「異邦人のための綺想」
歌を読むことには、作者を知っているからこそ気がつく秘密めいた部分と、逆に知らないからこそ生まれる創造的誤読があります。手元には第一歌集『行け広野へと』(2014年、木阿弥書店)と、この「ルカ、異邦人のための福音」の一連が収録されている最新の歌集『遠くの敵や硝子を』(2018年、書肆侃侃房)の2冊の歌集があるだけで、歌人・服部真里子さんについては、人となりから、声、話し方まで何も知りません。もしかしたらインタビューの記事や映像があるかもしれませんが、せっかく何も知らないので、特に探すこともなく、歌にだけ向き合い、創造的誤読と連想の羽ばたきを楽しんでみようと思います。
一読してまず気が付いたのは、服部さんの独特な作歌の技。歌人を一瞬捉えた言葉の並びがまずあって、その言葉が全く別の、時には思いもかけない言葉を連れてきて、歌の世界を築いているのではないかということです。ある一つの言葉のならびが、別の言葉のかたまりを呼び、それが連鎖して、一つの歌として結晶し、新しい「意味」が生まれてくる。そういう歌作りのプロセスを想像します。歌人を捉えた言葉はどこからかの「頂きもの」、そしてそれを歌へと結晶させるのは「人の技」。
つばさの端のかすめるような口づけが冬の私を名づけて去った
「つばさの端のかすめるような」冷たい体を持つ存在が、温かい「口づけ」をすることで名前=生命を与える。その口づけが私を名づけたのち、去ったというのです。名前とは与えられるものであり、かつ明かされるものです。ガブリエルの預言を信じなかったザカリアはヨハネの名を明かすまで口が聞けなくなりました。しかし、ヨハネの名を書きつけた途端にふたたび口が聞けるようになって預言を授かりました。名を与えられるということは、預言者としての資格を得ること。ここで歌を作る「私」も言葉を預かる資格を得ます。
縫い針はしきりに騒(さや)り雨だった頃のあなたをほのめかすのだ
「雨だった頃のあなた」という言葉の並びは、「では今のあなたは誰なのだろう?」という問いを連れてきます。縫い針のメタリックな質感から連想するのは、やはり雪。冬の初めに舞い降りる雪は、すぐに溶けて水になってしまいます。しかし、水になる代償として名前を残していきます。
死者の持つホチキス生者の持つホチキス銀(しろがね)はつか響きあう夜
前の歌の「縫い針」のメタリックな質感が、ホチキスの針へと転じています。ここでは温かみを持つ生者のホチキスまでが温度を失い、死者の冷たさと響きあい、夜の暗さの中で同化してゆくような蠱惑があります。
海峡を越えてかすかに翳りゆく蝶のこころとすれ違いたり
安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」を連想しました。冬衛の蝶は大陸からの望郷の思い。それとすれ違うということは、大陸の冷たい空気の刻印を受けるということでもあります。ここでは前歌の温度差が、すれ違う二つの心へと連句のように転じています。
北窓の明かりの中に立っているあなたにエアホッケーの才能
レンブラントのアトリエは北向きだったそうです。またバルテュスも北から入る自然光の中でしか絵を描かなかったといいます。北窓の明かりは一定方向の影を生み出し、それは日が沈むまで変わりません。その静的なヴィジョンとエアホッケーの動的な速さの対比が、「あなた」の意外な一面を披露しています。北窓に立つ存在は、その影の遊びの少なさにより、実体がより際立ちます。実体があまりにも際立つということは、ある意味、非現実的であり、受肉できない存在がかりそめの肉体を得て、目の前にいる。そういった映像が浮かびます。
遠い日の火事さえ私の名を呼ぶよカモメたち刃のように飛び交い
「遠い日の火事」の禍々しさ。その火事の記憶そのものに呼ばれてしまう怖さ。刃のように飛び交うカモメが青空を切り裂き、めくれた空からめらめらと燃える炎が見えてくるかのような映像的な歌です。
復讐を遂げていっそう輝けるわたしの幻ののどぼとけ
キリスト教世界では復讐は神のものであり、それを人が行うことは是とされていません。その禁を犯してまで行われる復讐。「のどぼとけ」が「幻」ということは、復讐を遂げるものは、のどぼとけを持たない体、すなわち女性であることが想像されます。男性的な破壊の力の行使がもたらす代償(Adam’s apple)。しかし「いっそう輝ける」と感じる「わたし」は、それを誇らしく思っているようです。
犬のことでたくさん泣いたあとに見てコーヒーフロートをきれいと思う
悲しくてたくさん泣いた後は、まるで憑き物が落ちたかのように、その悲しみから遠ざかる経験は誰にでもあることでしょう。悲しみの後にやってくる不思議な幸福の感覚は、ありふれたコーヒーフロートにさえ美を見出す力を授けます。ここに罪悪感は全くないのですが、黒いコーヒーと白いアイスクリームが溶けあってゆく暗い色合いとその重さが、無意識に悲しみを引きずっている、そんな隠れた心情が読み取れます。
ふいの雨のあかるさに塩粒こぼれルカ、異邦人のための福音
表題を含むこの歌は不思議な歌で、よくわからない。もしかしたら「ルカ、異邦人のための福音」という言葉がふと歌人を捉え、そこから「ルカ」と繋がる「こぼれルカ」が呼び起こされ、こぼれるもの、塩粒(もちろん山上の垂訓「地の塩」を連想させる)、すなわち前歌の「涙」が要請されたのではないか?
