歌人たちと同じ空気を吸って歌をなしていることが分かる。社会の片隅で歌をつぶやく。声高に誰かに伝えるための歌ではない「つぶやきの歌」。

 この世は悪意に、厄災に満ちている。石川啄木の「ぢつと手を見る」ではないが、和歌、短歌は生活の苦しさを生々しく赤裸々に歌ってきた。詠み手の不幸があって、そしてそれに共感する読み手の不幸があって歌は成立した。昔は皆が運命共同体の一員であり有機的な結合状態にあった。歌が人と人とをつないでいた幸せな時代があった。

 それに対して、現代社会は人間関係の希薄化が進み、社会の希薄化が社会を透明に、人を透明にしていく。他人の幸も不幸も所詮他人事な現代社会で、透明人間がどこかで歌を呟く。歌人の歌は一般人(我々俳人にも)には届かない。それは、今を生きる人間みなが透明人間だからである。透明人間の社会では悲しみもまた喜びも透明である。透明人間の歌は透明である。心には届かない。その微かな歌は、耳を欹てている透明人間(と言う歌人)にしか聞こえない。現代の若い歌人は微かな歌は、気づいてくれる人だけでいいから気づいてとSOS信号を送っている歌なのである。

 明治以降も数多の偉大な歌人を輩出した短歌世界も俵万智をもって打ち止めとなるのだろうか、大衆に膾炙する歌をなし得た歌人は。俵万智の歌は大衆受けして、なぜ穂村弘以降の歌は大衆受けしないのかの答えもここにある。これまで和歌・短歌が人と人との間の糊づけ的な役割を果たしてきたが、短歌的有機的結合を社会が必要としなくなってきている現在、短歌の存在意義も変容せざるを得ない。その中で透明人間がなお交わりを求めるとしたら、もはやそれは微かな電波として発信しアンテナを持った歌人だけは受信できる、このような歌人の間を飛び交う透明な歌にならざるを得ない。雪舟の「もう歌は出尽くし僕ら透きとおり宇宙の風に湯ざめしてゆく」も、変容してゆく現代社会の中で生きる若者を歌って象徴的である。出尽くした歌というのは、本来の人間の歌の謂であろう。もうこれまでのような歌は歌えない、これからの歌は他の人には届かないであろうという諦観の歌にも見える。

 山田は札幌出身であるが、彼がリスペクトしている穂村弘も札幌出身である。穂村に熱烈なファンレターを送り、穂村の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』のインスピレーションを与えた雪舟も札幌出身である。これは啓示的である。そのように、北の大地で現代の歌が紡がれて降ってくる。雪空より舞い降りて来るように、透明な歌が。

 この希薄な社会にあって俳句はどうだろう。俳句は元来人生を歌う詩ではない。人生から、社会から超然と存在している。戦後「社会派俳句」という名称が冠された俳句が出現したが、それは俳句がそのような機微を歌うことを得意とはしていないという証拠である。人がいようといまいと、社会が透明になろうと俳句にはさほど影響しない。現在の社会の変質はより短歌に影響が現れるように見える。

(5)終わりに

 東郷雄二がウエッブ上で雪舟えまを採り上げている。そこで、雪舟の歌を例に挙げて、「うたう」以降の若手歌人の陥穽を指摘している。

第79回 雪舟えま『たんぽるぽる』

 「うたう」以降の歌は、歌に気取り、衒い、形而上的志向、技巧、作為がなく素直に歌をうたう「棒立ちの歌」と言う。筆者は、俳句作家でもあり短歌はかくありたしという思い入れもないものだから、喩も区切れもない短歌であってもそこにポエジーがあればいい歌だと思う。若者の歌もいいものはいい、心に響かないものは「うたう」以前の歌であっても心が動かされない、それだけである。「うたう」以降の歌が、若者が自分の声で歌う歌であるならば、その流れは今後とも本流であり奔流となるであろう。この社会がこの先も透明になりゆくかぎり。

短歌相互評13 中山俊一から伊舎堂仁「なぞなぞ」へ

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なぞなぞ、とあなたの声が言ってきてなぞなぞだった、しりとりじゃなくて  2

 伊舎堂仁『なぞなぞ』を読むにあたって、タイトルにもなっているこの歌から評をしていきたいと思う。違和感を覚えるのはではなくという表現。あなたの実体はそこにはなく、声だけがどこからか聞こえてくる。生活のふとした隙間に昔の恋人との会話が頭を過るイメージに近い。

 この歌には、あなたがと言ったことに対して、わたしはではないかという憶測を挟むのだが、結果的にはやはりだったというような思考の流れがあるように思う。こういった思考回路を丁寧に伝える面白さが伊舎堂作品には多いのだが、この思考回路の面白みはどこにあるのだろうか。

 コミュニケーション(とくに男女間)には、とがある。前者は、ただの言葉のラリーに過ぎない言わば他愛もない会話だが、後者は相手の求める回答を探り、的確に答えなければいけない難解な会話である(平たく言えば、仕事と私どっちが大事なの?的な)。これに対して、しりとり的な受け答えをすると相手に嫌われたりもする。

 歌の場面に戻る。恋人はあのときわたしに対して、ひとつの答えを求める言葉を投げかけた。それに対してわたしはしりとりのような言葉で受け答えをしてしまった。答えるべき言葉を見つけたときには、あなたの姿はなく、あのときの声だけが今も耳に残る。

 一首として読むと、強引な読みに思われるかもしれないが、連作として読み終えたとき、そう思えて仕方がなかった。

うけつつもひいたり別にだいじょうぶだったりしながら相模湖にいた   1

 そこで冒頭の歌に戻る。この歌は二人の関係がまだ良好だったときの歌だろう。相模湖という穏やかな場所のなかで、会話や意図の行き違いがありながらも二人は関係性を保っていた。連作の導入にふさわしい一首で、ここから時間経過を挟み、二首目以降は回想を入れながら現在へと進んでゆく。

こんな駅であなたにガストをおごってる場合なんかじゃなかった夜と   3

夜の仕事夜も仕事、はじめるねって聞いていったらだった夜よ   4

2万円くらいおろして行く駅の曲がったらへんで懐かしかった   9

 三首目、四首目そして九首目の歌。「こんな駅」とはどんな駅か探るため歌が前後してしまうが九首目の歌も取り上げた。連作の流れから、ここに出てくる二つの駅は同じ駅だろう。「こんな駅」という揶揄した言い方や「2万円くらいおろして行く駅」、そして四首目への歌の繋がりを踏まえると、この駅は新宿や渋谷、または鶯谷や錦糸町などの酒場やラブホテル、風俗店が立ち並ぶ場所であることを想像する。ふたりが相模湖という穏やかな場所から随分と猥雑な場所へと辿り着いてしまったことに物語性が潜んでいる。

 三首目と四首目は歌の構造から対になっており、同じ夜に起きた二つの出来事をそれぞれ歌っている。これらの歌を二人の関係性が行き詰まった歌、別れ話の歌として読んだ。ファミレスという賑やかな空間がかえって二人の関係を浮き彫りにしているのだが、に、この二人が同じテーブルに座っていることの悲哀が見事に映されている。わたしの夜とあなたの夜の乖離がここにはあり、二人の関係性の亀裂を感じさせる。

 そして五首目以降からは個人の苦しみが歌われることになる。

どうすればいいんだーとかってうっすらずっとふざけられるのがいいと思います   5

大丈夫なわけないだろ遊星とかって辞書で引いているのに   6

ノンアルコールビールのこそこそ感・・・じゃない?じゃないかなぁ思うけど   7

前けっこうもてた変質者になりたいたおれて寄ったらもう死んでいる   8

 失礼な言い方になるが、会話の相手を失い、独り言の数が増え、言葉がどこへ向かっているのか分からない印象。そこが面白いというかよく理解できる感覚なのだ。

 やは自身の素直な心情の吐露と思うが、その言葉が行方もなく浮遊していることの儚さ。というやや投げやりな言い方やという言葉の選び方がそういった印象を与えている。また七首目と最終的に言葉が自己対話に向かってゆく虚しさ。何がなのかは然程重要ではなく、そういった些細なことさえ共有し合える相手がいないということがこの歌の重要な要素だろう。

2万円くらいおろして行く駅の曲がったらへんで懐かしかった   9

帰ったら動いててのりしお味で見たら畳で運んでたアリ   10

 九首目は先程も取り上げた歌だが連作の流れを汲むために重複するが記載する。読みでは別れ話をしたガストのある駅に降り、恋人との思い出を懐かしむ歌のように見えるが、それは続く十首目の心の揺らぎにも表れている。

 恋人との思い出がボディブローのように効いてるなか、自宅に戻り十首目へと至る。誰もいなくなったはずの部屋に何やら動くものが目に映る。五首目以降、自分ではない誰かを求めていたわたしにとって、それはより鮮明に映ったのだろうか、一気に動くものへと視線が寄ってゆく。のりしお味? ここで寄り過ぎた視線がズームアウトしてゆき畳全体を見渡す。そこで初めてアリがのりしお味のポテトチップスを畳のうえで運んでいたことがわかる。この歌は一見すると文体自体に歪みがあるように感じるが、実は自身の目線の動きを忠実に書き並べたものではないか。文体そして目線の揺らぎが、自身の心情の揺らぎと干渉してリアルな手触りが残る歌になっている。

 連作『なぞなぞ』は一首単位では読み切れない謎が含まれた作品だった。連作として読むべき作品であることは間違いないが、一首一首が自立していて、そこから読者が背景を読み解くことを期待している作風だ。この評もその背景のひとつに過ぎない。短歌はなぞなぞではないので読者によって様々の答えが生まれたら素敵に思う。

短歌相互評14 中山さんと喧嘩がしたい 伊舎堂仁

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 二度と会わないつもりで、評は書く。その後誌上で、ときには何かの会場で、出くわしニ三、会話をしてもこれが前段の〈二度と〉を守れなかったことにはあまりならない。残像とは「会った」ことにならないし、更新や変遷の済まされた、者との再会は「はじめまして」だから、最初の〈二度と〉だけがほんとうに大事だ。かつて中山俊一へはそういった評を書いたおぼえがあるし、それは彼に対してのみ行ってきたことでもない。読める形でどこかに置かれてはいない、ものまで含めれば千種創一、木下龍也、岡野大嗣、恋をしている、丸山るい、「加子」時代の加賀田優子、田丸まひる、山田航、岡本真帆‥‥。 最近だと睦月都。また会える、を心待ちにしながらこれは〈二度と〉かもなぁ、と振り返る夜や歌人がある。逆の立ち場での同じこと、もぜんぜん起きているだろう。

みんなしてぼくを そうした薄膜の青春を脱ぐときの万歳

中山俊一『ヌード』(以下、出典の明記のないものは全て同作)

から始まって、

かなしい話の終わりにあなたは「ちゃんちゃん」と添えて笑った夢に降る雪

で終わる『ヌード』を僕は、普段遣いな言葉で言えば〈大学デビューした人が、「これでよかったんだろうか」を思うまで〉の季節、を書いた一連として読んだ。どこから僕はこうなっていったんだろう、という内省から動き出す『ヌード』前半には、【セミヌード】【ヘアヌード】にわかりやすい〈はだか〉を表す語句が散見される。

トランプを半裸で切って春の夜にひとまず並べた。ひとりの手品

注目するのはまず【半裸】であり、しかしすぐに【ひとまず】や【ひとりの】などの展開性、を含む語句へ目がいく。中山がどれだけの他者をその【手品】で巻き込めたのか…と追っていけばひとまず一連には【あなた】がいる。一連の外においては‥‥と邪推すればそこには第一歌集『水銀飛行』(2016年・書肆侃侃房)の良き読者たちがいるだろう。その者たち、の目で読んでいく『ヌード』は、やはり従来からの中山俊一観を覆さない端正さを持っている、一連に見える。

ひどく傷付いたんだねテレヴィジョン点けよう明るく愉しいはずさ

しかしそれは【みんなして】彼を、そう見つめたい気持ちが我々の裡に浮かばせたかりそめの像ではないのか?【だね】や【はずさ】に、言い差されている口調や情景、以上の空疎さを僕は受け取る。『ヌード』には語句の使用頻度、レベルの話でいうとたったの一度しか【あなた】が出てこない。

 そして同じ数、【だれかと】が出てくる。

賑やかなことの淋しさふたり観る『さんま御殿』の後の立食

短歌の中でしばしば起こるふしぎなこと、のひとつに、「比喩されるまえのもの」(この場合【賑やかなことの淋しさ】)が、「比喩されたもの」(この場合【『さんま御殿』】【の立食】)によって浮かび上がるとき、その詩的「発光」と「消灯」が同時に行われる、というものがある。比喩にハッとさせられたうえでこの歌を成功していない、一首であると判断するのは、この歌には構造「しか」ない……からだと思う。極論を言えば、

賑やかなことの淋しさふたり観る『さんま御殿』の後の立食

を読んだとき体感的には

『さんま御殿』の後の立食ふたり観る『さんま御殿』の後の立食

を言われた、のと同じことが起きたような気がする。つづいて体感は、素朴な「構造」の話を離れて、一首を生成した「作品世界」の空疎さ、楽しくなさそうな感じ、に続く。『ヌード』世界において【ぼく】や【あなた】は、『ヌード』世界に倦んでいるように感じられる。そのような作品世界において、登場人物が(そして「創造主」が)いちばんしてはならないことに「過剰に」事物を喜んでみせる、というものがある。

おでんには色んなかたちの具があって愉しい冬の晩酌だった

書かれてあることをそのまま受け取る、ならばここにあるのは単に素晴らしき人生のワンシーンだ。しかし「そのまま受け取ったほうがいいこと」は「そのまま書かれてあるもの」の形で投げ出される、べきではないという強い反感がある。これは多分に、その文体に因るものだろう。

なめらかにくぼんだ石の箸置きが指にやさしい飲み会だった

山本まとも『デジャ毛』(2014'09「短歌研究」)

 おそらく『場のディティール描写』+『だった』という文体が連れていくのは、こういった歌へ持ってしまうような体感なのだ。それはとりもなおさず、「あはれ」なワンシーンを「多幸感」として書きあげようとした際に起きてしまう詠み/読みの悲劇だ。

 そして「あはれ」は、どちらかというと「ちゃかし」の処理との親和性が高い。

『ヌード』において書き出せているのは多幸感ではなく、「ちゃかし」であるように思う。

卒業の塗り潰されてゆく写真■■■渡辺麻友■■■の際立つ笑顔

酔いどれのちゃんちゃらおかしい盆踊りちゃかしてちゃんちゃら酔っ払う

現行最大の覇者であるアイドルグループの映る一枚に、逮捕された指名手配犯の手配写真を思わせる【■■■】という処理を施す。この■の黒さに、成功した「ちゃかし」を見る。一首に漂う酒気の中で発声される【ちゃんちゃらおかしい】【ちゃかし】の語呂のよさに、やけくそのカーニバルを見る。いちどまとめると、多幸感へ向かわんと書かれた多幸感の歌ではなく、いちど「ちゃかし」を経由した多幸感表現において、『ヌード』の中山はなにか、を手にすることができていると思う。

