本欄、短歌時評200回で小﨑ひろ子氏も取り上げていたが、今回は、AI(人工知能)の話題。
こちらのテーマは、「AIは短歌をよむことができるか」。
・AIは短歌を「詠む」ことができるか
まずは、「詠む」から。
AIは、短歌を「詠む」ことができるか。
というと、見事に詠める。
AIは、学習ができるから、短歌を学習すれば、たちどころに詠めるようになる。
AIが短歌を学習して短歌を詠めるようになっていく過程については、浦川通『AIは短歌をどう詠むか』(講談社現代新書)に詳しい。
本書によれば、著者の浦川は、ウィキペディア日本語版の記事から、短歌の定型を満たすテキスト1万件をデータとして、短歌の定型を学習させた「短歌AI」をつくった。
その「短歌AI」に、さらに俵万智の短歌2300首あまりをデータとして学習した「万智さんAI」なるAIをつくり、短歌を詠ませてみた。これが、2021年3月のこと。
俵万智の作品(「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ『サラダ記念日』)の上句を「万智さんAI」に提示して、新たに下句を生成させてみたのだった。
その「万智さんAI」が詠んだ短歌は、こんな感じ。
元歌 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
AI 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と言われたような言の葉がある
また、「万智さんAI」と同様に、今度は、永田和宏の短歌作品を学習したAIもつくった。永田の作品を学習した「永田さんAI」は、永田の作品(きみに逢う以前のぼくに遭(あ)いたくて海へのバスに揺られていたり『メビウスの地平』)の下句を次のように生成した。
元歌 きみに逢う以前のぼくに遭(あ)いたくて海へのバスに揺られていたり
AI きみに逢う以前のぼくに遭(あ)いたくて裏山を登れば五月の湿り
と、こんな感じで、AIに、俵万智の短歌作品をデータとして学習させれば、俵万智風の作品を生成することができるし、同様に、永田和宏の作品をデータとして学習させれば、永田和宏風の作品を生成することができるのである。
ここまでが、実際に「短歌AI」ができたことだ。
こんな感じで、「短歌AI」は短歌を詠めるわけであるから、もし、この「短歌AI」に、「万葉集」をデータとして学習させれば、文語による万葉集風の作品を生成する「万葉AI」みたいなAIがつくれるであろうし、あるいは、現代口語短歌をデータとして学習させれば、現代風の作品を生成する「口語短歌AI」をつくることができる、ということなんだろう。
これが、現時点のAIの実力だ。
じゃあ、AIがこのまま順調に成長していけば、AIは、人間が詠む以上の短歌を生成できるか。というと、残念ながら、そういうことにはならない。
「短歌研究」2023年8月号の座談会で(坂井修一、澤村斉美、佐佐木定綱による座談会「AIは短歌の敵か味方か。」)、坂井修一は、AIの限界を、次のように端的にして明快に述べる。
はっきりしているのは、塚本邦雄以前に塚本邦雄の歌は絶対に作れないし、斎藤茂吉以前の歌を全部学習しても斎藤茂吉の歌はChatGPTでは作れない。(前掲書)
当たり前といえばその通りで、結局、「短歌AI」はこれまでの作品の模倣をすることしかできない、いうことなのだろう。つまり、「短歌AI」が生成する短歌というのは、あくまでも俵万智風であり永田和宏風である、ということだ。
けれど、現時点ではそんな模倣の段階だけれど、そのうち、創造性を身につけた、新たな人工知能が開発されるかもしれない。限界を突破したあらたな「短歌AI」の誕生だ。もし、そんな人工知能が開発されたら、それは、短歌文芸の一大転機になるだろう。ただ、それは、短歌文芸にとっては一大転機かもしれないが、そんなAIをわざわざ開発をする商業的価値は、AI開発のような最先端産業にはどうにも見いだせないので、多分、開発されることはないと思う。
一方、いくつかのキーワードをいれると、それに見合う短歌を生成する、というAIもつくられている。
こっちの方が、AIの使い道として、商業的価値が生まれそうである。
例えば、歌人の木下龍也は、「お題」を受けて「あなたのための短歌」をつくる、ということをプロフェッショナルとしてやっているが、木下とまったく同じことをAIはできる。
前掲の浦川通『AIは短歌をどう詠むか』では、その木下とAIによる短歌イベントの模様が紹介されている。
そこでは、木下龍也の作品を学習したAIが、木下を模倣して「あなたのための短歌」を生成した。
「お題」は、自分らしい仕事とは何かと悩む20代の図鑑編集者のための短歌である。
木下 青い実が赤く染まってゆくようにらしさはいずれきみに追いつく
AI 何者も調べたことのない言葉とても素朴で遠くから来る
なかなかいいところまでAIは生成している。
これまでは、木下龍也にお願いしないと、わたしにぴったりの短歌は作ってもらえなかったけど、これからは、AIにお願いすれば、たちどころに(おそらく1秒ほどで)10や20やそれくらいの短歌を生成してくれる、ということになるかもしれない。そして、ユーザーは、そのなかから、今の自分の気分にあう一首を「自分のための短歌」として、選べばいいのである。
ユーザーが、「短歌AI」に、「今の私の気分にぴったりの短歌を詠んで」とか「悲しい私をなぐさめて」とか「好きな人に気持ちを伝える短歌を作って」とか、そんな「お題」なりキーワードなりを入力すれば、AIはたちどころに、そんな「お題」なりキーワードなりにあう短歌を生成してくれる、ということになろう。
