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Channel: 「詩客」短歌時評
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短歌時評第140回「コーポみさき」の生活と意見 濱松哲朗 

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 先に言っておくが、筆者がここで山階基の歌について何か書くことを同人同士の馴れ合いと見て顔を顰める人は、まずはそのゴシップ程度の〈政治〉的見識で短歌を云々しようとする自身の感覚の貧しさを嘆いた方が良い。筆者は山階を、あくまで一人の作家として取り上げるつもりであるし、それは他の作家について書く時と何も変わらない。同人なら全面的に擁護するとでも、人は思うのだろうか。笑わせないでほしい。こうして名前を晒して物を書くことへの責任と覚悟を、見くびられてはたまらない。
 それはさておき、である。時評であるから、話題となった第64回角川短歌賞次席作品「コーポみさき」50首(「短歌」2018年11月号)について主に書くつもりでいるが、山階作品を論じるにあたっては、やはり第59回短歌研究新人賞次席作品「長い合宿」30首(「短歌研究」2016年9月号)を踏まえて書いておきたい。筆者は「長い合宿」の方を、山階作品における一つの転換点となった連作として評価しているが、それは何も、「コーポみさき」を「長い合宿」の繰り返しや自己模倣と見なしているというわけでは決してない。むしろ「コーポみさき」の方が、方法論的にはより洗練され先鋭化していると筆者は捉えているが、しかしそれ故に、この先鋭化にはある種の危険も伴うという判断が、肯定的な評価をほんの少し押し留めてしまっている。多少回り道になるかもしれないが、今回はその辺りを丁寧に書いてみようと思う(なお、今回の角川短歌賞全体については別の媒体で書いたので繰り返さない)。

 以前、「穀物」の座談会で山階は次のように発言していた。「読者が自分自身を代入するにしても、想像して人間を代入するにしても、そのために必要な「空白」だけあれば短歌は作れるとぼくは思っています。だから連作を作るのも全然苦じゃないんです。プロトタイプの人間像みたいなのすらなくてもまとめていけるはずだから」。「「どれだけ引いたら読む人に負担がかからないかな」っていうことばっかり考えてる気がします」(「座談会・短歌を生きていくための深呼吸」「穀物」第3号、2016年11月)。この発言は、山階の作歌上の方法論を端的に示していると言って良い。彼は声高に〈私〉を詠むことをしない。彼が描くのは、人と人、あるいは人と物との関係の中に生じる微かな気配であり、それは関係性の機微とも言うべきものである。彼が「空白」と呼んだものは、換言すれば関係性の生じる〈場面(scene)〉のことであり、〈場面〉の空気感のことである。〈私〉の統治下に置かれる〈場(field)〉ではなく、誰にでも偶然起こり得るような〈場面〉であることに注意したい。そして、〈場面〉の空気感を描くことは、空気感そのものを言葉によって構築し、読者に手渡そうとする行為でもある。
 もっとも、読者へ「空白」を残しつつ〈場面〉を手渡すという方法や引き算的な作歌意識それ自体は、別に目新しいものではないし、彼に限ったものでもない。特にそれが、〈私〉というものやそれを描く言葉の周囲に纏わりついた過剰な特殊性や劇性を洗い落としてゆく作業の一環として語られるのであれば、それこそ『桜前線開架宣言』収録世代の中に先例を見出すことは容易であるし、そうした先行世代ないし同世代からの影響を当然ながら山階も受けているはずだ。山階の初期の歌の〈場面〉の多くが生活の現場としての都市空間であることも、読者が想起しやすいごくありふれた〈場面〉を叙景することで〈私〉の効力を薄めつつ、言葉の細部へのこだわりによって作者の独自性を確保しようとする試みだったと見なすことができる。しかし、誰にとっても代入可能な無名性や即物性を獲得するための手段として都市の景物を選ぶことは、表現上の独自性や作者性の確保に失敗すれば都市空間そのものの無名性の方に飲み込まれ、ある種の没個性に陥ってしまう危険を常に有している。

高層のビルがおのおの全身で名前を付けて保存する街
山階基「メインストリーム・ストリーム」(「早稲田短歌」42号、2013年3月)
できたてのビルしなやかに伸び上がりところどころにある非常灯
「革靴と火花」(「早稲田短歌」43号、2014年3月)
東京で生まれ育つてみたかつた僕を寝かせてそれから眠る「ちゃら」(「穀物」創刊号、2014年11月)
三基あるエレベーターがばかだからみんなして迎えに来てしまう
「滴る炎」(「穀物」第2号、2015年11月)