   *  *  *

  「持たざるもの」である物憂い青年がマネーゲームにおいて人生の成功を勝ち取り、しかしやがてその生活にも倦んでいく〈ウルフ・オブ・ウォールストリート〉であれば、その倦んでいく様子、にさえも凄いものが宿るだろう。(実際、あの映画の快楽点はそこにあると思う)しかし、『ヌード』から多幸感の差し引かれたその作品世界は、これを書いている僕にとっての「世界」や短歌「作品」の暗い面とかなり重なるものであるから、読みのカタルシスや発見はない。抽出できるものといえば、そのクリアな再現度や、主体のキャラクター性だけかもしれない。

パスタ100gを摑む 束ねるにはみじかい髪を束ねたような

焼き鳥を串から外す。そのように腕枕のうで引き抜く夜は

そのまま、比喩される『性愛』と『消えもの』の、ネガとポジのような歌だが、このような書きぶりへ身体を〈使いこなしている〉感じを読まされる安心感、があると思う。

闇夜から梯子が垂れて救助用ボートに架かる出逢いのように

こんな〈タイタニック〉然とした‥‥と書くとディカプリオちがいだが、このような一瞬は決して訪れないことは分かったうえで、

室外機の風に揺れてる髪だった愛しさのあと知ったことだが

こんな一瞬の【髪】に強く魅かれる。愛おしさの【あと】揺れているというところがポイントで、ここには過剰に喜ばれていない、単に世界での【髪】の目撃のみが置かれている。

どうにでもなれとどうにかしてくれの夕暮れ だれかと喧嘩がしたい

そこからどのように「次」へ踏みだそう、と中山が考えるとき、そこには例えばこの歌の【喧嘩】に予告されているような混沌、へ向かうアクションが必要とされるのではないか。(【どうにでもなれ】と言いつつも、その書きぶりには【どうにでもなれ】のフォーマットに沿うような従順さが含まれているのだが)

 中山さんと喧嘩がしたい、と僕は、このようなものを書いた。

 似たようなことが『なぞなぞ』評でも起きていたら嬉しい。


短歌評 短歌を見ました 鈴木 一平

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 長々と『穀物』を読みつづけてきましたが、山階基「まどろみに旗を」で最後です。

  先にいるらしいあなたは見つからず春の終わりにかかとを乗せる

  待ちわびた姿だけれど目の前にあらわれるまで思い出せない

  いつかとのまちがい探しに挑むよう歩調のゆれるあなたと行けば

 「歌」は記憶の定着を促すために節をつけられ、世代を渡って引き継がれていくことで共同性を維持させる技術ですが、冒頭の三首では忘れること、記憶を辿り直すことが歩行において見いだされ、そこに探りを入れるような手つき詠まれています。同時に「かかとを乗せる」「目の前にあらわられるまで」「ゆれる」と、かすかな感触を通した寄る辺のなさが作品構成の基調になっているようです。たしかなものとして知覚できず、「このなかのだれも風力発電の羽根にさわったことはないのに」で詠まれるような遠く、ぼんやりとしたかたちで与えられる寄る辺のなさは、参照可能な事実には還元できない(物体がそこにあること、物体のなかに埋め込まれたものとして受容できない)感覚として、後続する作品に譲り渡されていきます。特筆すべきは「ねむり」です。

  ねむるとは取り戻すこと目覚めたら抱えたものが花かもしれず

  ねむたさが髪をしたたる浴槽に目盛りのような乳首は浮いて

  より深くねむるあなたの岸にいて小さな旗に凭れるばかり

 「眠」りではなく「ねむ」りで統一されるこの語は、忘却と近しい気づきのテンションを持ちつつ、鈍く私を浸すイメージの類縁性として水を導きます。こうして水は「岸」、「旗」は「夕凪はほどけてふたりはためいた汽水の岸に着いてしばらく」と関わりつつも

  満ちていく水のすがたに鎖骨まで引きあげてから脱ぐカットソー

 に見られる通り、「抱える」「乳首」と胸元に当てられる焦点を維持しながら、せり上がる水の知覚をいや増していく睡魔へと返していくかのようです(この流れは「水を恐れ水に寄り添う人びとよ護岸はやがて海へと至る」でピークに達しつつ、「あたためるその火加減をしくじってテーブルに吹きこぼす言いぐさ」へと、生活のなかに溶け込む影をただよわせています)。また、水は夏に接続しているようで、「それぞれが正気に戻る瞬間よ蚊は遠ざかりわたしは椅子へ」といった官能や「予報にはなかった小雨くたびれたタオルはしぼることもできない」「大瓶をたすけ起こせばひと夏を切れっぱなしの賞味期限だ」といった諦念へと結実します(「あらわれてただ抱きとめるだけになる夏のスクランブルのほとりに」は、後述の「抱く」へと続きます)。こうしたゆるやかな感覚のグラデーションを通じて変奏をくり返す進行は、水が引き連れる換喩を起点とした「岸」から、歌が歌として自己を保つところの根元である伝達への賭け、つまり「あなた」と呼ばれる彼岸、「わたし」のいる此岸へと、なめらかに展開させています。それは「暮れがたにひとりひとつの雨傘はちいさな檻の天井となる」(これは「ぼろぼろの傘にたやすく化けるからあなたはそれを見て笑うから」と、雨を通して檻の向こうへとお互いに浸潤していく予感をにおわせますが)「ぜっぺきの頭をすっと撫でられて海へこぼれる石のさびしさ」「ないような夜と海とのあわいからちぎれる波に洗われていた」といった孤絶のニュアンスへとつながりつつも、感覚の淡さによって裏打ちされるちいさな愛を「あなた」への眼差しににじませます。「ほんとうに求めて来たのならわかるあなたに似合う楯をいちまい」のように、ささやかな感触があって魅力的です。

  客だから言える怒りを享ける背は雪にたわんでいく枝のよう

  顔をあげお辞儀の沼を抜けてくるあなたの泥によごれてもいい

  ごめんねとあなたが口にするたびに賽銭箱のように鳴る胸

(これは、「食べかけた森永ミルクキャラメルの箱を鳴らして合いの手にする」へと「鳴る」の反復を以て続いています)

   これらはせり上がり、積み重ねられるものを引き連れていますが

   ラーメンがきたとき指はしていないネクタイをゆるめようとしたね

(「ネクタイをゆるめる」は「よるべなく重ねる暮らしこの窓の明かりをしぼり夜景は弱る」、前述の「満ちていく水のすがた~」と並ぶことで官能的な感触をつくっています)

   働いているときのあなたの笑みがまた手品の花のようにこぼれる

(これは「客だから言える怒り」と関わっているのではないかとおもいます。余談ですが、「客だから」の次に置かれた「顔をあげ」は、後述する「抜」、「水」のイメージ、さらに「泥によごれ」ることがもたらす官能が重ねられます)

 一方でこちらは、「胸元」と「花」を召喚し直しています。また、水は一方で「砂浜」とも関係し、「さわれない種火が胸の砂浜に置かれて揺らめいてそれからの」や「砂浜にあなたの声の篝火をわたしは絶やさないように唄う」が歌われ、「火」は「夢の火に染められた眼鏡をみがく裸眼を向かい風にあずけて」から向こう「岸」へと送り返されていきます(この作品は「バスに乗るために走っているように見えただろうかバス停からは」の後に続いて、とてもシーケシャンルな流れを生み出しています)。

 さて、ここから

   真夜中のあなたが連れてきた猫に生きてほしいと名前をつける

 と、再び「ねむり」へと戻ります。語感は「猫」を連作のなかに持ち込んでいるようにも考えられます。そして猫は、その生涯の多くを眠りに費やす存在として、「眠り」を「死」へと移行させるための蝶番にもなっており、かつ、ここで猫は生きのびることへの願いとして、名前をつけられる。しかしこの行為はまったく正反対の、悲しみに満ちた事態を招いてもいます。名づけは、それをわたしの生の内側で特殊な位置を占めるよう(生きるものとなるよう)呼び寄せるものでありながら、固有名を持った現れとなることで、代替不可能なものとしての「死」を避けがたく引き連れてしまう。つまり、名前をつけることで、存在は単なる「もの」から「死にうるもの」へと変わります。そのため、私たちは

  ひたひたの心はゆるむゆっくりと引いたドアから抜けて行く猫

 

 そして「抱きあう胸のあいだひとすじに抜け落ちていく感じがこわい」を意識して読む

  門の字をくずして書いた格好にふたりの腕とねむった猫よ

から、どうしても存在が水のようにゆるみ、くずれてれていく運動、眠りが緩慢な死へと向かうようすを見いださざるをえないです(「抱きあう胸」で感じるこわさは次の「あるいは理由なんてないのか鉄橋にすごい速さで追いあうすずめ」で、不確かなものとして強調されています)。「ひたひたの」「抱きあう胸」は「顔をあげお辞儀の沼を抜けてくるあなたの泥によごれてもいい」「抜けきれるはずだったのに遮断機にはたき落とされてしまう帽子」と、反復される「抜」から関連づけることもまた可能かもしれず、同じ語がくりかえし用いられる構成の配慮は、網の目のように連作を緊密化させながら、絶え間ない回付のループをつくりだし、深読みへの欲望をかき立てます。そしてこれらの作品群が

   そのたびに忘れてしまう髪切ってはじめて洗うときの軽さを

と冒頭に関係しつつ閉じられることで、すべてがゆるいつながりを持って書かれているという確信を強めてくれます。

批評にとって短歌とはなにか /前編  吉岡太朗

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 はじめに
 一章:塚本邦雄の「不安」
 二章:菱川善夫と「ひかりになること」
 三章:「作者」の逃走
 四章:「読み」以前
 おわりに

 はじめに
 三宅勇介は、二〇一七年七月の『短歌研究』誌の特集「わが評論賞のころ、あるいは短歌評論の意義について」の「短歌評論の意義について」という小論において、ある短歌を読んで、心の中で「この歌は好きだなあ。なぜなら……」と思ったとする。それがもうすでに評論なのである。いわゆる少し長めの「評論」というものはその延長にあるにすぎないと書いている。
 しかし私にとって、その「評論」のようなものはそんな風に生まれては来なかった。まず「なぜなら」を考え、そこから自然に「評論」の言葉が芽生えてくるなどという状況は存在しなかった。それよりも先に「批評をせよ」と要求する場があったのだ。たとえば「歌会」のような場が私にそれを行わせるような強制力を働かせた。「批評をしたい」という思いよりも、目の前の歌に対して「批評をする」ことの方が先だった。当然「なぜ批評をするのか」とか「批評とはそもそも何か」という問いも後回しにされた。
 ここに書かれようとしているのは、批評についての文章である。具体的には一首の短歌に向けられたそれ、現代において一般的に「一首評」と呼ばれるものについて書くつもりだ。たとえば佐藤佐太郎や塚本邦雄、菱川善夫などの書き手が書いたその文章を眺め、時に比較しながら、「一首評」というものについての考察を行っていく。それは、批評は短歌をどのようなものとみなすか、「批評にとって短歌とはなにか」という問いだが、その問いは大きなところでは、「なぜ」や「そもそも」に向けられている。「なぜ」「そもそも」、それは「短歌にとって批評とは何か」という問いである。
はじめて歌会というものに参加し、「評をする」ということに出会ったのは、二〇〇六年の五月のことである。それから十年を超える月日が流れた。私はずっと後回しにしてきた問いに立ち向かおうとしている。




 一章:塚本邦雄の「不安」


 1
 佐藤佐太郎はふつう「佐太郎」と呼ばれることが多いが、ここでは「佐藤」と書く。あの佐藤佐太郎ではなく、一人の「一首評」の書き手としてみなしたいからである(「ここで書く佐藤佐太郎は、短歌史に登場するあの佐藤佐太郎ではない」というつもりで私はこの文章を書くつもりである)。一方の塚本邦雄は「塚本」と呼ぶのが一般的なのでそのまま「塚本」と書く。ちなみに二人は揃って斎藤茂吉のことを「茂吉」と呼んでいるが、ここでは「斎藤茂吉」と書いた。あまり作者に出てきてもらう機会はないから、それでもよいと思ったのである。
 この章では佐藤と塚本がそれぞれ書く二つ『茂吉秀歌』の中から、一首を選んでその書かれ方の違いを検討する。
 
 ひた走るわが道暗ししんしんと怺(こら)えかねたるわが道くらし 斎藤茂吉『赤光』

 『茂吉秀歌(上巻)』において、佐藤はまず大正二年「悲報来」の一首と出典を記している。そのあとに歌の背景を以下のように説明する。(略)伊藤左千夫が歿し(略)知らせを受けた作者が(略)島木赤彦宅へ行く時の歌である。
 続いて焦燥の気持ち、ひたむきな強烈さと歌の特徴を抽出し、それを「赤光」の歌境のひとつと歌集中に位置づけている。
 「わが道暗し」は、作者の行く夜半の道であるが、おのずから人間的な感慨が参加しているだろうは上句への言及。「人間的な感慨」はあまり聞き慣れない言い方だが、おおよそは「主観的」くらいの意味で取ればよいだろう。言うまでもなく「明るい/暗い」は主観的表現だし、「し」には書き手がそう判断したのだというニュアンスが含まれている。
 歌は、単にせっぱつまったという気持ち以上の混乱をふくんでいる。続く文章で「歌は」とあるのは上句への言及からいったん全体視へ戻るということだろう。ただし「人間的な感慨」に焦点は当たったままで、「せっぱつまったという気持ち以上の混乱」は「人間的な感慨」のより具体例と取れる。ただそのように言われると具体的にどの部分にそのような「混乱」が表れているのかが知りたくなる。当然読む方としては次のセンテンスでその根拠が示されていると思うわけだが、当のセンテンスがそうなっているかは微妙なところである。
 特に「怺(こら)えかねたる」から「わが道くらし」とつづけた下句は切実でよい。「特に」と言っておきながら、ここでは話が「混乱」から「切実」にすり替わっている。しかもなぜ「切実」なのかについても語っていない。けれど、おのずと納得させられるものがある。
歌に目を戻すと、「わが道暗し」と「わが道くらし」のリフレインがあるからである。確かに混乱して同じ言葉や動作を繰り返すようなことはある気がする。そう考えると確かに「混乱」だ。佐藤はそんなことは一言も言っていないけれど。
 一方の塚本はそのさだかならぬ道を(略)駈けねばならぬ心が「暗し」「くらし」と繰返させたという風にリフレインに言及している。塚本には「混乱」の語は用いられておらず、歌から読み取っている心理は両者微妙に異なるのだろうと思うが、塚本を読む限りではこの歌の核となるのは、このリフレインにあるのである。佐藤はそれに気づいていなかったのだろうか。当然そんなことはあるまい。
 ここで佐藤の方の『茂吉秀歌』の「序」を振り返ってみると大切な歌について註を加えていってという言葉がある。佐藤の認識では彼のこの「一首評」は「註」なのである。「註」であるなら歌の方が主体なのであって、歌がはっきりと示している部分については「註」の方でわざわざ何か言う必要はない。「歌を見よ」と一言言えばそれで済むのである。むしろ歌に余計なひと言を付け加えてしまうことや、歌を評の言葉で機械のように分解してしまうことを懸念しているようにも見える。とはいえ懸念に囚われて何も言えないような評ではないことは先に言っておく。
「ひた走る」の歌への言及に戻ろう。「下句は切実でよい。」の続きはこうなっている。「しんしんと」の用法も微妙で、「死に近き母に添寝の」の歌と同じように、一首に暈(うん)のようなものが添っている。
「ひた走る」への評は佐藤版『茂吉秀歌』の三四ページにある。ここで再びページをさかのぼって二六ページからの「死に近き」の歌についての評を見ると「しんしん」とは、作者慣用の語だが、この歌では上句にも下句にも連続するように受け取れると書いてある。だから佐藤が「微妙」をどういう意味で用いているのかは、一応示されていることになるが、「微妙」(文脈上おそらく肯定的なニュアンスに取れる)と書いたこの「用法」が、なぜよいのかまでは書いていない。そこまで書かなくても、「よいからよいのだ」と言っているように思える。そしてそのよさを「暈のようなもの」という卓抜した比喩によって言い表している。
佐藤の「死に近き」評には、詩の言葉はときに散文的合理性から逸脱する場合があるからそれでよいし、そこにかえって深みの出る場合もあるともある。「合理性から逸脱」することによる意味の広がりや「深み」を、より簡潔かつ美しく、「暈」つまり天体にかかる光の輪にたとえている。この喩を直接的に考えるなら、「一首の歌が意味の拡張によって通常の一首よりも大きく見える」という意味だろう(そう言ってしまうと喩の美しさが減退するような気もするが)。つまり「意味が広がる(深まる)」以上のことは何も言っていないのだ。言わないことにより、歌を損ねることなしに、歌を分解することなしに、歌に美しさの価値を付与している。
続くセンテンスは同連作中の他の歌を紹介するものなので省略して、話題を塚本に移す。