横なぐりの雪 ではなく雪柳くずれた後の道で会いたい
「横殴りの雪」=真冬ではなく、「雪柳」のほころぶ季節、すなわち春に会いたいと願う。何かを願うのは、それを実現することが難しいから。冬の、透明度の高い質感を、春の穏やかな光の中で体験したいという、叶わぬ願い。
金(え)雀(に)枝(しだ)の花見てすぐに気がふれる おめでとうっていつでも言える
まるで何かに取り憑かれることを望んでいるかのような不気味な空気を感じます。金雀枝といえば、魔女の箒の材料でもあります。また、ヘロデ王の追っ手から逃れようとするマリアの居場所を知らせる密告者のイメージも浮かび上がります。金雀枝の重なり合う花弁のイメージが狂気と繋がってゆく。そこへ飛び込みたいという危険な誘惑。
だとしてもあなたの原野あしたまた勇敢な雪が降りますように
たとえ春に会えなくとも、あるいはたとえ狂ってしまったとしても、「あなた」のところには変わらず「勇敢な雪」が降りますようにという願い。この願いは、まるで「わたし」が消えてしまうかのような遺言的な寂しさを湛えています。
アランセーターひかり細かに編み込まれ君に真白き歳月しずむ
アランセーターは北方の地、アイルランドのアラン島が発祥とされる、縄目のような模様が入ったセーター。海へ出る男たちの無事と豊漁を願う祈りが込められた独特の模様は、母から娘へと代々伝えられているという話もあります。この歌で一つ気になったのは「君」という二人称です。ここまでの歌は「私(わたし)」と「あなた」が交互に登場し、時には両者が溶け合いながら物語が進んできましたが、突然飛び出した「君」。この「君」は第三者、おそらく私もあなたも消えた、ずっと後の世界の誰かを思わせます。私もあなたもいずれ消える、しかし「歌」は、残る。アランセータの模様のように連綿と読み継がれる限り、ずっと。私とあなたが過ごした季節が忘れ去られるということは、ない。
(須藤岳史)
歌を読むことには、作者を知っているからこそ気がつく秘密めいた部分と、逆に知らないからこそ生まれる創造的誤読があります。手元には第一歌集『行け広野へと』(2014年、木阿弥書店)と、この「ルカ、異邦人のための福音」の一連が収録されている最新の歌集『遠くの敵や硝子を』(2018年、書肆侃侃房)の2冊の歌集があるだけで、歌人・服部真里子さんについては、人となりから、声、話し方まで何も知りません。もしかしたらインタビューの記事や映像があるかもしれませんが、せっかく何も知らないので、特に探すこともなく、歌にだけ向き合い、創造的誤読と連想の羽ばたきを楽しんでみようと思います。
一読してまず気が付いたのは、服部さんの独特な作歌の技。歌人を一瞬捉えた言葉の並びがまずあって、その言葉が全く別の、時には思いもかけない言葉を連れてきて、歌の世界を築いているのではないかということです。ある一つの言葉のならびが、別の言葉のかたまりを呼び、それが連鎖して、一つの歌として結晶し、新しい「意味」が生まれてくる。そういう歌作りのプロセスを想像します。歌人を捉えた言葉はどこからかの「頂きもの」、そしてそれを歌へと結晶させるのは「人の技」。
つばさの端のかすめるような口づけが冬の私を名づけて去った
「つばさの端のかすめるような」冷たい体を持つ存在が、温かい「口づけ」をすることで名前=生命を与える。その口づけが私を名づけたのち、去ったというのです。名前とは与えられるものであり、かつ明かされるものです。ガブリエルの預言を信じなかったザカリアはヨハネの名を明かすまで口が聞けなくなりました。しかし、ヨハネの名を書きつけた途端にふたたび口が聞けるようになって預言を授かりました。名を与えられるということは、預言者としての資格を得ること。ここで歌を作る「私」も言葉を預かる資格を得ます。
縫い針はしきりに騒(さや)り雨だった頃のあなたをほのめかすのだ
「雨だった頃のあなた」という言葉の並びは、「では今のあなたは誰なのだろう?」という問いを連れてきます。縫い針のメタリックな質感から連想するのは、やはり雪。冬の初めに舞い降りる雪は、すぐに溶けて水になってしまいます。しかし、水になる代償として名前を残していきます。
死者の持つホチキス生者の持つホチキス銀(しろがね)はつか響きあう夜
前の歌の「縫い針」のメタリックな質感が、ホチキスの針へと転じています。ここでは温かみを持つ生者のホチキスまでが温度を失い、死者の冷たさと響きあい、夜の暗さの中で同化してゆくような蠱惑があります。
海峡を越えてかすかに翳りゆく蝶のこころとすれ違いたり
