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Channel: 「詩客」短歌時評
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短歌時評207回 文法の向こう側 辻 聡之

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 大名古屋歌会、という名称の歌会がその名のとおりの名古屋で行われている。荻原裕幸さんを中心に運営されており、二〇二三年三月から始まり、つい先日、五回目が開催された。第四回の様子は、「短歌研究」二〇二五年五・六月号の出張企画「歌会おじゃまします拡大版」で紹介されている。およそ三十名ほどの参加者で、代表の数人がパネリストとして歌を評していき、時折は参加者が発言するというようなスタイルだ。
 誌面で取り上げられた第四回では、僕が司会兼パネリストとして会を進行したのだけれど、おおっ、これは、というおもしろい場面があった。ある歌の中の助詞について、必要か不要か、という点で意見が分かれたのだった。それも荻原さんと、パネルで参加していた江戸雪さんという二人の間で。はらはらしながらしばらく議論を見守っていたものの、その場では答えが出そうになかったため、「難しい、問題ですね……」と神妙な顔をして次の歌へと移った。
 それにしても、長く短歌と向き合ってきた人たちでも、助詞の一字について意見がぶつかるというのは、実にエキサイティングで、改めて表現の奥深さを感じた。

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 今年三月に出た大辻隆弘『短歌の「てにをは」を読む』(いりの舎)は、まさに助詞の読み方について、例歌を挙げながら教えてくれる一冊となっている。自身を「てにをは病」と称するように、一首一首、一語一語に嬉々として向き合う様には読者もつられて胸が躍る。
 先述の歌会で議論になった「助詞の省略」についても書かれている。高木佳子の時評において、「深爪をからだの先に引っかけて昼でも暗い坂のぼりきる」(山崎聡子『青い舌』)の結句の助詞省略が主体の「独語」(独り言)を強めているという指摘を出発点にして、大辻は佐藤佐太郎や近藤芳美などの作品にも同様の省略を見出している。

助詞が省略された結句に滲む独語の響き。それは、自分の内面のつぶやきをそのまま歌にしたいという、彼らの志向がもたらしたものだったのである。

 もちろん、助詞を省略した歌が全て「内面のつぶやき」に直結するわけではなく、ケースバイケースで読み解く必要があるだろう。
 さまざまな「てにをは」について縦横無尽に触れていても、その都度、著者自身が古語辞典や広辞苑を引き、語の意味や文法を丁寧に確認しているため、その読みにはしっかりと筋が通っていて安心できる。国語の授業もずいぶんと遠い昔になってしまった人間にも改めて勉強になる。しかしながら、頁を手繰っていく中で、「つ」と「ぬ」の章には驚かされたところがある。どちらも「完了」の意味をもつ助動詞だけれど、「つ」は「意図的に動作を終わらせるとき」、「ぬ」は「自然の推移として物事が終わってしまったとき」に使われるものだと本文中では説明される。ところが、だ。

私(わたくし)のめぐりの葉のみくきやかに世界昏々と見えなくなりつ  岡井隆『朝狩』

貪りて 世のあやぶさを思はざる大根うりを 呼びて叱りぬ 釈迢空『倭をぐな』

 岡井の「見えなくなりつ」は意図的ではないから「ぬ」が適当で、釈迢空の「叱りぬ」は自然の推移ではないから「つ」が適当なはず。けれど、当時の時代状況を踏まえると岡井はあえて世界から目をそらした。迢空は、自分の意図を超えて激しい怒りを爆発させてしまった。だから、通常の助動詞の使用方法では、到底表現しえなかったのだという(詳細なニュアンスは本書を確認してほしい)。大辻の読みの深さに感嘆する一方で、そんなのありなの!? というのが率直な感想でもあった。さっきまで、あんなに文法に沿った解説をしてくれていたのに……。
 歌を十全に読み解くには、文法の知識がある程度必要になる。それでも、それだけでは限界があるということなのかもしれない。その先を補うのは、つまるところ個人が積み重ねてきた経験や知識、想像力に委ねられる。だとしたら、他者と「読み」を共有するのは、実はとても難しい作業なのではないだろうか。本当に、短歌を読むって一筋縄ではいかない。
 日々、多くの歌と出会う中で、どうしても内容的なおもしろさや修辞の新しさに目を奪われるけれど、一つの助詞にこだわって読む時間の豊かさというものを思った。

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 荻原さんと江戸さんが助詞の一字について議論していたあの時、もし大辻さんが加わったら、いったいどんな方向へ転がっていただろうか。ちょっと見てみたい気がする。


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