佐藤は「ひた走る」の評を『赤光』内での最後に扱っているが、逆に塚本は巻頭にこの歌を持ってきている。厳密なことを言うなら佐藤が『赤光』の改選版について語っているのに対し、塚本の評は初版についてのものである。初版では「怺へ」が「堪へ」であるほか、連作の構成が異なっている。この点について、語の話では「怺へ」の方が視覚的に厳しく映るだろうと初版と改選版の比較を行っているものの、構成のことでは詞書の違いこそ多少論じられてはいるものの、「詞書の伝へる次第や背後の事情を越えて」「なまじつかな詞書などなくても」とも書いており、塚本はあくまでも一首として読もうとしている。なのでここでも比較を分かりやすくするため、一首の話として受け取りたい。
評の書き出しの部分は佐藤のものと非常によく似ている。まず出典から入り、続けて歌の背景について説明する。ただ一首に費やしている文字量は塚本の評の方が三~四倍多いから、必然説明も事細かになる。特に伊藤左千夫との確執のことは、佐藤の評には全く書かれていない。ひややかな対立状態のさ中に、突如師の逝去の報を受けたとすれば、弟子たる茂吉の胸中は、単なる哀惜や悲歎のみではなかつたはずだ。「わが道くらし」の畳句(ルフラン)は、その心理を如実に反映してゐる。
そしてそれに続く言葉が興味深い。反映どころではない。(略)読者を一瞬立ちすくませるやうな気魄(きはく)、憤怒(ふんぬ)と苦痛を交へた激情が、否応(いやおう)なく迫ってくる。辛うじて評としての客観的な形式を保ってはいるが、これは明らかに塚本の体感であろう。佐藤の評は歌を示すためにあったが、塚本は自身の身体へと歌を通過させている。おそらく歌が塚本自身へ及ぼした作用をもとに評をしているのだ。
「道」さへ、地理的な、作者の今走りつつある「道路」を意味する以上に、彼の人生とその進路を指してゐるやうに思はれると読む塚本は、佐藤も言及した「しんしんと」について修飾されるのは勿論「暗し」なる形容詞であるが、「堪(こら)へ」にも微妙にかかると考へてよかろう。すなわち、道の二義性は「しんしんと」にも関わるのだと書く。「暗ししんしんと」では目の前の道の暗さが強調されるが、「しんしんと堪え」では内面がクローズアップされ、人生の道が現出する。「よいからよいのだ」とした佐藤と違い、塚本は「しんしんと」の二義性を、「道」の二義性と重ねることにより、言語表現の効果を歌の意味内容と結び付けている。先の引用と異なり、ロジカルな印象を受ける部分だが、この「二義性」はおそらく自身の体感を客観視した結果、導き出されたものだろう。あくまでも体感がベースなことに変わりはないと思われる。
正直に言うならこの読み自体はさほど驚くほどのものではないが、佐藤も触れていた死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほた)のかはづ天(てん)に聞(きこ)ゆる(※)の歌については、瞠目すべき読みがなされている。私は「添寝のしんしんと」にそのやうなにほひを嗅ぐとある。「そのやうなにほひ」とは「薬」と「患い」の匂いである。その悲しいにほひに、屍臭(ししう)の混ざる刻の、さほど遠からず到ることを、医師である作者は知つていたゐたことだらう。斉藤茂吉の歌に頻出する「しんしんと」という語について塚本は、深深、森森、駸駸、あるひは沈沈(しんしん)と多義性を読み取っているが、ここではその語に嗅覚的な要素を視ている。一見したところにおいの描写はなさそうなこの歌に鋭く嗅覚性を読み取ることで、歌はいちどきに深度を増す。これはおそらく塚本が嗅いだ匂いなのだろう。にほつて来ない読者は、たらちねの母に邂(あ)つたことのない鼻聾(はなつんぼ)であらうと塚本は挑発的に言い張るが、その言い張りこそがこの読みの主観性、個人性を浮き彫りにしている。
そのような読みに塚本は鮮明な描写を加えてくる。「ひた走る」では晩夏深夜の草いきれと、降りそめた夜露のにほひが漂ふ。いかなる月夜か星月夜か、はたまた曇天かは知らね(以下略)、「死に近き」では潤みを帯びた夜気は雑草(あらくさ)や早苗や木木の花の匂を含み、蒲団(ふとん)の洗ひ晒(ざら)しの木綿の肌触(はだざは)りも、さやさやと初夏のものながら、どこか微かに湿つてゐる。こんなことは歌には一切書かれていないが、塚本はこのように歌を体感したのだ。塚本にとって、体感を伴わぬ読みなど読みではないのだろう。
あくまでも「註」にとどまり、「歌を見よ」とする佐藤に対し、塚本は「私はこう読んだ」と読み手の身体を前面に押し出す。主観を連ねるだけでは説得力がなくなるのでロジックも用いるし、ロジックに傾きすぎれば、無味乾燥となるから潤いのある描写も加味する。
けれどたとえば暗澹(あんたん)として凄じく、しかもなほ茂吉のエラン・ヴィタールを浮彫にしてゐるというような賛辞は大げさなものにも思える。過大評価だという意味ではない。単に言葉が上滑りしている、というのとも違う。もちろん、そういう書き方なんだと言われてしまえばそれまでなのだが、何と言えばいいだろう、そのように書く塚本はどこか苛立っているように見えるのだ。そしてさらに言うならその苛立ちの裏には、そこまでの言葉を尽くさないと、語ろうとしているものが逃げてしまうというような不安が、どこかにあるのではないか。思えば、先の「にほつて来ない読者は」も言葉が強すぎる。傲慢なまでの自信にあふれているが同時に、手負いの獣が向ける敵意のようにも見えて、何かを強く恐れているようでもある。
不安や敵意は、一見外に向けられているように見える。先述の通り、塚本の評のベースは体感にある。評を評の読者に否定されることは、おのれの体感を否定されることになるのだから、当然不安はつきまとうだろう。けれどそのような対外的な不安だけだろうか。
これは勝手な深読みかも知れないが、不安の根本的なところは、内側にあるのではないかと思う。それは「この批評の言葉は、本当に私のこの歌に対する思いを十全に反映したものだろうか」というようなものである。思いはそのまま言葉のかたちには結実しない。言葉とは常に思いにとっては他者なのである。

言葉に置き換えた途端に、体験は物語に姿を変えます。書き記された記憶はもう本当の記憶ではありません。どれだけ客観的に、或いは事務的に書き記したとしても、それは事実ではない。現実は決して書き記すことができないのですよ 京極夏彦

塚本の読むという現実上の体験は、書くことによって物語に変質する。「似ている」ということは突き詰めれば「異なる」ことを意味する。きわめて高い言語能力を持つからこそ、いかようにも書く力を有するからこそ、なおさらそのように感受するのだろう。また斉藤茂吉に極めて強い思い入れを持つからこそ、塚本邦雄はそのような「不安」を抱くのであろう。
客観視できるやうな悲歎なら始めから高の知れたものだし、主観の高揚をそのまま感動には変へ得ぬ(塚本の「死に近き」評より)。心がそのまま歌にならぬように、心がそのまま評になることもない。
おのれの体感が、書きつけたさきから「体感した」という物語に変質していく状況下(※※)で、それでも「これは物語ではない。まさしく俺の体感なのだ」と言い張ること。歌が匂うという言葉は、歌が匂わない読者に対してのみ向けたものではない。おのれの内にある疑念、「その体験は果たして「匂う」という言葉で十全に表すことのできることなのか」という疑念、「「匂う」という書いた言葉は実は、体感を言葉に置き換えることで生じたフィクション」ではないか」という疑念に対しても向けられていて、その疑念を一太刀に振り払うべく、塚本は語気を強めていく。そうではないのか。
おのれの評にきわめて強い自信を持つ一方で、いや持つからこそ誰よりも強い「不安」のようなものを塚本は抱えているのだ。そう考えてみると言葉を尽くさない佐藤の評の方が堂々としているようにも映る。
もちろんこれは単純な評の良し悪しの話ではない(※※※)。その「不安」が塚本の評の言葉を弱めているということはけしてないし(むしろ評の原動力になっているのではないか)、そのような「不安」を持たない(ように見える)佐藤の評がより劣っているということもない。そういう話をしたいのではなく、塚本のこの「不安」は、「批評とは何か」というものの本質的な部分にかかわってくるように思うのだ。


※:底本の関係だろう。この歌も「ひた走る」の歌も、佐藤は新字体、塚本は正字体で引用しているが、便宜上新字体に統一した。なお佐藤の方では「遠田」のルビが「とおだ」となっている。

※※:塚本が評の中で用いた「エラン・ヴィタール」という語はたとえば「生命の躍動」や「生命の飛躍」と訳されるフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの用語だが、そのベルクソンの言葉にはこのようなものがある。画家は自分の制作する作品の感化そのものでその才能が形成されたり崩れたり、ともかくも変様する(『創造的進化』より)と。文章を書くのもおそらく同様であろう。私の書こうとするものは、私が今書いている文章自体の影響によって絶えず変容し続けるのだ。だからなおさら体感が、文章中にそのまま宿ることはありえない。

※※※:批評の良し悪しというのは考えれば考えるほど難しい。良し悪しの基準は、「一首評」に限っても①「作品をよく読めているか」②「評者自身の体感を十全に表しているか」③「評の読者にとって興味深いものになっているか」など複数考えられるからだ。それぞれ作者基準、評者基準、評の読者基準の良さである。良さを向ける方向が単純に三方向あるのだ。



これはほとんど余談だが、塚本の歌の読み方は、穂村弘という歌人にも一部受け継がれているように思う。

一千九百八十四年十二月二十四日のよゐのゆきかな 紀野恵

初読は十年以上前だろうか、『短歌ヴァーサス』誌に掲載されたこの一首に対するごく短い評が強く印象に残っている。「歌の翼に」において穂村はこのように書く。この地上に生きてあること、呼吸をしていること、その喜びが、韻律と結句の「かな」の翼によって祝福されているかのようだ。この評に強く私は共感する。共感するけれど、その評の存在なしに私がこういう風に歌を読めたかどうかは非常にあやしい。今の私ならばできるかも知れないが、今の私とは穂村弘の『短歌という爆弾』や『短歌の友人』を読むことで不可逆な影響を受け、穂村弘をインストールした私である。そうでない十年前の私にできただろうか(※※※※)。
塚本が「しんしんと」に嗅覚性を読み取ったように、穂村は「かな」に祝福性を見出す。これはおそらく穂村の身体を通過した言葉なのだ。けれど穂村は自身の身体を塚本のように前面には出さない。自分自身はあたかも透明人間であるかのように振る舞う。語る言葉を身体が引き受けることはなく、それをあくまでも歌自身の持っている力のせいにしようとする。手に触れるものをみな黄金に変えてしまうミダス王のように、読む歌をことごとくきらきらにしていくような存在が穂村弘である。
穂村弘に「不安」はあるだろうか。それを探ろうと思っても、彼によって光らされた歌の輝きに紛れてしまって、うまく探せない。


 ※※※※:『短爆』(引用者注:穂村弘の著作『短歌という爆弾』)を読んだ私は、『短爆』に引用されているこの二首がいずれも非常にすぐれた歌であるように感じる。しかし私は『短爆』のナビゲートなしにこれらの歌の美しさに本当に気づくことができたかどうかについては自信がない。瀬戸夏子「穂村弘という短歌史」より。この評論において瀬戸は、穂村弘の批評についてきわめて詳細な検討を行っている。けれど『短爆』は塚本的ではないとする瀬戸の論を追うのは、穂村弘という歌人にあまりに深入りすることになるため、この場では穂村については素朴な理解にとどめておくことにする。




 二章:菱川善夫と「ひかりになること」


 1
 『菱川善夫著作集』には一巻の始まりに「歌の海」が収録されている。これは「愛」をテーマにした歌の「一首評」集である。「北海道新聞」の連載をまとめたもので、一首にあたりの文字数は三百字ほど。一般読者向けに短歌を紹介するという目的で書かれている。いくつか読んでみたい。

 薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ 岡井隆

 連載のはじめの一首。女が抱いて湯に沈むのを、「薔薇抱いて」と歌った。「薔薇」を喩であると、大胆に断定するところから始まる。そこから評は薔薇を抱く人の心の憂愁に言及し、人間の孤独を根源で慰藉するものは(略)官能ではないのかという問いを発見する。またこれは人生の傷痕をなめた壮年にのみ可能な発想だとも述べている。
 
