● 5月の文学フリマ東京40でふたつの短歌アンソロジーが販売された。さとうきいろによる『クソ短歌アンソロジー』と ぽっぷこーんじぇるによる『SNS短歌アンソロジー』である。
● 〈火事ですか救急ですかまじですか強めのギャルを派遣しますね 口野萌〉(『クソ短歌アンソロジー』)何が起こったのかは伏せられているけれど、たぶんなにも解決しなさそう。
● 解決はそもそも期待されていない、それは短歌も同じ。
● 門戸を狭めない短歌アンソロジーや歌誌は短歌ではなく短歌そのものにとってふさわしいかたちだ。
● ❝詩を書くということは、全く個人的な行為であるが、同時にそれは社会的な行為であるのだ。❞(「詩というものの存立を考える」『新選鈴木志郎康詩集』思潮社)
● 私は短歌を読む、短歌を読まないうちは。
● 短歌をおもしろくしているのは作り手ではなく読み手である。そして、作り手は同時に読み手にもなりうる。
● すべての人をおもしろがらせられる短歌は存在しない、すべての人の道をあやまたせる林檎が存在しないように。
● 言葉は読み手との組み合わせ次第で毒にも薬にもなりうる。
● 言葉が毒になるのは読み手の解釈が原因だ。
● みずからの呼吸を苦しめない解釈さえすればどんな言葉も薬になる。
● 言葉に怒りたい人は怒りたいから怒っているだけだ。しかし怒って快感を得る自由は誰にでもある。
● 群衆の多くは読み手である。
● 群衆が牽引する短歌界は囲碁に譬えられ、アイドルが牽引する短歌界は将棋に譬えられる。
● 短歌のアイドルと短歌をつくるアイドルは異なる。後者だけなら群衆と言える。
● 将棋の駒に日本将棋連盟の定めた点数というものはなく、解説する棋士によって点数は異なる。
● チェスの駒にはポイントがある。ポーンは1点、ナイトは3点、ビショップは3点、ルークは5点、クイーンは9点とされる。
● ボビー・フィッシャーはビショップを3.25点と提唱したという。
● アイドルが牽引する短歌界という言説は必ず破綻する。なぜなら他の要素がひとつでも入り込めば、前提が成立しなくなるから。
● 群衆が牽引する短歌界という言説は破綻しない。群衆のなかには短歌のアイドルも包含しているために。
● 実際は、アイドルが牽引しているように演出されており、歩兵もそう思いたがっている、というところか。
● ❝権力者が組織的に要請されるのは、権力者が権力を行使したいからではなく、他の人々が権力者を通して権力を行使したいがためである。❞(鈴木健『なめらかな社会とその敵』ちくま学芸文庫)
● 誰もが自らを歩兵と思い、いつか武功ならぬ歌功をうちたてて「と金」へ成りたがっているのだろうか?
● 終局まで触れられることのない歩兵で、私はありたい。
● 自分のいる世界が将棋だと思い込んでいて実は囲碁だったとしたら自嘲するしかないだろう。
● 歌人の名とは著作権と商売のための記号にすぎない。
● ❝名前は身体ある存在の抽象とか記号とかというものではないのだ。実は身体を言葉へ変換した名前こそ正に実体そのものであって、身体はその名前の人間が生きているかいないかの区別を与える記号以外には意味をなさないものとなっている❞(「闇の言葉へ向かって」『新選鈴木志郎康詩集』思潮社)
● ❝江田 同じ結社なら結社、グループならグループで褒め合うことはあっても批判することはないという、これはもうジャンルの終わりかなと私などは思います。❞(野村喜和夫VS江田浩司「危機と再生」『ディアロゴスの12の楕円』洪水企画)
● 群衆詩としての短歌に批評は不要だ。群衆は誰もが役割のない碁石に過ぎない。
● 碁石に価値がないわけではないけれど将棋の駒のような点数はない。
● 個々の短歌の鑑賞は個々の読み手が愉しめばいい。
● 短歌への批評が可能だとするならば、短歌企画への批評となる。囲碁の形勢判断のような。
● インターネット短歌会FLATLINE https://tanka.cc/ の意味するところはフラットな短歌界であり、そんな短歌界は心電図の停止した死後にしかありえないという揶揄かもしれない。
● 私たちは檻から脱けだせないのではなく、檻の外から檻の空っぽを羨ましく見ている。
● 短歌の作り手の個性は短歌では実現しえない。短歌の個性は読み手に属する。
● 作り手が短歌を放ったことで起こる事象の責任が作り手にあるだなんて認める根拠は薄い。
● 〈白い光だなんて、教わっていないし、でもさわっていたから、ごめんなさい 笹井宏之〉(『えーえんとくちから』ちくま文庫)と〈光だと思う あなたが生きるためつけた傷なら触れたい、けれど 河原こいし〉(「てのひら、ゆびさき、おんど 」『ひととせ24→25』)傷跡は白くなることとひかりの白さ。
● 「ひかりへふれる」は短歌っぽいというとき、短歌性の原型をすこし思い起こしている。
● やなせたかし作詞の「手のひらを太陽に」は「ぼくらはみんな 生きている」からはじまる。「ぼく」ではない。
● ネアンデルタール人は火へ手を翳すとき、光へも触れるだろう。
● 〈家族とは焚火にかざす掌のごとく 小川軽舟〉
● 火は火傷のいたみをともないつつ、つながりを潜在的に連想させる。
● 小原奈実『声影記』港の人、は手のうごきが見える歌集だ。
● 〈あぢさゐの球ふかくまで差し入れてわたくしといふ手の濡れそぼつ 小原奈実〉〈ゑんどうの花の奥処をまさぐりてメンデルは夜に手をすすぎしか 小原奈実〉〈手の青くしづむ泉の宵こころ堰くすべなくは触れ来な 小原奈実〉手を花へ、泉へさしいれる。
● 〈はじまりを囁くような外光へ夏のトルソーから手をのばす 早月くら〉(『あるいはまぼろしについて』)聴くだけではなく、手をのばし、外光の感触を確かめようとする類感詩術。
● 〈麦の穂を便りにつかむ別れかな 芭蕉〉と映画『グラディエーター』冒頭でマキシマスの手が触れる麦の穂についての文化人類学の講義を戸山で受けた記憶がある。
● または、月光へ触れる。
● 〈掌で洗う墓なめらかや蝉の声 江里昭彦〉の異界へ触れる感も。
● ❝我妻 私が歌に求めているのって、壁の隙間から差す謎のひかりみたいなものなんですよね。❞(我妻俊樹・平岡直子『起きられない朝のための短歌入門』書肆侃侃房)
● てのひらは自分が自分以外となる地平。
● ❝短歌はあたかも"身体"のように設計されている、という仮定をしばらく受け入れていただきたい❞(高柳蕗子『短歌の酵母』沖積舎)
● 短歌の空は南アフリカの空である。
● ❝世界の「創造」と「破壊」以外、あらゆる企てはどれも等しく無価値である。❞(E.M.シオラン、有田忠郎訳『崩壊概論』ちくま学芸文庫)
● 日本語もどんな言語も地球祖語の一方言に過ぎない。
● 短歌とは地球祖語の膨大な蓄積に生じた或る偏りである。
● 短歌とは個人あるいは個性が存在しうるかもしれないという挑戦であり、私たちはこの挑戦に敗北し続けている。
● それでも挑戦し続ける群衆こそが歌人だ。
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短歌時評208回 短歌の破片 尾内 甲太郎
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