 仮名遣いを再度新仮名遣いに戻した2015年頃までの山階作品には、読者へ与えるための「空白」の力と没個性化とのせめぎ合いで揺れ動く作者の姿が時として透けて見えてしまう。ここに引いた「長い合宿」以前の四首なら断然四首目のエレベーターの歌が優れているし、一首目であれば同様に〈名前〉に着目した「バス停は置かれた場所の名ではなくほんとうの名を呼べば振り向く」(「風邪と音楽」「穀物」第4号、2017年11月)の方が秀歌だろう。「おのおの全身で」や「しなやかに伸び上がり」という表現は、確かにどこか身体感覚に訴えるものがあるが、「迎えに来てしまう」や「振り向く」と比べると、やはり過剰だ。山階は次第に、こうした読者の(作中の主体の、ではない)感覚に直結するような表現に対して、引き算のメスを入れ始める。

おたがいのあらすじをきく夕暮れにあたらしい食卓のはじまり「長い合宿」(「短歌研究」2016年9月号)
ひとりずつ抱えて帰る難題をほっぽったまま夜食のしたく
湯上がりのくせを言われてはずかしい今のところはもめごとがない

 「長い合宿」は、そうした引き算の精度を高める過程で生まれた一つの到達点だと言える。かつて、田丸まひるは「長い合宿」について、「そもそも作中の主体が男性なのか女性なのかも巧妙に隠されて」おり、「意図的に主体やルームメイトの「顔」を消して、主要な人物像においては、共同生活を手さぐりで始めた主体の「表情」のみで作品を構築している」と評したように(「詩客」短歌時評第123回、2016年9月24日更新分)、この連作においては作品の主人公(主体)とルームメイトの性別以上に、人物の個別性を決定づける〈顔〉の不在が大きく作用している。意地の悪い言い方をすれば、この連作の主人公と相手役であるルームメイトは、お互いにとっても読者にとっても、とても都合の良い他者として描かれている。「おたがいのあらすじをきく」ことはしても、各々の「難題」に深入りしたり「もめごと」の原因を作ったりはしない。他者の〈顔〉と向き合う際に起こり得るストレスがルームメイト同士の生活場面を描く連作後半では綺麗に引き算されているのだ。連作の前半で、主人公の実家の人々がそれぞれ「父」「母」「弟」として具体的な個人として(性別も分かる状態で)描き出されているのとは対照的だ。

山茶花のほころぶ冬の庭にいて離れなければふるさとはない
うちを出る? はてなを顔にしたような母よあなたに似たわたしだよ
てらいなく笑ってみせたはずでした生家いつかは訪ねて来るよ
 しかし、「長い合宿」にはひとつだけ、引き算し切れずに残されたものがあった。「ふるさと」や「生家」を離れるという、主人公が個人として背負ったある種の物語性である。この点は「コーポみさき」と比較した方が分かりやすいだろう。両方とも新生活を他者とともに歩み始める過程が描かれているが、「コーポみさき」の方にはもはや対比構造を取る「ふるさと」や「生家」は登場しない。現状の生活に関する一切の理由付けがあらかじめ引き算され、拒まれているのだ。確かに「コーポみさき」はある生活の始まりを描いた作品ではあるが、そこには始まりだけがあって終わりはない。生活の終わりは離別や死といった分かりやすい物語に回収されやすいトピックだから、当然引き算の対象になるだろう。そもそも生活というものは、坦々と繰り返されて続いてゆくという一点において、安易な物語性を最初から拒んでいるとも言える。そして、「長い合宿」では「ふるさと」との対比による「都市」的空間の気配が微かに尾を引いていたが、「コーポみさき」においてはそうした地方と都市の対比構造も無化され、街という存在自体が極めて単純化されている。
 実際、作中には引き算の種明かしのような次の歌を見出すことができる。

生活にわけはないのに共にするときは問われるきっかけなどを「コーポみさき」(「短歌」2018年11月号)

 「きっかけ」を問い、「わけ」を知ろうとすることは、生活の場面を何らかの一貫した物語によって見渡そうとする心理によるものだ。「きっかけ」や「わけ」を書いてしまうことは、人生という物語を通じて生活を捉えることであり、を選択した主人公を個人として顕在化させることに繋がる。だが山階は「生活にわけはない」と言って、個人の生活を人生という物語を通じて読者に消費されやすい形で描くことをギリギリのところで拒もうとする。