 ひとの夫(つま)そのことわりを超えむとな 凝(こご)る真冬のむらさきの釉 菅野美知子

 人の夫だからといって、そんなことわりを恐れるなという心の声。「作者」の内面の葛藤を、菱川は「そのことわりを超えむとな」の、やや舌たらずの文体の中に見る。下句全体を作者の内部で凝結している深いとまどいの象徴と解釈し、何と魅惑的なとまどいであることかと「作者」の内面の事象に美を見出している。

 ある暁(あけ)に胸の玻璃戸のひびわれて少しよごれし塩こぼれきぬ 富小路禎子

 胸の中にあるガラス戸は、はりつめた孤独の意識をあらわすのだろうか。(略)「よごれ」に、かすかな欲情のなごりが漂う。「歌の海」は実は相聞歌をテーマにした連載である。相聞歌としてこの歌が挙げられたのは、菱川がこの「よごれ」の一言に性愛の色を帯びた感情を鋭く読み取ったためである。
 
 檸檬風呂に泛かべる母よ夢に子を刺し殺し乳あまれる母よ 塚本邦雄

 燦然と悪に輝く母のイメージを創りだすことで、そのような現代の生がおかれている危機感を訴えた。(略)歌は幻想の力によって、本質を一瞬のうちに把握するものでなくてはならない、とする作者の考えが端的に示されている。文明批判の文脈で塚本邦雄の歌を理解している。評の中でさりげなく用いている想像力の犯罪という表現が興味深い。

 失恋の<われ>をしばらく刑に処す アイスクリーム断(だ)ちという刑 村木道彦

 〈刑〉という言葉のもつ、ものものしい感覚にくらべて、内容は軽すぎる。だが悲しみを軽量化し、ピアニッシモで歌うのも技術である。(略)むなしさとやさしさの時代を生きる青年の感覚だといってよい。年代のことはあまり気にしてこなかったが、村木道彦は一九四二年生まれ。収録歌集『天唇』は七四年の刊行だから三十代の前半かそれ以前に制作された作ということになる。菱川の評は八二年のもので当時の菱川は五〇代さしかかったところである。確かに「青年の歌」という把握になるわけだ。


 2
以上、五首を縮約してみた。連載は一年と四カ月ほど続き、その間で取り上げた歌は一三三首。そのどれに対しても、簡潔かつ的確な評がなされているように思う。読んでいて伝わってくるのは「私にわからない歌はない」とでも言いたげなおのれの読みに対する自負だ。どんな歌がこようとたちまちにして短い言葉で本質をつかみ取ってしまうというような印象がある。菱川の「この歌はこうだ」、それは佐藤の「歌を見よ」とも塚本の「私はこう読んだ」とも違う評のスタイルだ(あるいは穂村に近いかも知れないが、穂村のミダスハンドがある種のスター性を有するのに対し、菱川のそれは熟練の職人技のように見える)。
そんな菱川の言葉は、同時に短歌が「わかる」とはどういうことか、ということを浮き彫りにしてもいる。
 まず何と魅惑的なとまどいであることかという菅野歌への評。これは歌に対する菱川自身の立ち位置を示している。言葉の背後には、その歌を眺める菱川自身の姿が見える。評者は自身が透明なふりをして語るが、真に透明になることはできない。短歌を読むというのは、自らの立ち位置から読むことであり、短歌が分かるというのは自らの立ち位置から分かることなのだ(だから「この歌はこうだ」も「私はこう読んだ」のヴァリエーションではあるのだ。「私」を強調するか捨象するのかの違いである。逆に塚本が「私」を強調しすぎているかも知れない)。
これは人生の傷痕をなめた壮年にのみ可能な発想だという岡井歌への言葉があるが、岡井は一九二八年生まれで菱川は二九年生まれ。歌に対し、「同世代だから分かる」というところからアプローチをしているように見える。単純に比較するなら、菅野歌を読む時より岡井歌を読む時の方が、菱川は歌のそばまで寄っている
肉感的作品の氾濫する時代の中で、この抽象化は貴重だと評する富小路歌も相対的に遠いように思うが、塚本歌はさらに遠いかも知れない。母のイメージと書き、作品全体を「イメージ」として扱っている。作品を真に受けたのでは読めないから、メタレベルに立って読むという読み方をしている。イメージに酔いながらもそのイメージを括弧にくくっている。夢を見ると同時に醒めてもいる。
この読み方は、一九九四年から始まる「塚本邦雄『水葬物語』全講義」(同歌集収録二四五首への全首評!) においても共通している。この歌を写実の目で解釈すると意味不明の歌になります。しかしこれを隠喩として読むなら(以下略)は、『水葬物語』九七首目への評に登場する言葉だが、「隠喩として読む」は、塚本を読む際の菱川の基本的な態度であると言っていい。
村木歌のむなしさとやさしさの時代を生きる青年の感覚は「もはや別時代の人だから分からない」という意味にも取れてしまう。理解を示して評価はしているが、その今の理解からは一歩も先に進むつもりはないという態度にも取れる(あくまでも文章が取らせている態度であって、菱川自身がそういう態度の人物だと考えたいわけではないが)。



「短歌が分かるとは自らの立ち位置から分かること」これを一つとするならもう一つは、
「一首の理解は人物への理解につながっている」ということだ。たとえば岡井歌を見ると、末尾に前衛短歌を導いた岡井隆は、九州へ逃亡ののち、これらの歌をひっさげて歌壇に復帰した。現在、国立豊橋病院内科医長とある。「一般読者が歌の作者の人物像と合わせて歌を読めるように便宜をはかった」という側面もあるのだろうが、そもそも歌を理解することと人物を理解することを合わせて考えてなければ、このような記述は出てこないだろう。
そう考えると短歌を読むというのは、一人の人間が自らの立ち位置から別の人間のことを理解しようとすることと深いかかわりがある。私がある短歌を読むことと、私が自分の職場に新しく入ってきたAという人物を理解しようとすることは、全く同じではないけれど、どこか通じるところがある。菱川の短歌の読み方からは、批評のそのような側面を見出すことができる。

紺の足袋はけば恋しき人の世にあとさきあらぬ雪は降りつぐ 清田由井子

「歌の海」から十年後、菱川は「物のある歌」の連載を「北海道新聞」日曜版で始める。こちらは四年間続いた。一首あたりの紙幅は「歌の海」のおよそ二倍。
一首の背後には恋情が隠されている。それを暗示するのが「あとさきならぬ雪」である。前後の脈絡なく降る雪。人を恋しく思う気持も、筋道だってやってくるものではない。乱れた息づかいのように降る雪。その白一面の中に薫る紺の足袋。
「足袋」の「紺」についての洋装のストッキングに、新しい色彩感覚が求められたのと同じ心理だろうという認識は、上記の読みを展開する上での傍証となっている。このような作品レベルでの繊細な読みを菱川は作者は、阿蘇の麓、久木野村に住む。熊本から一時間。深い山棲みの生活が、清廉な感受性と勁(つよ)い意志を育てた。紺や黒を愛用するのは、その生き方と無縁ではないと作者レベルへの読みにつなげていく。読者への紹介という側面もあるだろうが、作品を通した人物理解への興味がなければこんなことは書かないだろう。
しかしこの一文は、歌の中の「紺」という一文字を作者の全人生に背負わせるような一文であって、非常に興味深い一方、ある意味レッテル貼り(※)ではないかとも思わせてしまう。分かろうとすることの傲岸さのようなものを読み取れなくもない。評が作品ではなく人物に向かっているからこそ、そのように感じられてしまうようだ。
以下の歌の読みはどうだろう。

「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」 穂村弘

「本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」と言わせたところは、着眼点が鋭い。たしかに、チューブの歯みがきをいっきに絞り切るには、相当の力がいる。怒りを笑いに転化させて表現したが、才智のひらめきがなくては、こうは言えないは、塚本歌の時と同様にメタレベルに立って読んでいる。台詞を言うドラマの登場人物ではなく、登場人物を演じる女優にその台詞を言わせた脚本家・穂村弘に言及している。塚本や穂村のような作風を、人物理解のために読む場合、必然的にこのような読みになるのだろう。人物を探り当てる作業を遂行する以上、作中世界を真に受ける楽しみにはとどまれないのだ。
問題にしたいのはその次である。「猫投げるくらいがなによ」には、男さえ猫化してしまった時代への風刺もひそんでいる。ストレートな方法ではなく、こういう屈折した方法で、時代への異和を表明したところに、この作者の特質がある。これを読んだ私の素直な感想は「なるほど」だった。この歌は以前から知っていたが、そういう風に思ったことはなかった。けれど作品レベルでの読みとしては面白いが、作者レベルとしてはどうか。「これが脚本家・穂村弘の意図なのだ」と言われると正直なところ和感を覚える。「「男さえ猫化してしまった時代」という風に感じているのはむしろ菱川自身であり、菱川自身の思いを評に投影しているのではないか」という邪推までしたくなる。
仮に歌にそのような考えが歌に表現されているとしても、歌がそのようなものになった原因はいくつも考えられる。①穂村にそのような意図があり、意図通りに表現された。②意図はないが考え自体はあり、考えが作品に反映されていることにも自覚的だった。③考え自体はあったが、反映されていることには無自覚。➃考え自体なく偶然。
 この四つはきっぱり分けられるわけではなく「②寄りの③」というようなこともあるだろう。なんにせよ読者には決定不能である。決定不能なことをよいことに、④を③に、③を②に、②を①にして読もうとする傾向が、批評という行為にはしばしばあるのではないかと思う。作者が全く意図してなかろうが、作品から読み取れたことは作者の意図にしてしまう。だから清井歌で見たように「紺」一文字に人生を背負わせるようなこともできる。これは人間理解として短歌を読む際の危うさではないだろうか。偶然を選択の結果に、無意識の反映を意識と読むことは、いかに精緻な読みに支えられていようと乱暴さを隠せない行為ではないのか。
 けれどこの疑義については、むしろ開き直って考えることができる。読むことが、そして読みを語ることが少々乱暴なことは当然のことだ。それを乱暴に感じるのは社会化されたデリケートな人間関係を当たり前のものにしているからだ。社会生活を送る上では他人には干渉しすぎない方がよい。けれど批評の場は実社会を離れたところにあって、そこは生身の人間同士が直にぶつかり合う場所なのだ。最低限の人としての倫理は踏まえるとしても、すべての理解を誤解と考えるような思考はむしろ病的ではなかろうか。そういう風に考えるなら、この乱暴さは一定の限度を超えない限り、むしろ真っ当なものとなる。


 ※:そんなことを言うなら、短い文章をいくつか引いただけでその書き手の性格を決定づけているようなお前の方の行為こそレッテル貼りではないか、と言われるかも知れないが、それは全くその通りだと思う。ただ本論での引用はすべて批評というものの考察のために行われており、その批評を行う人物の理解へ向けられたものでないことは述べておきたいと思う。本論を通して「塚本邦雄はこうだ」「菱川善夫はこんな書き手だ」ということを言うつもりは全くないし、そのようなメッセージが仮に読み取れたとしてもそれは私が限られた資料の中から捏造した塚本邦雄や菱川善夫であって、実物そのものではない。


 4
 これまでに多くの人々に「歌人」と呼ばれてきた人ですらもじつは「短歌とは何か」をまだ本当の意味で知っていません。 三上春海

 僕たちにとって生成しつつあるものというのは、自分の中の手の届きそうな場所に在って、けれども言葉になって外気に触れた瞬間に脆くも崩れてしまう、現世の言葉では語りえない存在だ。 鈴木ちはね

 二〇一五年に刊行された三上春海と鈴木ちはねによる書籍『誰にもわからない短歌入門』
からの引用である。同書は「わからない」「語りえない」という立場に立ちながらも、「一首評」に近い形式で個々の短歌を読んでいく。その読解の中で、同時に短歌一般についても思考を巡らせていくようなスタイルが取られている。

 ハロー ハローワーク待合コーナーの待ち順札を吐き出すマシン 岡野大嗣

 この歌に三上が評をする。「マシンを」見つめ「待ち順札を吐き出すマシン」と認識し、でもそれにすら「ハロー」と感じる機械のような自動的な認識を彼は持つ。自動的な「彼」と自動的な「マシン」の、二つの機械の邂逅のように掲出歌は感じられると読む。その読みは穂村弘のある二首の歌との比較から生まれてくる。①〈降りますランプ〉という「命名」の修辞が効果的な機能を果たしている穂村歌Aと、岡野歌での「待ち順札を吐き出すマシン」の芸のない命名の比較。②「ハロー」に文化的な最低限度の高揚感が感じられる穂村歌Bと、それすら感じられない岡野歌。その比較を通し、主体性や感情が欠落した(とは三上は書いていないが)「自動的な認識」を持つ存在として「彼」を把握する。
個人的に「なんか四角い文章だな」と思う。文章に機械的な印象がある。評の展開についても、マイクロソフトエクセルの関数でも用いて、①人間性が一定以上感じ取れる歌には「人間」、②感じ取れない歌には「マシン」、という値を自動的に返しているような感じがしてしまう。だから「二つの機械の邂逅」の場に立ち会うこの三上という評者自身も一つの「マシン」なのではないのか、という気持ちにさせられる。けれどこの評の根底の部分には三上の感覚的な判断(「芸」を感じるか否か、「高揚感」を感じるか否か)がある。だから(少なくとも今現在の)機械にこんな批評は不可能であり、批評の言葉の背後に人間がいることは間違いない。これは機械を装った機械コスプレの批評なのである。三上は「マシン」を演じることにより、「マシン」のようなこの一首に近づこうとしている。要するにここで三上は、他人という「分からない相手」に対し、相手自身になることによって相手を理解しようとしている。その相手も正真正銘の「マシン」ではなくその実は人間なのだから、コスプレが透けて見えるくらいでちょうどよいのかも知れない。
 それに対し、鈴木が返答する。往復書簡のような形式で、一首に二人ともが評を行っているのだ。あくまで全方向に対してニヒルであり続けること、それそのものがむしろこの主体の表現規範なのだろう。この「表現規範」という言葉は注目に値する。「表現規範」は要するに「自分ルール」ということだろう。むなしさとやさしさの時代を生きる青年の感覚という菱川善夫の村木道彦に対する言葉は、村木歌を「青年」というマクロなくくりに帰属させて考えているし、あくまで「俺からはそう見える」という自分ベースの理解なのだと思う。けれど相手の「自分ルール」を探ることは、相手を個として捉え、相手ベースで考える見方だ。まるでセラピストがクライエントを分析するような見方だと思う。かれはおのれの人格、あるいは感情の無価値を自覚しているがゆえに、無敵なのだ。三上さんの言うところの「自動的な〈彼〉」には、そういう冷たい自虐の刃をつねにおのれの裡に向けて突き刺し続けているようなかなしみを秘めている気がする。人間の中の「マシン」性を読み取る三上の評に対し、鈴木は人間の「マシン」性の中に人間性を感じ取る。
 両者に共通するのは、評の対象である短歌を、あるいはその背後に読み取ることのできる人物を、わかりえない「他者」として捉えていることだ。「他者」は基本的に人格を有していて、だから人物理解として短歌を読んでいるところは菱川と同じだと思うが、菱川は相手を理解可能だと捉えているのに対し、三上や鈴木は本質的には理解が成り立たない相手だという把握をしている。そんな相手に対し、彼らは評の中でそれでも理解しようというスタンスを取る。
そしてその試みは彼らの文章の中で一定の成果を得るのだが、その成果を往復書簡という形式が相対化する。三上の「理解」は鈴木にバトンが手渡された時点で「一つの意見」にすぎなくなる。ではそれに続いて書かれる鈴木の文章は、何かしら絶対的なものを有するのか。確かに紙面上では、リレーはそこで途切れる。三上の二ターン目が始まったり、同じ歌に対する第三の執筆者が登場したりすることはない。けれどやはり鈴木の文章も、相対化されて「一つの意見」になると思うのだ。それはなぜか。
 三上は同書において「どろみずの泥と水とを選りわけるすきま まばゆい いのち 治癒 ゆめ」(笹井宏之)という歌がしりとりのような構造を持つことに対し、「ゆめ」から「どろみず」に至る言葉、すなわち「めいど」を文末に補うとしりとりがいつまでも続いてしまうという評をしている。「めいど」は笹井宏之が評の時点で故人であることから出てきている。すなわち、冥土。というのはわたしの読み過ぎだろうけれどと三上本人が言うように、作品評としてはちょっと出来過ぎている感のある評である。けれどこの言葉は、『誰にもわからない短歌入門』という一冊の本の構造について、メタ的な立場から密かに言及したものではないだろうか。
 往復書簡形式によって構成される『誰にもわからない短歌入門』は、いわば無限に続く評のしりとりを暗示しているのだ。確かに現実の紙面上では鈴木→三上、あるいは三上→鈴木と、最初のターンのみで「一首評」は完結しているけれど、その紙面は一つのヴィジョンを幻視させる。評のリレーはその後もずっと続いてゆき、その無間循環の中で、評の言葉は絶えず生成変化する。それはけして到達不可能な「他者」の理解へ限りなく迫っていくものである。そんなヴィジョンだ。
 だから『誰にもわからない短歌入門』(三上、鈴木の個々人ではなく)のスタンスは、「この歌はこうだ」を否定し続けることによる、「「この歌はこうではない」の無限反復」である。そこでは「わかる」は暗示されるのみで「わからない」ばかりがある。けれどその死屍累々の「わからない」の山は、「わかる」の価値を無限に増大させている。


