とても好きな一首目について先に長めに評を致します。以降は歌の順番とあまり関係なく評を致しますので、ぜひ原作をもう一度お読みくださいませ。
ふと見ればうすくれなゐの雲がゆく夕方の空 ことば忘れよ
冒頭の歌です。そして連作の中で一番かっこいい歌でした。作者の美意識が歌の隅々に行きわたっています。二首目以降では句切れや飛躍が抑えられており、全体的にゆったりと歌われています。だからこそ、この一首目から受ける眩暈のするような感覚は連作を読んだあとも連作の余韻として残り続けます。初句から四句によって歌に引き込まれ、結句によって歌のことをずっと考えたくなるという恐ろしい構造があります。
「ことば忘れよ」について、意味をあれこれと深堀するのは損でしょう。この歌の味わいどころ、眩暈の起こる仕組みを考察してみます。まずは音をたっぷりと使って雲の色と動きによって景色がめまぐるしく変化する時間の流れが提示されます。さらに四句は名詞で終わっているので、読者の頭の中には視点と情景が組み上げられた状態で一度固定されます。歌のムード(読者が歌の中の情報を頼りにあれこれ想像できる状態)はここで完成するわけですが、突如として現れた結句によって頭の中がパンクします。「もとのムードを考える」と「結句の話者と向き先を考える」を両立できず、行ったり来たりします。
もっと言いますと「ふと見れば」の動作主と雲を見る視点の持ち主は一緒だと考えるのが自然ですので、歌の中に存在するただひとつの視点を持つ人物に対して向けられた言葉と受け取れます。つまり四句までは読者と視点が一体であったはずなのに、その読者自身に対して言葉を向けることになりますので、読者には歌の世界の中にいる読者自身を見る視点が新たに追加されます。結句は読者に突如として自己分裂を引き起こし、歌の中に閉じ込めてしまうのです。
結句が効果を上げるうえで大事なのは、意外にも結句そのものではなく結句に至る前に出来上がったムードなのかもしれません。
夕方のひかりを誰かの優しさとおもひつつ浴びゆつくりあゆむ
続いてタイトルとなる歌です。光という自分の周り全体にあるものをいっています。「おもひつつ」からは、自然に思うというよりは、意図的に優しいと解釈しているのではないでしょうか。自身を奮い立たせながらもゆっくりと歩みだすというところに美学があるように感じられます。
いくつもの約束果たさないままにけふもゆふづつあふぎて終へん
約束がどんなものかはわかりませんが、もう果たすことができないという予感が下の句に表れています。ただ「約束果たさない」の助詞の省略は約束が軽いように思います。「約束を果たさないまま」ではいけませんか。下の句の調べが好きです。
夕方から夜へと時がうつろひて落ち度なき生すこしだけ乞ふ
「すこしだけ」のニュアンスはいかがでしょうか。「生」というと命そのものや人生を指すと思います。「落ち度」とは決して先天的なものではなく自身の選択を経たあとに起こるものだと思います。塞翁が馬的なこともありますので結句はやや短絡的かなと思います。そこが共感できませんでした。もしくは本当に切迫している状況、現状を早く変えなければいけない状況であれば、あるいはこの歌に共感できると思います。上の句のゆったり具合は好きです。
生乾きのタオルと思へる一日をどうにか終へて夜の香をかぐ
痰ひかる通勤の道ほんたうはみんな気づいてゐるはずなのに
生活の1シーンを生々しく捉えていますが、文体の雰囲気によって詩に昇華されています。「みんな気づいてゐる」おそらく作者自身も気づいているはず。
夜の卓の上なる果実また明日もだれかがだれかのために捥ぐはず
柑橘のかをりはわれにまつはりし毀誉褒貶を無いことにする
輪郭のもろさをやどすくだものが置かれし卓のうへにある夜
果物への理解。作者自身の意思は介在せず、ただそこにあるものとして歌われています。「無いことにする」というのも消極的な受け止め方です。自分ではないだれか、自分の意思とは関係なく操作されるものたちという社会の構造への批判と受け取ってもよいかもしれません。
夕方に見上げし雲のやうに燃ゆたつたひとつの歌つくりたし
にくたいは脆い、呷りしウオトカが一気にのどを灼きつつくだる
つきしろよ聖なるものしか照らすなと願ひあふげば虚しくはなし
今宵もまた同じところに影は落ち秩序はゆるくゆるく守られぬ
調べと文体で読ませる。日常の言葉ではないからこそ文体によって引き出される作者独特の把握が歌の表面に現れるのではないでしょうか。一方で次のような口語の混じる文体では、場の統一感が薄れているように感じられました。
完璧な影を落として木の椅子が部屋にあるべきものとしてある
室外機だけがしづかにひびく夜ひとを恨むのはいけないことだ
フラナリー・オコナー書きし短篇をさすがにきついと思ひつつ読む