卯の花がすきなあなたと手を組んでふたり暮らしという寄り道を

 土岐友浩はこの歌の三句目に着目して、「単なる慣用句、ではない。社会のなかで生き延びるために、やむを得ず、しかし前向きに生活を共にする、その関係性が「手を組む」という一語で精確に示されて、立ち上がる」と評しているが(「現代短歌」2019年1月号)、筆者はむしろ「手を組む」という慣用表現が読者にとってのある種の近寄りやすさになっていることに注目する。「ふたり暮らし」なのだから「手を組む」のは当たり前だろう、と一瞬思わせておきながら、その生活は実は互いの人生にとっては「寄り道」だと書くことで、「あなた」との強かな共同性を示す。「卯の花」という、一人分作るのには不向きそうな食べ物が、あたかも手を組む決め手になったかのように大切に扱われている点も興味深い。
 ところで、山田航は「長い合宿」と「コーポみさき」について「多様化するライフスタイルのリアリティを見つめ、ドラマツルギーを導入した短歌連作」だと評しているが(「短歌研究」2019年1月号)、筆者はむしろ、「ライフスタイル」と名指される以前の、「きっかけ」も「わけ」も無いような未分化な〈場面〉を丹念に描写する点にこそ山階の作家としての特性を強く感じるし、「長い合宿」から「コーポみさき」へ到る過程で山階は、山田の指摘する「ドラマツルギー」的な「擬似小説としての連作」の手法から逃れようとしているように見える。だが、「コーポみさき」を評価する側にも批判する側にも、山階作品のストーリーテリング性に対する指摘が見られるのには、恐らく次のような歌に理由がある。

同居する相手の性をいちばんに訊かれるんだな部屋を探すと
おふたりはなごむ感じでよかったというだめ押しをまともに受ける
部屋を借りるためのはずみの婚約を笑ったきみに合い鍵をやる

 結婚を前提としない者同士が部屋を借りることにまつわる現実の困難さは確かにこの連作では目立つエピソードだが(そして引用として纏められてしまうと尚更際立ってしまうのだが)、こうした状況設定は、脈々と続く生活を描こうとする連作においてはむしろノイズになるはずだし、「だめ押し」そのものが連作中でだめ押しであるように見えてしまう。更に言えば、三人の登場人物(「わたし」、「きみ」、「あなた」)について、性別に関する情報がほとんど描かれていないことは当初から話題となっていたが、それなのに、「わたし」と「あなた」の関係については、直接的な言及は無いにせよ、2019年現在の日本における社会制度や現実的しがらみをそのまま援用して、自分たちが感じた微かな戸惑い(マイノリティ性、までには到らない)を「だめ押し」することで、逆説的に両者が現行の制度上で「婚約」可能な異性同士であることを描いてしまったのは何故なのか。せっかく性別から解放された状態で生活の〈場面〉を多彩に描くことに成功しているというのに、何故「コーポみさき」は、現実という制度を暗黙のうちに受け入れてしまっているのか。現実に抗い、ユートピア的に作品の舞台を虚構することだって可能だったはずなのに、何故その方法を採らなかったのか――。
 答えは簡単だ。現実と抗おうとする姿を描くことはある種のヒロイズムに繋がり、余計な物語を読者に手渡すことになってしまうからだ。
 もう一度言うが、山階は〈私〉を声高に詠むことはしない。作品が一人称で作られつつ私小説的な湿っぽさから解放されているのは、〈視点〉ではなく〈場面〉に重点が置かれているからであり、仮に主人公の身体が作中に描かれたとしても、「ここだろう落ち込むのならスリッパのままで湯舟におさまってみる」「バス停のちいさな椅子にいつむいたゆるい猫背のてっぺんを押す」というように、ある〈場面〉に役割を完遂するための道具として扱われている。それはSNS上で見かける、白い背景で物を持っている写真に写り込む「腕」に「持つ」以外の意味が含まれていないのと相通じるものがある。山階は主体の視点の位置をギリギリまで読者と近づけようと試みる。既存の制度の枠に収まり切らない設定で作中の登場人物を描くことは、人物や設定に関するある種の〈型〉を作り出し、読みの「空白」を物語によって埋めてしまうことに繋がる。そのため、「読者」として想定され得る人々が無条件にすっと作中世界へ入っていけるような〈場面〉の連続として、結果的にこの現実社会の設定がそのまま活かされてしまうのだ。
 だが、人生の物語性を引き算することで生活の〈場面〉を描こうとする山階にとって、制度や構造の物語を作中に援用することは決して本意ではなかったと筆者は思う。「穀物」第3号の座談会で彼は「マジョリティの人に対して負担をかけて何かを得てほしいとか、自省してほしいとか、そういうアプローチをするだけの優しさがぼくにはないので」と発言していたが、しかしながら「コーポみさき」の作者はやはり読者に対して少々親切すぎた。彼はなにも、話を聞いてもらうために読者へ媚びているわけではないし、最初から話が通じないものと諦めて見くびっているわけでもないが、しかし読者へ「空白」を届けようとする親切心は、作中にイロニー(皮肉)を潜ませる。斉藤斎藤が「コーポみさき」について「異議申し立てが本筋ではない感じで。ジェンダーやセクシュアリティの色眼鏡をいったん外して、すっぴんの生活や関係性を見つめようとしている」と述べていたが(「短歌研究」2019年1月号)、本筋ではない異議申し立てを現実の制度を援用して描くことは、ほのめかしによる現実へのイロニーに他ならない。「イロニーは信じられることを望まず、理解されることを望む」(ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』久米博訳、ちくま学芸文庫、1997年)。作中で「だめ押し」された現実社会の構造やしがらみは、ユートピア的な共同生活の〈場面〉と対比されることで、イロニーとして読者に受け取られることを前もって準備されている。現実との接点をこれくらい消さずに残しておけば、書かなくてもそういう風に読んでくれるだろうという、諦めと期待の両方を含んだ危険な親切心が、作者から読者に対して働いているのではないか。
 筆者は以前、「コーポみさき」について、「一見すると低燃費で丁寧な歌たちなのに、歌のすぐ側に光の壁があって、その向こうには油まみれのエンジンが煙をあげている、という感じ。「コーポみさき」は恐らく山階作品で一番、この「光の壁」が分厚い、と僕は思う」とツイートしたが(@symphonycogito: 2018年11月7日23時22分)、この「光の壁」の正体は、作者が作中に潜ませたイロニー的側面であったと今は考える。「暮らし」や「生活」を大切に、丁寧に描くことが、作品としては表立って描かれていない現実への批判意識を逆説的に顕在化させている。しかしその逆説は、今現在の社会構造を作中で援用しなければ成立しない。みずからのイロニーを読者に読み取ってもらうために、読者にとってはノイズとなるような「だめ押し」を敢えて潜ませ、生活のかけがえのなさと対比的に読んでもらおうとする。それが「コーポみさき」の方法論だったのではないか。