そして、もし、そんな「短歌AI」に一定数の需要が生まれる、ということになれば、あっというまに「短歌AI」に商業的な価値が生まれて、より高度で上手い短歌を生成する「短歌AI」が開発されていくことになるだろう。もしかしたら、そこでは、人間以上に上手に短歌を詠むことができる、なんていうAIが、誕生するかもしれない。
……と、ここまで話を進めたけれど、ちょっと、立ち止まってみよう。
そうした短歌の生成が、はたして、ホントに「短歌を詠む」ことなのだろうか。
もし、塚本邦雄でも斎藤茂吉でもない、この自分自身が、自分のために短歌を詠みたいのであれば、自分の代わりは必要ない。自分のために詠むのだから、自分の思うままに詠めばいいだけのことだ。
けど、もし自分ためではなく、たとえば、他者のために何らかの商業的対価を期待して短歌を詠もうとするならば、そんな作業はこれからAIににかないっこない、ということなのだ。
……そういうわけで、短歌は誰かのためではなく、自分のために詠んだほうがいいんじゃないのかしら、というのが、2025年時点でのAIが短歌を「詠む」ことについての筆者の見解だ。
・AIは短歌を「読む」ことができるか
続いて、短歌を「読む」ということ。
こちらもまた、AIは、ちゃんと短歌を「読む」ことができる。
とくに、生成AIのモデルであるChatGPTが、一首評くらいならスラスラと「読む」ことができることについては、すでに多くの場で言われていることである。
たとえば、先にあげた座談会で、佐佐木定綱の次のChatGPTに対する発言が分かりやすいだろう
自分の歌や誰かの歌を打ち込んでみて「この短歌の評をお願いします」という感じで入力しています。つらつらと「この短歌は自然の美しさを表現しており……ここの部分は自然の生命力を……この歌は生と死の循環を表現している美しい一首です」みたいな感じで、僕らがいつもやっている一首評と同じようなことをやってくれます。なかなか的確ですし、見えていない点などを上げてくることもあって、「すげえな」と思っています。(「短歌研究」2023年8月号)
自分の作品を「読んで」くれて、それだけじゃなく、「なかなか的確」な評までしてくれるのであったら、たとえそれが人間ではないAIだったとしても、当事者なら嬉しいかもしれない。AIが自分の一番の読者になってくれるのだ。
あるいは、自分ではどうにも読めない、よく分からない短歌作品を、自分のかわりにAIが読んでくれることで、その短歌作品がよりよく読めることになるんだったら、ユーザーである自分にとって、AIは使えるツールだ、ということになろう。
けれど、やっぱり、そんなAIにも限界はある。
それは何か。というと、AIには、良し悪しの価値判断ができない、ということだ。
つまり、一首についての評はできる。それは、なかなか的確にできるし、見えていない点を上げてくることもする。しかし、その作品が、結局のところ、秀歌なのか凡歌なのかのジャッジは、AIにはできないのだ。
いい作品とそうでない作品のジャッジメントができない。
これがAIの限界だ。
では、なぜ、AIは、いい作品とそうでない作品のジャッジメントができないのか。
といえば、短歌作品の良し悪しをジャッジメントする客観的な判断基準というのが、この世には存在しない、ということに尽きる。
基準が存在しない以上、判断しようがないのだ。
しかし、それでも、何らかの判断基準をとりあえず設定することにすれば、作品の優劣を判断することはできるだろう。
たとえば、「短歌AI」開発の現場では、短歌投稿サイトに投稿された歌のなかで「いいね」の数が5以上ある短歌をAIに学習させる、という試みがあるという。(浦川通、睦月都、大塚凱による鼎談「AIとヒトはなぜ歌を詠むのか」「短歌研究」2025年1・2月合併号)
この場合は、「いいね」の数が多い、というのを、秀歌の判断基準にしたわけだ。
さあ、この判断基準、これをわたしたちは認めるか。
ただし、これは、わたしたちが普段からやっている歌会の選歌と同じ話ではある。つまり、歌会では、もっとも票が集まった作品をその歌会の一席としているわけだけど、その一席が、すなわち秀歌なのか、ということだ。
いい作品とは何をもって「いい」というのか。そんな、根源的な問いを、「短歌AI」は、つきつけているといえるのだ。
なお、もし、短歌の世界で、「いいね」の数が多いのがすなわち「いい歌」である、というコンセンサスが得られた場合は、ここまでの課題はすべて解消される。つまり、AIの限界は、たちどころに克服される。
AIは短歌の良し悪しをたちどころにジャッジメントできるようになる。
では、そんなジャッジメントができるようになった「短歌AI」がつくられたら、短歌の世界はどうなるか。
というと、今ある短歌新人賞に、選考委員はいらなくなるだろう。選考は、AIがやればいい。(ただし、応募はテキストデータということになる)。おそらく数秒で選考結果と選考理由が生成されるだろう。
もちろん、新人賞だけではなくて、「迢空賞」とか「前川佐美雄賞」とかもAIが選考してくれる(ただし、歌集が電子化されていることが前提だが)。あるいは、新聞や雑誌の投稿の選歌も、AIが瞬時にやってくれる。なんなら、明日の歌会の一席もAIが決めてくれるようになるのだ。
そんな短歌の世界、求めている人なんて、はたしているのだろうか。
……そういうわけで、いい作品の客観的な基準なんてのは、この先も存在しない方がいいんじゃないのかしら、というのが、2025年時点でのAIが短歌を「読む」ことについての筆者の見解だ。