 5
 全講義という形式は、最初から闇を含んでいると言ってよい。その闇の中から、はたして新しい秩序と法則を見いだすことができるのか。 菱川善夫

「塚本邦雄『水葬物語』全講義」の「あとがき」として置かれた文章には、菱川が「秩序と法則」に価値を置いていることが明確に示されている。闇にひかりを当てること。テクストが闇であるのなら、それを読み解く菱川はひかりになろうとしたのだった。そして『誰にもわからない短歌入門』もまた、ひかりにはなれないことを自覚しながら、ひかりになることを希求し続けている。
けれど、そもそもなぜ彼らは「ひかりになること」を望むのだろう。なぜ「秩序と法則」を求めるのか。そもそもそんなことをする必要が本当にあるのだろうか。そのような前段階の問いは、ここにはない。
塚本邦雄の「不安」は彼らにはあるのだろうか。恐らく菱川善夫はその「不安」を認めることを敗北だと思っていたのではないか。批評家としての矜持や使命感が、そのような思いを支えていたに違いない。
そして『誰にもわからない短歌入門』においては、「不安」に対してある意味開き直っている。「僕たちにとって生成しつつあるものというのは、自分の中の手の届きそうな場所に在って、けれども言葉になって外気に触れた瞬間に脆くも崩れてしまう、現世の言葉では語りえない存在だ」という鈴木の言葉をもう一度引こう。これはつまり「語ることは不可能だから、不可能に向かって語るしかない」ということだ。不可能はあらかじめ承知なのだから「十全に語れない」ことに対して「不安」を抱く必要などない。
塚本が「不安」を原動力としたのとは反対に、彼らはその「開き直り」を原動力として語る。



批評にとって短歌とはなにか /後編  吉岡太朗

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三章:「作者」の逃走


 1
 ところで『誰にもわからない短歌入門』には以下のような記述がある。

 短歌の「うまさ」というのは、時として短歌を損なう。短歌において技術やレトリックというのはあくまでうたの核心を支えるものであるべきで、それ自体が読者にとってのうたの眼目になってはいけないのだ。そういう短歌は単に作者の「うまさ」を読者にひけらかすための手段へと成り下がってしまう。 鈴木ちはね

同書は「一首評」集のような形式をとっているが、「入門書」でもある。だからこのような文章も時々出てくる。「うまさ」というのは通常は肯定的にとらえられるものだと思う。けれど鈴木はその全肯定に対し、保留をさしはさんでいる。けして「うまさ」の否定そのものではないが、「うまければ、うまいほどよい」という価値観を仮想敵として攻撃している。

短歌の韻律を考えるときに、表面に現れてくるものより深部でからみあう母音と子音や拍感を大切にした方がいいんじゃないかなというのが僕のスタンス。単純な頭韻や脚韻をふんだんに使った歌は、容易にそれを指摘することができるけれど、それに気づいてしまうと、その韻を組み立てるために言葉が選ばれているのではないか、というところまで見切られてしまうことがある。(略)そういう韻を、すまし顔なお利口な感じの歌で踏まれてしまうともうキツい。「この歌、韻を踏んでてリズムが綺麗でしょう?」とアピールされてるように思えてしまうから。 阿波野巧也

今度は個人誌『毎日の環境学』の「十月のこと(日記)」から引いた。短歌の韻律についての自説を書いているが、ここに書かれている「深部」と三上における「うたの核心」、阿波野の言う「アピール」と鈴木の「読者にひけらかすための手段」は、ほとんどパラレルに捉えることができるのではないか。阿波野はテクニカルなものは好きだ。でも、テクニカルであることにドヤ顔をしているのはきらいだとも書いている。これは今村夏子の小説の感想の言葉だが、その後で短歌の話とも結びつく。テクニックはどこまでも内面化しないと、ただの表層的なものになるということ。これがわかってないで短歌つくったり歌会の批評をやってる歌人もいると挑発的なことを言い始める。

この歌は菜の花から始まってとてもイメージ喚起力の強い歌となっている。それも短歌に親しんでいる読者に向けては「ここテクですよ」と囁くようなうまさが光っている。そのうまさは、普段なら鼻につくものなのだけどこの歌ではあまりにも無邪気にエヘヘといってるように感じられ邪険にできない。 谷川由里子
 
 同人誌『SHE LOVES THE ROUTER』の「感覚の逆襲」から。その中の「菜の花を食べて胸から花の咲くようにすなおな身体だったら」(山階基)という歌への「一首評」から引いた。ここでの「鼻につくもの」も、阿波野の「ドヤ顔」のパラレルとして読むことができるだろう。
けれど「無邪気にエヘヘといってるように感じられ邪険にできない」という谷川の発言は、阿波野とは少し違うことを言っているように思える。この「邪険にできない」顔はどこにあるのか。鈴木が、阿波野が言うように「うたの核心を支える」ものになっているのか、「内面化」されているものなのか。恐らくそうではない。阿波野の言う「表層的な」ところにこの顔はあるのではないか。
技術を駆使しても負けないのは、作者が主体よりも強くその無邪気さに焦がれているからではないだろうかと言葉でこの「一首評」は結ばれるのだが、ここでは「作者」と「主体」が並置されて語られている。「主体」はいわゆる「作中主体」のことだろう。いつの間にこの二つの概念は向かい合うようになったのか。



 そもそも「作者」とは何か、「作中主体」とは何か。この問題を考える上で分かりやすいのは大辻隆弘の「三つの「私」」の概念である。以下、『近代短歌の範型』より大辻の議論を参照する。
 レベル①「私」…一首の背後に感じられる「私」(=「視点の定点」「作中主体」)
 レベル②「私」…連作・歌集の背後に感じられる「私」(=「私像」)
 レベル③「私」…現実の生を生きる生身の「私」(=「作者」)
 ①一首の歌の叙述の背後に想定され、視点の定点となる人物。②連作のようなひとまとまりの短歌を読んでいく時に想定する人物。③歌集を編集する個人であり現実社会の生活者でもある人物、大辻は「私」を三つに分解して考える。
 近代短歌では「私①=私②=私③」が成り立っていたと大辻は言う。一首の歌の背後に「作者」や「私像」を感じ取り、その人物イメージに裏付けられた形で一首の歌を読み直す。そういう往復運動のなかで、一首の歌のなかの「作中主体」には複雑な陰影が加わって来る。
「わが道暗し」は、作者の行く夜半の道であるが、おのずから人間的な感慨が参加しているだろうと佐藤佐太郎が書く時、その「作者」とは一首の歌の「作中主体」でもあるし、「悲報来」という連作の背後にある「私像」でもあると同時に、斎藤茂吉という「作者」でもある。すべての意味をこの「作者」は含んでいる。
大辻は、前衛短歌運動についてこれを、「作者」から、「作中主体」や「私像」を切り離す「私①=私②≠私③」の試みだった、という認識を提示する。切り離すことで、切り離したものを表す言葉が必要になった。「作中主体」という語が多用されるようになったのは一九八〇年頃からだと大辻は指摘するから、戦後に始まった前衛短歌運動とは若干のタイムラグはあるようだが、「新しい出来事」として起こったことが「当たり前のこと」として踏まえられるようにはそれだけ時間がかかるということだろう。
それはさておき、ここで問題にしたいのは、「作者が主体よりも強くその無邪気さに焦がれているからではないだろうか」と谷川が言う時の「作者」は果たして大辻の言う「私③」のことだろうか、ということだ。
大辻は直接こんなことは書いていないけれど、「私①」「私②」「私③」という図式は、前者が後者より深い次元にあるという印象を評論の読者にもたらさないだろうか。先の引用の「一首の歌の背後に「作者」や「私像」を感じ取り」という部分を読む時、評論の読者は「作中主体」のさらに背後に「私像」があり、そのまた背後に「作者」がいる、という図式を想像するのではないか。「作者」のいる位置、それはまさしく鈴木が「うたの核心」と書く位置ではなかろうか。けれど谷川の「作者」の顔は、阿波野の言う「ドヤ顔」とパラレルな位置にあって、「表層的」なものだと読めるのである。それは本来なら「鼻につく」存在なのだけれど、その様があまりに「無邪気」で許せてしまうだけであって。
 レベル③の「私」とは、一般的には「作者」という名称で呼ばれる個人のことを指す。一首を作り、歌集を編集する個人のことである。一首を作り、歌集を編集する個人のことである。また、その個人は、現実社会の生活者として日々の社会生活を営んでいる社会的存在であるというのが大辻の「私③」についての記述だが、「一首を作り、歌集を編集する個人」と「生活者として日々の社会生活を営んでいる社会的存在」というのは、実は別々の概念なのではないだろうか。
 読者は、一首の背後にいる「私」を読み取るよりも先に、一首の表面にいる「私」の存在を把握するのではないか。その「私」とは(意味やイメージではなく)言葉としての短歌において、その言葉を現に配列したと考えられる人物のことであり、「作者の手つきが見える」というような評がなされる時のその「手つき」そのものである。「この歌、韻を踏んでてリズムが綺麗でしょう?」とアピールしてくるのは、この「私⓪」(制作者)とでも言うべき人物と考えるべきだろう。
 鈴木の言う「単に作者の「うまさ」を読者にひけらかすための手段へと成り下がっ」た短歌とは、「私⓪=私①」が成り立っていない「私⓪≠私①」の短歌のことであり、そこでは制作者の顔が悪目立ちする。だから本来なら避けられるべきことなのだけれど、谷川は山階歌を「私⓪≠私①」とみなしたまま、その歌を特別に肯定している。
谷川の読みはつまり、「私⓪」という存在を、「私①」とはけして同化しない存在として並列に扱い、それぞれ別個に「私③」とつなげて読んでいるのだろう。そして最後に一文で「作者が主体よりも強くその無邪気さに焦がれている」と言って、別々に「私③」と結び付けられた「私⓪」と「私③」を引き合わせている。
第一段階:「私⓪≠私①」
第二段階:「私⓪=私③」&「私①=私③」
第三段階「私⓪>私①」
という読みだ。おそらくこれまでにない歌の読み方だろう。ここから谷川由里子という評者の個性に迫ってみたい気もするが、しかし今はそれよりも先に考えないといけないことがある。



上述の議論が必然に生む問いがある。「私③」からの「私⓪」の切り離しは、「私③」という概念自体の変質をも意味するのでないか。「私⓪」と区別した「私③」とは果たして何か。「私⓪」と「私③」はどのような関係に位置づけられるのか、という問いだ。
 
画像は、絵の具や画布といった現実的な支持体と、非現実的な絵の中の世界すなわち、像世界、という二つの層とが一つになったものであり、そのことによって、例えばわれわれのいる部屋という現実世界に、非現実の世界が開かれる。 森田亜紀

森田亜紀は『芸術の中動態』において、ドイツの哲学者オイゲン・フィンクの論文を参照しながら、このように語る。ここでの「画像」という語は、絵画のようなものが想定されていると思われるが、森田の著作は「芸術」のジャンルを限定していない。だからここでの「画像」もある程度広く捉えてよいだろう。短歌も「現実的な支持体」(言葉そのもの)と、そこから読者によって感じ取られる「像世界」(内容、つまり景や意味やイメージ)によって成り立っていることは間違いないのだから。
この理解において「私⓪」(制作者)はどの位置にいるだろう。制作者は「像世界」つまり内容に直接働きかけることはできない。それは「現実的な支持体」つまり言葉を介することによってしか不可能なことだ。一首の短歌に悲しみの印象をもたらしたければ、悲しみを呼び起こすような語を一首の中で用いるしかない。では「私③」はどこにいるのか。

表現したい内容であれ、つくるべき作品の構想であれ、作者の意図であれ、あらかじめ何かがあったわけではない。しかし作品は、そういう何かの実現(reslisation)として成立している。精神的意味的なものが物質的感覚的形象に表されている。つくり手はそこから遡り、そこに見て取られる意味内容や構想や意図などを、日付を遡らせて自分のものとする。     つくり手には、それがもともと自分のもっていたものだったと思える。 同