恋人をまじえて水炊きをかこむ呼びようのない暮らしの夜だ
起きぬけのあなたにも巻くたまご焼き夜じゅうを仕事にかまけたら

 だが、筆者としては山階作品の魅力は、「暮らし」や「生活」という合言葉よりも、やはりこうした「呼びようのない」ほどに尊い〈場面〉の描写の方にあると判断している。アコースティックのギターの、フレットの上を左手の指が動く時に立てるあの微かな音すら逃さないような彼の緻密な描写は、〈場面〉におけるノイズを意図的に調整しなくても、ライブの生演奏のような味わい深さを兼ね備えている(そういえば、「ライブ」も山階作品に頻出する〈場面〉であった)。「すっぴんの生活や関係性」と斉藤斎藤は言ったが、表現されている時点でそれは「すっぴん」では決してないはずだ。だが、その事実を忘れて「生活」を安易に「すっぴん」化して作中で現実の制度と合わせて引き寄せてしまうと、「生活」はいとも簡単に、制度の意図する方へ流されて抑圧されるだろう(筆者は今これを書きながら、「暮しの手帖」を創刊編集した花森安治のことを、戦時中に国策広告に携わった彼の戦後の自己批判のことを、頭の片隅で思っている)。
 新人賞への応募作品であるから、ある程度の計算や調整は仕方ないことなのかもしれない。だが、あなたには、現実に先んじた作品世界を言葉によって結実させるだけの力があるではないか。この一向に変わることのない絶望的な現実の構造への異議申し立てや、いつ終わるとも知れない調整役など、こうして近所の口うるさい評論家に任せておいてくれたら良かったのに、しかしそれでも、あなたは書かざるを得なかった。だからこそ筆者は、山階基にここまでやらせてしまうこの社会の現実に対して、悔しさと憎しみを覚えずにはいられないし、「コーポみさき」に含まれる「生活」の微かな危うさについて、むず痒い思いを抱かずにはいられないのである。

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