作品 岡野大嗣「みえる、みだれる」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-06-03-18510.html
評者 加賀田優子
「みえる、みだれる」をよんでぼおっと思ったことは、「わたしたちってぜったい死ぬんだな」でした。
いきなり単語が重い。暗い。ですが、この「ぜったい死ぬんだな」は、わたしにとってあかるい絶望感です。
落ちてきて画面に光る雨粒をスクリーンショットに撮りかける
いきている間、わたしたちはかならず風景のなかにいて、欧米人の会話やエスカレーターの地割れにのぞくいきもの、空を見ている正岡子規、なんかにでくわします。けれど、それらの前でほんとうにはたちどまることができません。それはスクリーンショットに撮れない雨粒とおなじところにある話です。
ただ、風景のなかで、あ、となった瞬間がとびこんでくる。そして目や耳や鼻や、そのほかわたしたちのどこか隙間にはいりこんで、しばらくころころといっしょに動いてくれます。
はいりこんだ場所をうまく塞ぐことができれば、しばらく、を、ずいぶんながく、にすることができて、そのとき、わたしたちはたちどまっている気分になれているということなんじゃないかと思います。
祖父が四連続で観た、ってエピソードで足りてその映画を観れてない
そうしてわたしたちはおわりまでえんえんと風景をみつづけるわけですが、こつさえ掴めば、くっきりはっきりみたい風景と、そうでもない風景を取捨選択できるようになる、はず、です。現実vs現実vs現実のトーナメントを組んで、勝利したものに拍手したりもできます。たぶん。
街灯のつもりでみてた丸い月がそうとわかってからふくらんだ
でも、膨大な量がさばさばと流れてくるので、こつもなにも、というところがあります。そういうときに視界はぶれてぶれて、みたい、みえる、というよりは、みえちゃう、ものばかりになったりしてしまう。
みえなさとみえてなさだけみてたくて観覧車には夜にひとりで
きっとそれはかなり危ういことです。自分でもわけのわからないものが、自分のなかにはいってくるということだから。
それを逆に、みたいな、となったり、ガンガンたのしめはじめたら、どうなるんでしょう。
星をみているひとの目のなかは星でいっぱいなように、みえていないものをみているときのひとの目のなかは、みえていないものでいっぱいです。
その状態からだれかと目をあわそうとするとき、時間がかかってしまうんじゃないか。
その間、は、ときにすごくすごく深くてながいんじゃないか。
でも、それも、いいな、と、いまのわたしは自分のまぶたを触ったりします。
二回目で気づく仕草のある映画みたいに一回目を生きたいよ
最近なかよくなろうと狙っているおんなのこにこの歌を紹介したら、「一回目?一回目ってなに?」と何度もくりかえしていました。
映画のなかのひとたちにも一回目は一回しかない。だから、映画のなかのひとたちもそんな映画を観たとき、「一回目を生きたいよ」といい、そういっている映画のひとたちの映画をみたひとたちも「「一回目を生きたいよ」」といい、そういっている映画のひとたちをみてそういっている映画のひとたちの映画をみたひとたちも「「「一回目を生きたいよ」」」といい、つまりこれは一回目、しかないひとたちが永遠につぶやき続けてしまうことばなのです。
そんな、呪いになるのか祈りになるのかわからないバランスでふわっとひかってこの連作はおわります。
そして、わたしは、「あ、やっぱりわたしたちってぜったいに死ぬんだな」とちょっとわらって、ベランダに出られる。さらにそこでぐっと伸びをしたり、ベランダよりむこうに出ちゃおうかな、と、なったりできる。と、いうことにつながった作品でした。