 森田は、今度はフランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティをもとに語る。作品を作るということは、あらかじめ「伝えたいこと」があって、それを現に伝えるということではない。作品が完成された時に結果としてその作品が有している「伝えたいこと」を、「これが自分の伝えたかったことなのだ」と思い、それを自分のものとして引き受けるのである。この時に制作者は作者となる。そのようなメカニズムが作品作りには存在するのだと森田は言う。これを便宜上メカニズムAとする。
メカニズムAは短歌においても生じる。一首や連作は、「あらかじめこうしよう」と思って、その思い通りに設計されるものではない。もしそんなものだとしたら、当初の思いの強さだけが勝負になってしまう。そんな単なる思い合戦が千年以上も残るはずがない。本論の一章で引いた「客観視できるやうな悲歎なら始めから高の知れたものだし、主観の高揚をそのまま感動には変へ得ぬ」という塚本の言葉をもう一度引用してもよい。
また短歌においてはある原則がある。今ではどれだけ守られているかわからないが、けれどそれがあること自体はいまだ忘れ去られずにいる「書かれたことは実体験である」という原則である。その原則の次元においても、同様のメカニズムは恐らく働くことであろう。そちらはメカニズムBと呼ぼう。
メカニズムBの例を挙げる。原則に全く忠実な人間が、たとえばある体験をもとに、十首の連作を作るとする。完全に体験そのままということはまずあるまい。体験を言葉に落とし込み、それを定型にあてはめる際に、体験はおのずと変容する。言葉にするとは、短歌にするとはそういうことだ。どれだけ似せて作ろうが、似せきれない部分を詞書で補おうが、生の現実をそのまま短歌にすることは原理的に不可能である。そもそも「似ている」ことは「異なること」を意味する(これは評においての、塚本邦雄の「不安」とも同じ構造をしている)。だからできあがった十首の連作は、自身の体験ではありえない。その「私」のものではない体験を「「私」の体験である」と判断するのが、原則に忠実な人間にとっては「短歌の作者になること」なのである(だから短歌には原理的に虚構が内包されている)。これがメカニズムBである。
ここには二人、いや三人の「私」がいる。
一:「現実の体験の中の「私」」
二:「作品の体験の中の「私」」
三:「「現実の体験の中の「私」」を「作品の体験の中の「私」」であると判断する私」
 この内の三の「私」が「私⓪」である。そして二の「私」こそが「私③」である。一の私は「語りえぬもの」である。大辻の議論は読者から見た「私」についてのものである。現在のこの議論はそれを制作者から見た「私」の側から検討しているから、一は大辻の議論の範疇を超えている。このことは大辻自身もはっきりと書いている。生身の「作者」は読者には分からない。したがって、レベル③の「私」は、正確には「読者が想像しているところの『作者』と思しい人物」としか、言い得ないものである。
「私⓪」は制作を行い、その完成に立ち会う。完成された時、「私⓪」は作品の最初の読者となる。そしてその作品の背後にいる「私」のさらに背後にいる作者の「私」を、「「私」である」と判断するのだ。



もちろんそれはメカニズムBの原則に忠実な人間に限った話である。そうでない人間は「三において一と二を結びつける」ということをしない。これが前衛短歌のケースである。大辻はこのケースを「私①=私②≠私③」と表したが、これは「私⓪≠私③」(※)で表されるべきケースなのである。
けれど前衛短歌においてこの切断は完全なものではない。なぜなら前衛短歌の作者が、作品の作者であることを放棄していないからだ。そう、前衛短歌の作者はメカニズムBこそ否定するかも知れないが、メカニズムAはしっかりと受け入れているのだ。

歌:園丁は薔薇の沐浴のすむまでを蝶につきまとはれつつ待てり 塚本邦雄

評:園丁とは、すなわち塚本邦雄その人にほかなりません。 菱川善夫

歌:少しでもきつくないように鶏のあし括りやるすすんで妹は 平井弘

評:この「妹」は、もちろん作品のなかで創られた妹ですが、妹を通して、女は戦争に対する良心の代名詞だ、という通念に対して、平井弘は、はっきりと異議と唱えております。 菱川善夫

菱川善夫の「塚本邦雄『水葬物語』全講義」と「遅れ方の課題――平井弘と大江健三郎」からそれぞれ歌と評を引いた。どちらにおいても菱川は作品に対し、「隠喩を読み取る」というかたちで、作品から作者を読み取っている。
ここから言えるのは、近代短歌から前衛短歌への転換とは、読者論的に見るならば、実はメトニミー(換喩)からメタファー(隠喩)への転換なのではないだろうか、ということだ。近代短歌の読みとは大辻的に見るならば、部分と全体の関係である。一首の「作中主体」(「私①」)を、連作や歌集中の「私像」(「私②」)の断片であるとみなし、その「私像」もまた「生身の作者」(「私③」)の一面であるとみなすものである。
それに対し前衛短歌においては、作中の人物や作中に登場するモチーフは「作者」の何らかの思想や心情その他のメタファーである、とみなされる。それは「私⓪≠私③」の壁を、作品を手掛かりに(「私①」や「私②」を参照しながら)直接乗り越えようとするものだ。
作者の次元において、確かに前衛短歌は作品から「私」を除外したものかも知れない。けれど読者の次元においては、むしろ「私」は濃厚になってしまうことがある。なぜなら作品の中の「私」ではないものも、読者の読みのよって「私」にされてしまいかねないからだ。
「作者」がどれだけ「私」を隠そうとしても、読者はそれを執拗に暴き立ててしまう。もちろん「ここには「私」がいない」と容易に諦める読者もいるが、菱川善夫のように優れた追跡者もいる。そしてこのような追跡者は、自らの狩猟の成果を「評論」のかたちで他の読者に発信してしまう。だからこれは「作者」の問題ではなく、読者の読みの側の問題なのだ。
読者が変わらない限り、「作者」はこの逃走からは逃げ切れない。


※:この「私⓪≠私③」の「≠」と、谷川の「一首評」への言及で見た「私⓪≠私①」の「≠」は、言うまでもなく同じ意味ではない。そもそも元になった大辻の議論に登場する「物語読み」(詳しくは大辻の著作を参照のこと)における「=」も、他の読みにおける「=」と同じ意味ではないだろう。「私」と「私」の関係は「=」と「≠」だけで表すことが可能なほど単純なものではない。けれどその複雑さをすべて記述することも、場合によっては無用な混乱を招くことになりかねない。当の大辻自身、「三つの私①~③」(『近代短歌の範型』)という私の読者論の論理モデルは、汎用性がある便利な論理モデルなのだろう。が、汎用性がある、ということは精緻さに欠けるということでもある。まあ、「たたき台」程度のものとして、読者論の論考にお使いいただければ、と思いますとツイッター上で発言している。大辻の「三つの「私」」は、大辻の問題を考える上でさしあたり用意された便利なものさしなのだ。だから私の「四つの「私」」も大辻の概念について異議を唱えたり、その更新をはかったりするものではない。単にそのものさしを自分の問題にあわせてカスタマイズしたというだけのことである。




四章:「読み」以前



短歌における<私性>というものは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。岡井隆
『現代短歌入門』から引いた非常に高名な文章である。近代短歌の読みも前衛短歌の読みも、どちらも「一人の人物」に向かうことには変わりないというのだ。けれどこの岡井のテーゼは本当に絶対的な真理だろうか。岡井の言う「一人の人物」抜きで「表現として自立」することは本当に不可能なのか。
この文章は『現代短歌入門』の第十一章「私文学としての短歌」AとBという二人の人物の(恐らくは架空の)対談の中で、Aという人物の発話として現れる。もちろんAは岡井の分身であろうし、岡井の意見であることは前後の文脈から考えても間違いないわけだが、岡井自身の言葉ではないのである。岡井自身このテーゼが相対化される可能性は、頭のどこかにあったのではないだろうか。そんなことを想像してしまうのは、ある若い歌人が書いたこんな文章があるからである。

「言葉はそれだけで存在する」ということを、私は馬鹿の一つ覚えのように本気で信じている。歌はできた瞬間に私を離れ、言葉として自ら思考し意味をなす。作者としての私は、その営みにまるで関係がないし、入り込む余地がない。 望月裕二郎

歌集『あそこ』の「あとがき」から。望月の言っていることはつまり「私はメカニズムAを受け入れない」ということだ。もちろん完全に受け入れていないわけではない。そうであれば歌集に自分の名前を記すことすら耐え難いだろう。だから付け入る隙がないわけではない。けれど、私と作品は別なのだから、そこに「私」を読み取っても無駄だ、というメッセージ自体を発信していることには変わりない。
もしかしたら、一首の短歌に命を吹き込むのは、作品の背後に見える「一人の人物」(「私」ないし「私」を反映した人物)ではない。言葉自身が命を持っているのだ、ということも言っているのかも知れない。そうだとしたらすごいことだ。「一人の人」なしで「表現として自立」することができると言っていることになるからである。
もちろん彼がそのように主張するだけではだめなのだ。それは「作者」の側の主張にすぎないのだから。それは読者の読みを変化させる決定打とはなりえない。けれど、あるのだ。濱田友郎というさらに若い歌人が書く「「それだけで存在する」こと」という評論が。本論では評論中の濱田の「一首評」を取り上げたい。



ひがしからひがしにながれる風に沿い右目をあずけたのは鳥だった 望月裕二郎

あらゆるポイントで従来の読みが通用しない、すなわち「実際に見た鳥なのか、象徴的な鳥なのか」云々の読みを受け付けずとあり、この抽象度の高さにもかかわらず、「風」「鳥」の持つ詩的な美しさを損なわず、かつ「ひがし」「右」といった方向や位置の指定には、なにか新しいタイプの事実がそこにあるような説得力がありと続く。具体的な状況はつかめないまでも、一般的なことばのままでストーリーのようなものがうっすら暗示され、結果的に読者の読みはしらべや言葉の手触りにもっとも集中する。ことばそのものにフォーカスがあたるというのが読みの結論だ。
驚くほど何も解明されない評である。むしろ不用意な解明を拒んでいる評である。「ことばそのものにフォーカスがあたる」という一文はこう言っているようにも見える。「ことばを見よ」と。それは佐藤佐太郎の「歌を見よ」にも近いかも知れないが、そちらが「敢えて語らない」だったのに対し、こちらは「語ろうにも語れない」だ。濱田はそのような読みの八方ふさがりの状況を提示することで、読みが成立せずとも短歌を味わうことが可能であることを証明しようとしている。
思えば、歌人は歌を「読む」ということに慣れ過ぎているのかも知れない。ここでの「読む」とは文字通り、上から下に読み下すことではなく、そこに解釈を施すことだ。すなわち「私①」を作中の背後にいる人物を読み取り、一首の歌を「その人物の認識する景やイメージである」として捉えなおす行為だ。確かにそのような捉えなおしを経ることで、深みや旨みが増幅する歌は多くあるだろう。けれどそればかりをしていると、それが通用しない歌を、ただ「分からない」と一蹴することになるのではないか。
「ひがしからにしに」ではなく、「ひがしからひがしに」と一つの方向にのみフォーカスしている。「右目をあずける」、これは風にあずけるのではなく、あくまで風に沿って、あずけるのだ。「右目をあずける」というフレーズの象徴性がひたすら高まる。全体としては何も解明しない濱田の「一首評」は、作中の視点のことや語の象徴性については細かく触れている。
けれどそのことを何とも結びつけようとしない。つまり「私①」に還元することもないし、「私⓪」の制作者の手つきをそこに見ようともしない。普通なら作中主体の○○のような状況や心情を反映していると言ったり、作者の○○と思わせたいという意図が隠れているなどと言ったりするのではないか。「だからどうなのか」を濱田は言っていない。「ただそうなのだ」と言っている。彼は「ことばそのもの」を見ているのだ。そして「ことば」自身の持つ(けして背後の作中主体に由来するのではない)強度について語っている。
 この歌の主体を確定しようと議論をしても大して成果は得られないだろうというのは、他の望月歌への評だが、この何気なく使われている「成果」という一語は注目に値する。批評とは何らかの「成果」を目的とするのだ、という価値観がそこに透けて見える。


 3
 書評とは書物を対象にして公正な作品を作ることだ、といってよさそうな気がする。もうすこし注釈を付けくわえれば、公正なということが作品を作ることであるような作品をつくることだ。吉本隆明

 書評と批評は同じではない。けれど以下の文があるためにこれを引いた。書評はときとして批評がやる懺悔(ざんげ)のようなものではないかということだ。/書評にこころが動くのは、殺傷したり、切り裂いたりせずに批評をやってみたい、という無償の均衡の願望のような気がする。
 ここから批評について分かることは、①吉本の言う「書評」は批評の一形態であること。②その「書評」とは「殺傷したり、切り裂いたり」しない批評であること③つまり批評とは基本的に「殺傷したり、切り裂いたり」する行為であること。そして恐らく➃批評とは、対象に必ずしも公正とはいえない作品を作ることであること。
 批評とは「作品」なのだ。そしてそれは対象を傷つけることによって作られるものである。傷つけるというのは批判するということではなさそうだ。ところで実際にわたし自身がやっている書評は、公正なということが作品を作るところまでいくまえに、努力や労力を惜しんで途中で目をつぶったままの裁断を繰りこんでおわってしまっているという文章は感覚的で真意がつかみづらいが、おそらくこの「目をつぶったままの裁断」というのは、「書評」の書き手の独自解釈による断定ということを言っているのではないかと思う。そしてこの「裁断」と「殺傷したり、切り裂いたり」はおそらく同様のことを言っている。
 短歌の批評において、独自解釈を含まないことはほぼ不可能に近い。背後に作中主体がいる、ということさえ独自解釈と言える。それは共同体によってしばしば「公式」な「読み」とされているものかも知れないが、もとをたどればそれも誰かの「読み」である。
独自解釈は元の短歌を傷つける。壁に一度大きな傷をつけてしまえばその傷を見ずに壁を見ることができなくなるように、ある歌に対して非常に有効な「読み」を示した場合、その「読み」を知ったものは「読み」を意識せずにその歌を読むことは不可能に近くなる。一章の穂村弘の部分で書いた「その評の存在なしに私がこういう風に歌を読めたかどうかは非常にあやしい」はその裏返しだ。
それに何よりもその「読み」を成した者自身が、その「読み」に囚われる。一人の人間の「読み」は、いつどこで読んでも同じというわけではないだろう。読むたびに印象は変わるはずである。けれど「読み」を言葉にした時点で、それはある程度固着する。新しく読む際もたいていの状況では、過去の自分自身の言葉がどうしようにもなく頭をよぎってしまうからだ。そのような意味で批評は短歌に対して不可逆な効力をもたらすものである。
 ならばなぜ人はそのような不可逆な殺傷をもたらすのか。それが元の短歌に対して有効に働くと思うからか。それもあるだろう。けれど別の考えもできる。これはほとんど仮説とも言えない邪推のようなものに過ぎないが、先に引いた岡井の文章、「そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです」は以下のように読み替えられるのではないか。
「そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、短歌の「読み」(あるいは批評)は、表現として自立できないのです」と(※)。
 つまり作品の背後に「私①」を想定し、さらに背後に「私②」「私③」を見出していくことは、短歌の「読み」や批評にとって都合がよいのだ。そのような人物を想定することによって、歌は読み解きやすく、語りやすいものになる。そうなれば歌を取り巻く言説が作られやすくなる。いわゆる「歌壇」のような短歌の共同体の存在は、このような言説の流通が生み出すものだろう。