安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」を連想しました。冬衛の蝶は大陸からの望郷の思い。それとすれ違うということは、大陸の冷たい空気の刻印を受けるということでもあります。ここでは前歌の温度差が、すれ違う二つの心へと連句のように転じています。
北窓の明かりの中に立っているあなたにエアホッケーの才能
レンブラントのアトリエは北向きだったそうです。またバルテュスも北から入る自然光の中でしか絵を描かなかったといいます。北窓の明かりは一定方向の影を生み出し、それは日が沈むまで変わりません。その静的なヴィジョンとエアホッケーの動的な速さの対比が、「あなた」の意外な一面を披露しています。北窓に立つ存在は、その影の遊びの少なさにより、実体がより際立ちます。実体があまりにも際立つということは、ある意味、非現実的であり、受肉できない存在がかりそめの肉体を得て、目の前にいる。そういった映像が浮かびます。
遠い日の火事さえ私の名を呼ぶよカモメたち刃のように飛び交い
「遠い日の火事」の禍々しさ。その火事の記憶そのものに呼ばれてしまう怖さ。刃のように飛び交うカモメが青空を切り裂き、めくれた空からめらめらと燃える炎が見えてくるかのような映像的な歌です。
復讐を遂げていっそう輝けるわたしの幻ののどぼとけ
キリスト教世界では復讐は神のものであり、それを人が行うことは是とされていません。その禁を犯してまで行われる復讐。「のどぼとけ」が「幻」ということは、復讐を遂げるものは、のどぼとけを持たない体、すなわち女性であることが想像されます。男性的な破壊の力の行使がもたらす代償(Adam’s apple)。しかし「いっそう輝ける」と感じる「わたし」は、それを誇らしく思っているようです。
犬のことでたくさん泣いたあとに見てコーヒーフロートをきれいと思う
悲しくてたくさん泣いた後は、まるで憑き物が落ちたかのように、その悲しみから遠ざかる経験は誰にでもあることでしょう。悲しみの後にやってくる不思議な幸福の感覚は、ありふれたコーヒーフロートにさえ美を見出す力を授けます。ここに罪悪感は全くないのですが、黒いコーヒーと白いアイスクリームが溶けあってゆく暗い色合いとその重さが、無意識に悲しみを引きずっている、そんな隠れた心情が読み取れます。
ふいの雨のあかるさに塩粒こぼれルカ、異邦人のための福音
表題を含むこの歌は不思議な歌で、よくわからない。もしかしたら「ルカ、異邦人のための福音」という言葉がふと歌人を捉え、そこから「ルカ」と繋がる「こぼれルカ」が呼び起こされ、こぼれるもの、塩粒(もちろん山上の垂訓「地の塩」を連想させる)、すなわち前歌の「涙」が要請されたのではないか?
横なぐりの雪 ではなく雪柳くずれた後の道で会いたい
「横殴りの雪」=真冬ではなく、「雪柳」のほころぶ季節、すなわち春に会いたいと願う。何かを願うのは、それを実現することが難しいから。冬の、透明度の高い質感を、春の穏やかな光の中で体験したいという、叶わぬ願い。
金(え)雀(に)枝(しだ)の花見てすぐに気がふれる おめでとうっていつでも言える
まるで何かに取り憑かれることを望んでいるかのような不気味な空気を感じます。金雀枝といえば、魔女の箒の材料でもあります。また、ヘロデ王の追っ手から逃れようとするマリアの居場所を知らせる密告者のイメージも浮かび上がります。金雀枝の重なり合う花弁のイメージが狂気と繋がってゆく。そこへ飛び込みたいという危険な誘惑。
だとしてもあなたの原野あしたまた勇敢な雪が降りますように
たとえ春に会えなくとも、あるいはたとえ狂ってしまったとしても、「あなた」のところには変わらず「勇敢な雪」が降りますようにという願い。この願いは、まるで「わたし」が消えてしまうかのような遺言的な寂しさを湛えています。
アランセーターひかり細かに編み込まれ君に真白き歳月しずむ
アランセーターは北方の地、アイルランドのアラン島が発祥とされる、縄目のような模様が入ったセーター。海へ出る男たちの無事と豊漁を願う祈りが込められた独特の模様は、母から娘へと代々伝えられているという話もあります。この歌で一つ気になったのは「君」という二人称です。ここまでの歌は「私(わたし)」と「あなた」が交互に登場し、時には両者が溶け合いながら物語が進んできましたが、突然飛び出した「君」。この「君」は第三者、おそらく私もあなたも消えた、ずっと後の世界の誰かを思わせます。私もあなたもいずれ消える、しかし「歌」は、残る。アランセータの模様のように連綿と読み継がれる限り、ずっと。私とあなたが過ごした季節が忘れ去られるということは、ない。
(須藤岳史)