※:岡井のテーゼには別の相対化の方法も考えられる。「一人の人物を予想」することは、短歌をそれ自体より大きなものとしてみなすことである。大辻の『近代短歌の範型』にも岡井隆の「一人の人物の顔」も、直接的には、このレベル②の「私」=「私像」のことを指していると思われるという言葉があるから、少なくとも連作レベルの大きさがないと短歌が自立できないことが示されている(ただし岡井は「一首が連作に従属する」ということは述べていない)。岡井のテーゼには大きさへの志向があるように思える。その志向には多分に時代的なものが含まれているような気がする(たとえば、いわゆる第二芸術論への反駁のような)。
けれど短歌の魅力をその短さ、三十一音で完結していることに見出すこともできる。大辻は「刹那読み」という「読み」を提示している。この「読み」をする読者は「作中主体」の奇矯な発言や特異な行動に心奪われる。彼らにとっては、一首の歌を読んだ刹那に感じる衝撃力だけが重要であり、「私像」や「作者」には興味を持たないとのことだが、大辻のこの「読み」は、厳密には真に「刹那」とは言えない。「作中主体」の存在を前提としている時点で、「刹那」ではないからだ。私が短歌を始めるきっかけとなった短歌の内の一首である世界樹の繁りゆく見ゆ さんさんと太陽風吹く死後の地球に(井辻朱美『水族』)には、ただヴィジョンだけがある。ヴィジョンを見ている人物を想定する読みもできなくはないがそのような「読み」は、「ヴィジョンだけがある」という「読み」に強度の点で敵わない。ここには宇宙的な規模の景がわずか三十一音に凝縮されているという感動がある。大辻のものを「刹那読み」とするならこれは、それよりも小さい時の単位「六徳読み」や「虚空読み」とでも呼びうるだろう、もっと単純に「ヴィジョン読み」でもよいと思う。だから「三十一音が見せるヴィジョンそのものによって短歌は自立することができる」というテーゼを、岡井のテーゼに対立させることもできるのだ。誤解がないように述べておくが、私は岡井のテーゼを批判しているのではない。それは絶対的なものではなく、ある程度は相対的なものである、ということを言いたいだけである。


 4
 いま村をだれも走っていないことそれだけのおそろしく確かな 平井弘

 初読から何年も経つがいまだに怖い。怖さを産み出している機構を言いあてられないからだ。個人誌『ZAORIKU』VOL.4に収録された安田直彦の「平井弘作品 的 私 読解」は、平井弘作品二五首に対する「一首評」集である。こちらはその五つ目の「一首評」である。この評の特徴は、作中主体や背後の「私」のようなものを前提とせずに語っていることだ。七つ目の評には「主体」の語が登場するから安田自身がそのような語を用いないわけではない。この歌が安田に用いることを避けさせたのだろう。
 私はこれを、誰も走っていないと確信できるほどの静けさとして読んだとあるが、誰が「確信」しているのだろう。作中主体ではないのか。けれどそこには言及しない。
 くわえて「それだけの」と「確かな」がある。これらふたつは状況を限定し、固定させる語である。ゆえに、ここはうまく言葉にできないのだが、どちらも歌を制動しているようなのだ。震えを止め、歌は静まるとある本当に「うまく言葉にできない」のだろうか。たとえばここに作中主体の心理を読み取ることができないだろうか。この韻律には作中主体の「怖い」という心理が反映されているのではないだろうか。けれど安田はそうは読まない。
この、歌そのものが死体になっていくような恐怖がいまも拭えないと書く安田が表現しようとしているのは、「作中主体の恐怖」ではなく、安田自身の「読み手自身の恐怖」なのだ。この二つを読み換えることはたやすい。「読み手自身の恐怖」を「作中主体の恐怖」に転移させてしまえば、そこからいくらでも論を展開できる。この歌は読み解こうと思えば、いくらでも読み解けるはずなのだ。読み解けば、その過程で「恐怖」は解体されて解消される。けれどそれをすることは本位ではないのだ。
安田は、自らの恐怖をやすやすと手放さないために、作中主体を想定しないことを、作品を読み解かないことを選んだ。どこか歯切れの悪いこの「一首評」は、そのような選択のもとに成り立っているように思える。



つまり「評論」とは平たく言えば、「読む事」である。短歌の世界で「読み」を軽視する人はいないだろう。三宅勇介

再び「短歌評論の意義について」から。確かにそうかも知れない。けれどその「読み」よりも以前に読む行為があるだろう。作品の文字列と読者のまなざしとが交差する瞬間が。「読み」以前の読む行為においては、読者と作品だけがある。その二者関係は、次の段階である「読み」において背後の「私」が出現することにより、三者関係に組み直される(「読み」を言葉にすれば、評の読者が生じて四者関係になるだろうか)。私と作品とのかかわりは作中主体という第三者を通した間接的なものとなる。
短歌の「読み」とは、「批評」とは、「評論」とは、そのような不可逆性を伴う、作品を傷つける編集行為なのだ。だからといって「読み」を「批評」を「評論」を糾弾するわけでも否定するわけでもないが、それらにそのような性質が含まれていることは忘れずにいたいと思う。




おわりに


 三章において私は「「読み」以前の読む行為においては、読者と作品だけがある」と書いた。けれどこれは厳密な認識ではないかも知れない。

 まず表情が見えてくる――表情には「私がものを見る」という図式、私とものとの二項から知覚を捉える図式にした場合の、(見られる)事物や世界を、その実在性や意味を含めて成り立たせる成分と、(見る)私が私としてあること、こういうかたちや構えであることを成り立たせる成分とが融合しているのではないか。表情の知覚、表情の体験の中から、(見られる)事物や世界と(それを見る)私とが分離してくるのではないか。森田亜紀
 
 再び『芸術の中動態』から。ここではドイツのユダヤ系哲学者エルンスト・カッシーラの論をもとに、表情体験の根源性が述べられている。まず表情がある。そこからその表情を持った対象と、その表情を認識する私が分離し、そこで初めて「私が対象を見る」が成立するという議論である。表情とは何か。
「青々とした」空「蒼さめて冷ややか」な影、「あわたゞしく起き上が」る落ち葉、「ざわざわざわつ」く林……。(略)表情は、われわれが日常出会うすべてのものの表情にまで広げて考えることが可能であろう。(略)視覚にとどまらず、聴覚や触角なども含んだ知覚一般の領域にわたっていると思われる。それは印象という語に近いかも知れない。けれど「私の印象」という風に私に所有されるものではない。それは私に先立ってある印象であり、そこから「印象を持つ私」が生まれてくるような、そんな印象である。それは私以前であり、、私を超えている。
短歌の「読み」は読者が創造するものかも知れないが、短歌を読んだ時の印象は読者のそんな賢しらな能動性の支配下にはない。かといって純粋に受動的な体験でもない(※)。Aという短歌に感動するということは、「感動」という現象であると同時に、「Aという短歌に感動した私」を生成する力のはたらきそのものでもあるのである。

われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき 大森静佳

短歌を読んでいる時。
その文字列が発するメッセージを読み取ろうと、目を凝らしている時。
その時にだけ見えるひかりがある。
あのひかりは何だったのだろう。
歌をまだ読めていない時に感じたあの雪の照り返しの美しさ。
今この時に見る「ひかり」も確かに美しいが、あの時のひかりと比べればすでに精彩を欠いている。
これは私の文章だ。大森のこの歌にはひかりの表情があった。それが失われて「ひかりを見た私」と「ひかりを宿していた短歌」が残った。その喪失体験についてこの文章は書いている。
君はわたしの知らない冬を七つも知っている。その冬にもまた雪は降り、ひかりによって照り輝いていたのだろう。わたしにはそれが見える。わたしには君が遠い。君はわたしのそばにいるのに、七つの冬を隔てた場所にいて、わたしは永遠に君まで辿り着けない。でも、その隔たりが、その暗がりがなぜか不思議にひかっている。ああそうか、それは雪に差すひかりなんだ。
ああ、これはどうしようもなく解釈なのだ。
あるいは美しい解釈なのかも知れない。
けれど、解釈の意味性に着地してしまった今、その解釈をベースとしてしか、イメージを感受することができなくなっている。
ひかりはもはや意味に飼い馴らされてしまった。
良い歌ではあると思う。
けれどもう良い歌でしかないものにされてしまっている。
ある歌を「良い歌だ」と言うとする。そう口にするものの内に、その「良さ」は残存しているだろうか。その「良さ」は、「良い歌だと認識する私」と「良い歌だと認識される歌」に分化してしまったのではないだろうか。
批評の始まりとは、ある意味で短歌の終わりだ。すべての批評は失われたものに向けて書かれる。だからすべての批評にはどこか弔いの性質があるように思う。塚本邦雄の「不安」とは、喪われたものをこの手で取り戻そうとする執念が、けれどあと一歩のところで届かないことによって生じるものではないだろうか。
また菱川善夫の「ひかりになること」への志向は、もはや取り返せないという諦めのもとに始まるものではないだろうか。月を指すには指が必要である。だが、その指を月と思う者はわざわいなるかな(鈴木大拙)。月になれないことを自覚した上で、指であることに徹する(引用した禅の話とは「月」の意味が異なるが)。それぞれにそれぞれのスタンスがあり、それぞれのスタイルがある。それはそれぞれに肯定されてよいだろう。
そして、それならば何も語らないという立場もあっていいだろう、と思うのである。
 私は、歌会が好きである。
 歌会は、作者が目の前にいるところがいい。そしてその目の前にいる作者たちの最新作を、自分の最新作一首と引き換えに読むことができるのが素晴らしい。私の渾身の一首が彼らの短歌が紙のなかで互いに、こう、立ち向かう。谷川由里子
 再び三章で引用した「感覚の逆襲」より。短歌をはじめた頃は歌会が楽しくて歌会にばかり行っていた(それこそ多い時は三日に一回ほど)私は歌会で育ったようなものだから、この意見にとても共感するのだけれど、時々、歌会がとても嫌になることがある。その嫌さは多く「他人の歌に批評をしたくない」というかたちを取る。なぜしたくないかと言えば、評の言葉が嘘くさく思えてしまうからだ。
歌会での言葉は他の参加者に向けて語るものだから、語りはどうしても聞き手を意識したものとなる。できるだけ体感にそった評をしたいと思っていても、本当に体感そのままは語りえないし、何とか語ろうとすれば意味不明の言葉になる。それにいわゆる「よい評」をしてよく思われたいというような不純な気持ちもおのずと混じる。そんな上っ面の「よい評」を切実な口調に乗せて、あたかも本心であるかのように語れたりすると気持ちがよいが、それは体感を裏切る行為であり、同時に自分の中に毒がたまっていくような気がしてしまう。またコンディションによっては他人の評がすべてそんな薄っぺらなパフォーマンスにしか聞こえないこともある。
それでも歌会はしたいから、時にはそんな風に毒がたまることのない歌会、ただ黙して歌を読み合うだけの会もあっていいと思う。みなで「読んだ」という体験だけを分かち合う会。今考えているのはそういうことだ。
 語ることは体験や認識や印象を一つの方向へ導き、一つのかたちに結晶化させる。沈黙のままにとどめておけば、それらは結晶化することなくたゆたいつづけるのではないか。そのような沈黙の可能性を今私は追及してみたいと思っている。
 

※だから森田は中動態という語を用いるわけである。といっても中動態は能動態と受動態の中間という意味ではない。中動態についての説明は本論の範疇を超えているので、ここでは省略する。なお森田の著作は中動態という概念を、あくまで芸術の受容/制作体験を説明するための道具として用いているようなところがあり、中動態そのものの理解としては國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』をすすめる。
 



引用文献一覧
三宅勇介,「短歌評論の意義について」,『短歌研究』二〇一七年七月号,短歌研究社.
佐藤佐太郎,『茂吉秀歌(上)』,一九七八年,岩波書店.
塚本邦雄,『茂吉秀歌『赤光』百首』,一九九三年,講談社.
京極夏彦,『底本 百鬼夜行 陽』二〇一三年,文藝春秋.
ベルクソン,真方敬道・訳,『創造的進化』,一九七九年,岩波書店.
穂村弘,「歌の翼に」,(80年代の歌第4回),『短歌ヴァーサス』No.004,二〇〇四年,風媒社.
瀬戸夏子,「穂村弘という短歌史」,『町』2号,二〇〇九年,個人発行.
菱川善夫「歌の海」,『歌の海――現代秀歌抄』(菱川善夫著作集1),二〇〇五年,沖積舎.
    「物のある歌」,同書.
    「塚本邦雄の生誕」(「塚本邦雄『水葬物語』全講義」)『塚本邦雄の生誕――水葬物語全講義』(菱川善夫著作集2),二〇〇六年,沖積舎.
    「遅れ方の課題――平井弘と大江健三郎」,『千年の射程――現代文学論』(菱川善夫著作集9),二〇一一年,沖積舎.
三上春海・鈴木ちはね・寺井龍哉・石井僚一,『誰にもわからない短歌入門』,二〇一五年,稀風社.
阿波野巧也,「十月のこと(日記)」,『毎日の環境学』,二〇一七年,個人発行.
谷川由里子,「感覚の逆襲」『SHE LOVES THE ROUTER』,二〇一七年,個人発行.
大辻隆弘,『近代短歌の範型』,二〇一五年,六花書林.
森田亜紀,『芸術の中動態』,二〇一三年,萌書房.
岡井隆,『現代短歌入門』,一九九七年,講談社.
望月裕二郎,『あそこ』,二〇一三年,書肆侃侃房.
濱田友郎,「「それだけで存在する」こと」,『京大短歌』22号,二〇一五年,京大短歌会.
吉本隆明,『読書の方法 なにを、どう読むか』,二〇〇一年,光文社.
井辻朱美,『水族』(井辻朱美,『井辻朱美歌集』,二〇〇一年、沖積舎.)
安田直彦,「平井弘作品 的 私 読解」,『ZAORIKU』VOL.4,二〇一七年,個人発行.
 鈴木大拙,工藤澄子・訳,『禅』,一九八七年,筑摩書房.

引用URL一覧
otsuji28(大辻隆弘),「Twiiteer」内,二〇一七年七月二十九日二三時五九分の投稿.
https://twitter.com/otsuji28
(最終閲覧二〇一七年十二月二十四日)

吉岡太朗,「一首評の記録」,(「京大短歌」サイト内) .
http://www.kyoudai-tanka.com/cgi-bin/review_show.rb?index=99
(最終閲覧二〇一七年十二月二十四日)
 
※なお引用した文中には、今日の観点からは差別的とみなされうる表現が含まれているが、論旨の都合上省くことのできない部分であり、原文のまま引用した。


短歌相互評15 北村早紀から盛田志保子「短歌」へ 

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よろこんで評を引き受けたはいいけれど、盛田さんの連作のタイトルが「短歌」と知ったとき、正直なところどうしようと思った。「短歌とはかくあるべき」といった連作だったらどうしよう。格式高い感じの……私には難しすぎる連作かもしれない……でも心配したようなことはなかった。「短歌」がどのように「わたし(わたくし)」の暮らしに寄り添い、また「わたし(わたくし)」がどのように「短歌」に寄り添いながら生きているか、という連作だと読んだ。
 タイトルが「短歌」なので、どの歌も短歌と結び付けて読んでしまったが、それが適当だったかわからない。毎日短歌のことを考えているだけに自分の短歌への思いにひきつけて読んでしまいがちで、最後まで適切な距離を取れなかったように思う。


1. 少し気が楽になるから山奥の水場の如し歌を詠むこと

主体にとっては歌を詠むことが「山奥の水場」のようで、「少し気が楽になる」という。山道を奥まで進んでいったときに水場に出会って少しだけほっとするような感じなのだろうか。短歌自体ではなく、「歌を詠むこと」がそのような存在である、というのがポイントなのではないだろうかと思う。短歌をつくるという行為を通して「少し気が楽になる」というのは、実感を通してわかる。
「山奥の水場」で「少し気が楽になる」のは、なぜだろう。山奥まで来てようやく給水できるから?しかし、それならば、水を飲む(自分の中に取り込む方向性)と「短歌を詠む(自分の外に短歌が出ていく方向性)」は方向性として重ならないような気もする。自分で言っておいて何だけれど、そんな細かいことを掘り返すのがこの歌のおもしろさではない気がしてきた。

2. 唯一のなぐさめとして焦点のつねに正しい縦書きの歌

「唯一のなぐさめ」というのは何に関してだろうか。自分の暮らしにおいての唯一のなぐさめ? それとも、短歌というものに関して、「焦点がつねに正しい」ということが唯一のなぐさめなのだろうか。
なんにせよ主体は「焦点のつねに正しい縦書きの歌」の存在になぐさめられている。しかも唯一の、というほどのなぐさめである。

3. 大らかに生きたいという願望を持つわたくしに捺される印

 「わたくしに捺される印」は私の願望を縛るものなのか、それとも願望に許しを与えるものなのだろうか。どっちと言い切れないようなフラットな描写がおもしろい。「大らかに生きたい」と言っているので、現段階ではあまり大らかに生きられているとは言い難い状況なのかもしれない。

4. 咳に疲れ言葉に疲れやわらかい子供の頬に触れている夜

 連作を通して、主体は短歌や言葉を間に挟んで他者と交流してきたが、この歌では身体的な交流をしている。酷い咳は呼吸を滞らせるし、呼吸がままならないと思考もうまくいかなくなってくる。言葉にもそういう面があると思う。それに疲れて主体はやわらかい子供の頬に触れる。子供の頬は主体を疲れさせるものの対照に置かれている。
短歌のことを「唯一のなぐさめ」と表現した筆者が、子供の頬に触れることにはそのような表現を使わなかったことがおもしろい。疲れすぎているからか、安易に意味づけられないからか。「唯一のなぐさめ」が安易であるとは全く思わないが、子供の頬の存在に意味づけがされなかったことで、逆に特別感が際立っているように感じた。

5. 使っても傷まぬものを使うから続くのだろう歌を詠むこと

 歌を詠むときにみなさんが使うのは何ですか。言葉、心、思い、願い。物ではないから使っても傷まないといえばそうなのかもしれないけど、擦り切れたり傷んだりするものの代表のような気もして、この歌を最初に読んだときはすこし考え込んでしまった。主体にとってはそうだ、ということで、そこに異議を唱えるというのもおかしいのだけど。
 主体は一首前で「言葉に疲れ」ている。でもその言葉が「使っても傷まない」ものであるとしたら。私が「疲れ」ていてもお構いなしで、使っても使っても傷まないものを相手にするのはしんどかろうなあと思う。

6. 吹き荒れるうつつの風を聞きながらコップに凪ぐは歌という水

 この一首では歌は水に例えられる。しかも、「吹き荒れるうつつの風」と対照的なものとしての凪いだ水である。コップの中という小さな水面に、凪ぐという比較的大きな水面を連想させるような表現が使われているのが特徴的だと感じる。
 短歌をやっているというと「雅なご趣味ですね」といわれることがよくある。そのたびに微妙な気持ちになるけれど、「吹き荒れるうつつの風」とすこし距離をとっていられる手段があるというのは、確かに雅なことかもしれない。趣味かどうかは人による。
 私は指摘されるまで「コップの中の嵐」という慣用句を知らなかったのだが、この歌の背景にはそれが意識されているのだろうか。辞書によると、仲間うちだけの、外部には大した影響を及ぼさないもめごとのことだという(類義語として、蝸牛角上の争いが挙げられていた)。そうなれば、コップの中の凪ぎが外部のうつつの風吹き荒れる世界には大した影響を及ぼせない、という読み方ができる。

7. 死にたいといえば軽いと諭されて書き直している三十一文字

 歌に対して評をもらったのだと読んだ。歌に「死にたい」という表現を使ったが、その表現を軽いと諭されて書き直しているのではないか。死にたいと言わずに死にたいと言え(死にたいという言葉を使わずに死にたさを言え)、ということなのだろうと思う。
「諭され」るというのがいいなと思った。その諭しには、もっとよい表現が選べるはずだという、主体の作歌の力への信頼が感じられる。

8. 「探して」と「見て」が悲鳴のようにくる秋陽の中の戸棚をしめる

 秋の穏やかな陽ざしのなかに、主体は悲鳴のような「探して」と「見て」を聞いている。そしてその中で戸棚をしめるのは、その声たちを締め出す行為なのだろうか。
 秋陽の中「で」ではなく、秋陽のなか「の」であることが興味深い。「の」が選択されていることによって、戸棚をしめる行為をする主体よりも、戸棚が秋陽の中にあることの方にスポットが当たっているように感じた。また、「しまる」ではなく「しめる」なので、その行為には主体の明確な意識がある。
「探して」と「見て」という悲鳴のようなものは、きっと探したり見てもらえることはなくて、そのうえ戸棚もしめられてしまう。なんらかの救いになりそうだった戸棚が歌の最後にしまり、ドラマチックな印象の一首である。

9. 音楽にのせてあなたに届けたいそれはわたしの言葉ではない

 ほかの歌では「わたしの言葉」についての歌が続いていた(と私は読んでいた)が、ここで語られるのは「わたしの言葉ではない」言葉についてである。短歌が私の言葉であるから、短歌以外の、たとえば歌詞(音楽にのせる言葉)などは私の言葉ではない、ということだと読んだ。
 音楽にのせて届けたいのは「わたしの言葉」ではなくて、それでも特にその言葉を届けたい。あなたに捧げたい曲(歌詞)があって、それを聞かせたい、ということだろうか。

10. どのような雨風さえも吹き込まぬための蓋つき三十一文字

 この「蓋」というのが何を意味することなのかが難しい。「定型」のことだろうか、と考えたが、この解釈は無理やりかもしれない。
 短歌にするということは対象を短歌という形のなかに閉じ込めることであるという側面をもつ。一度短歌にしてしまったものは、外からの干渉を受けない。そういう意味では蓋つきというとらえ方ができるのかもしれない。
 六首目では短歌の外の世界は「吹き荒れるうつつの風」とされていたが、ここでも雨風のある場所として表現されている。主体にとっては短歌とは、ちっぽけではあっても安全な場所だということなのだろう。


短歌相互評16 盛田志保子から北村早紀「クエリー」へ

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クエリーというのはコンピューター用語で、「データベースの検索で、指定された条件を満たす情報を取り出すために行われる処理の要求。問い合わせ。」(大辞林)のことだという。つまり「質問」のようなものだろうか。パソコンでなにか情報を検索するときなど、いくつかの単語をスベースをあけながら入力することがあるが、あの文字列もクエリーというらしい。短歌が十首並んでいる形は、そのイメージとも重なる。一首一首は一見、いちいち意味を解説する必要がないような読みやすさ、意味のとりやすさである。口語短歌の素敵さ、おもしろさ、どうかすると揺れ動くあやうさ、可能性など。思いながら読んだ。

バン一羽すすめば水面をゆく跡の果てなく広がっていく二直線

「バン」という黒い水鳥の名前から始まる一首目。水の上を一羽のバンが泳いでいくという場面。二直線というのは、鳥のうしろを二方向に伸びていく水の波紋のことだろう。丁寧に情景を追っていく言葉の連なりが、「果てなく広がっていく」で少し軌道を外れる感じがして、それは結句の「二直線」の字余りで決定的になる。きれいにまとめるというよりは、「水面をゆく跡」にひっぱられてどこまでもいってしまう感じ。静かな時の流れを感じさせる一首である。

脱獄というより自転車漕いでたら急に琵琶湖に出たような自由

 「脱獄というより」という否定の出だしは、逆に「脱獄」という前提を思わせる。この強い言葉は最後まで頭から離れない。脱獄という非日常から、「自転車漕いでたら」という口語全開の日常(自分なら最初はこう書いてもあとで「自転車を漕いでいたら」に直しそう。しかしそうするとただの文章になってしまう。)、そして「琵琶湖に出たような」という非日常なのか日常なのか、よくわからないゆえに印象的な下の句へ。前の一首にバンが出てくるので、もしかしたら湖は突飛な情景ではなく日常と地続きの描写なのかもしれない。そのほうがおもしろいと思った。結句の「自由」に行きつく前に、もう自由を感じる。
あと、「脱獄というより」がどこにかかっているのか、よくわからない作りだが、わたしはすぐ下の「自転車漕いでたら」につながると読んだ。少し不安定だがおもしろさもある。そこで切れて、「急に琵琶湖に出たような自由」となるのではないかなと。ただ、「脱獄」という言葉は「自由」という言葉と対になっていて、そういう初句と結句のとりあわせがあるので、全体がなだらかにつながり、まとまって見える。読み方は人によって違うこともありそうだ。

バス代を浮かせるためにかっとばすペダル 気がついたらここにいた

 最初は「バス代を浮かせる」という目的があったはずの行動が、思いもよらない場所へ自分を連れていく。「ここ」がどこなのか、たどり着いた一点なのか、今ここという現状のことなのか、読みながら少し宙ぶらりんになり、そのあやうさがいいと思う。一字空けと全体のリズムが内容にあっている。

部屋干しがこんなに楽しいことだとはひとりの暮らしに万国旗めく

文字通り楽しい歌。「こんなに楽しいことだとは」を言ってしまっていいのか、が、短歌的には焦点かもしれないが、わたしは個人的にこういう歌い方ができるときはどんどんしたほうがいいと思う。「ひとりの暮らしに」としたところがおもしろい。「ひとり暮らしに」だと音数は合うのだが、型にはまりすぎて流れてしまう。この、ひっかかりのような言葉遣いには、手縫いのような味わいがある。ささやかな、そして大きな、よろこびの歌。

ぬばたまの君の職場の先輩が君に幹事を押し付けている

 ぬばたまの…とあるので、なににかかっているんだろう、とまずは思う。職場?職場が黒い?ブラック企業?というとことへたどり着き、あ~、と唸った。(違っていたら申し訳ないです。)しかしそう考えると、そのあとの内容の背後にある色合いも決まり、すんなりと読めるからおもしろいものだ。そんなに重い感じはなく、「君」という言葉が二度使われているがリズムがよく、「押し付けている」と軽めに流すことで、逆に臨場感のようなものがリアルに伝わって、やはり内容に合っている表現だと思った。

君の暮らし私の暮らしが交わってそのとき讃え合えたらいいな

 これも素朴な感覚をそのまま歌にしたような形の一首。ポイントは「そのとき」だと思う。「いつかは」とか「いつでも」ではない。「そのとき」なのだ。これは意外に、のんきな話ではない。「君の暮らし」と「私の暮らし」が交わる「そのとき」とは、一瞬の、もうそのあと二人の関係が続くとか終わるとか、そういうのは置いといて、まさにその瞬間のことで、やはり思うのは友情や愛情、恋愛でもいいのだけど、そういう青春の輝きのことだろう。それがこの歌では非常にまるいかたちで示されているので、青春といっても若いときの鋭いイメージだけでなく、人生の終わりくらいに訪れてもおかしくない青春の一瞬を歌っているようにも読める。二人の人間の暮らしが、どちらかのものに同化してしまうのではなく、向かい合って讃え合って立ちたい、という、誇らしい、さわやかな心が印象に残った。

「ここにある大きいつづらと小さいつづらどっちもあなたのもの」って笑う

 字余りなのがちょっともったいないような気がしたのだが、変えようがない。これでいいというような気がしてくる。つづら。あの、昔話に出てくる、例のやつである。どちらかを選ばなくてはならないと身構えているところへ、「どっちもあなたのもの」、という宣言は、あまりに想定外なのでびっくりしてしまう。しかも相手は笑っている。どっちも持って帰って~と言っているのだ。この歌の主人公は、言っているほうなのだろうか、言われているほうなのだろうか。そこがあいまいなところもおもしろい。そして実は、どっちも持ち帰らなきゃならないのが、わりと普通の人生だろうなと思う。

咎められずに工夫を重ねていけることが私の水であるのを知った

 「私の水」である。たぶん、作者には百も承知のあの「水」なのである。読む側は、まず「水?」となる。それで、ああ、「あなたの」水ね、と納得しようとする。そしてまた、「水??」となる。でも、わかる、のである。「水であるのを」というところが、ちょっと舌足らずというか、言葉尻が惜しい感じがして、かといって、「水であること」ではものすごくダメだし、やっぱりこれでいいのだろうな、と思う。

目玉焼きくずれたこともファルファッレ(ルビ・ちょうちょのパスタ)ゆですぎたことも全部うれしい

 生活のワンシーン。こういうなんでもない、ちょっとしたところをとらえた歌が素敵だと思う。人生は完璧ではない。くずれた目玉焼き、ゆですぎたファルファッレはせっかくちょうちょの形なのに。やぶれて出てきた卵の黄身のあざやかな黄色、ファルファッレの語感、ちょうちょのルビ、かたち、目に舌に踊る、やはり生きていること「全部うれしい」、そんな本音が静かに伝わる。大好きな歌。

嫌いより好きを力にすることを身につけられる予感がしてる

 その通り。明るい力。ただ、「してる」を「している」にしなくていいのかな、などと思ってしまう。でも読むと、「してる」のほうがいい。だめだろうか…。だめですかね…。と、作者でもないのにおろおろする。わたしのほうが少しだけ長く短歌とつきあっているために、足枷が増えてしまったのだろうか。けれども、どうなんだろう。「文体」という言葉を思い出す。言葉は体から出てくるものだから、「本当に歌いたいことを歌う」ことがその人の「文体」になっていくのではないだろうか。とりあえず、自由に、いろいろ言われていくなかで試行錯誤しながら、最後は自分でゆずれないものを見い出していけばいいと思う。
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