果物の歌に通じるかもしれませんが、いま挙げた歌はいずれも下の句では物事に対して受け身になっているような言葉があり、連作一首目から感じた作者の美意識からはみ出していると感じました。ただ、変えられない「生」の姿や果たせないままの「約束」、こういった世の中の構造とそこに自分が置かれていることによる苦悩と向き合った際の心の揺らぎが、一首目があるからこそばらばらにならずに連作を構成しているのだと思います。
繰り返し登場する夕暮れのモチーフはいくつかの時間経過を経て新しい一日の始まりへとつながってゆきます。
すこしづつうしほが満ちてゆくやうな目覚めに内なる渚はなやぐ
ぬるき湯につかりをるとき夕雲のあかるさばかりが思ひだされて
きぞ読みし海彼のをみなの著しし短篇に充つほむらのにほひ
はるかなる物語として火の爆ぜる音聞くときにふるへたる耳
ふと見ればうすくれなゐの雲がゆく夕方の空 ことば忘れよ
冒頭の歌です。そして連作の中で一番かっこいい歌でした。作者の美意識が歌の隅々に行きわたっています。二首目以降では句切れや飛躍が抑えられており、全体的にゆったりと歌われています。だからこそ、この一首目から受ける眩暈のするような感覚は連作を読んだあとも連作の余韻として残り続けます。初句から四句によって歌に引き込まれ、結句によって歌のことをずっと考えたくなるという恐ろしい構造があります。
「ことば忘れよ」について、意味をあれこれと深堀するのは損でしょう。この歌の味わいどころ、眩暈の起こる仕組みを考察してみます。まずは音をたっぷりと使って雲の色と動きによって景色がめまぐるしく変化する時間の流れが提示されます。さらに四句は名詞で終わっているので、読者の頭の中には視点と情景が組み上げられた状態で一度固定されます。歌のムード(読者が歌の中の情報を頼りにあれこれ想像できる状態)はここで完成するわけですが、突如として現れた結句によって頭の中がパンクします。「もとのムードを考える」と「結句の話者と向き先を考える」を両立できず、行ったり来たりします。
もっと言いますと「ふと見れば」の動作主と雲を見る視点の持ち主は一緒だと考えるのが自然ですので、歌の中に存在するただひとつの視点を持つ人物に対して向けられた言葉と受け取れます。つまり四句までは読者と視点が一体であったはずなのに、その読者自身に対して言葉を向けることになりますので、読者には歌の世界の中にいる読者自身を見る視点が新たに追加されます。結句は読者に突如として自己分裂を引き起こし、歌の中に閉じ込めてしまうのです。
結句が効果を上げるうえで大事なのは、意外にも結句そのものではなく結句に至る前に出来上がったムードなのかもしれません。
夕方のひかりを誰かの優しさとおもひつつ浴びゆつくりあゆむ
続いてタイトルとなる歌です。光という自分の周り全体にあるものをいっています。「おもひつつ」からは、自然に思うというよりは、意図的に優しいと解釈しているのではないでしょうか。自身を奮い立たせながらもゆっくりと歩みだすというところに美学があるように感じられます。
いくつもの約束果たさないままにけふもゆふづつあふぎて終へん
約束がどんなものかはわかりませんが、もう果たすことができないという予感が下の句に表れています。ただ「約束果たさない」の助詞の省略は約束が軽いように思います。「約束を果たさないまま」ではいけませんか。下の句の調べが好きです。
夕方から夜へと時がうつろひて落ち度なき生すこしだけ乞ふ
「すこしだけ」のニュアンスはいかがでしょうか。「生」というと命そのものや人生を指すと思います。「落ち度」とは決して先天的なものではなく自身の選択を経たあとに起こるものだと思います。塞翁が馬的なこともありますので結句はやや短絡的かなと思います。そこが共感できませんでした。もしくは本当に切迫している状況、現状を早く変えなければいけない状況であれば、あるいはこの歌に共感できると思います。上の句のゆったり具合は好きです。
生乾きのタオルと思へる一日をどうにか終へて夜の香をかぐ
痰ひかる通勤の道ほんたうはみんな気づいてゐるはずなのに
生活の1シーンを生々しく捉えていますが、文体の雰囲気によって詩に昇華されています。「みんな気づいてゐる」おそらく作者自身も気づいているはず。
夜の卓の上なる果実また明日もだれかがだれかのために捥ぐはず
柑橘のかをりはわれにまつはりし毀誉褒貶を無いことにする
輪郭のもろさをやどすくだものが置かれし卓のうへにある夜
果物への理解。作者自身の意思は介在せず、ただそこにあるものとして歌われています。「無いことにする」というのも消極的な受け止め方です。自分ではないだれか、自分の意思とは関係なく操作されるものたちという社会の構造への批判と受け取ってもよいかもしれません。
夕方に見上げし雲のやうに燃ゆたつたひとつの歌つくりたし
にくたいは脆い、呷りしウオトカが一気にのどを灼きつつくだる
つきしろよ聖なるものしか照らすなと願ひあふげば虚しくはなし
今宵もまた同じところに影は落ち秩序はゆるくゆるく守られぬ
調べと文体で読ませる。日常の言葉ではないからこそ文体によって引き出される作者独特の把握が歌の表面に現れるのではないでしょうか。一方で次のような口語の混じる文体では、場の統一感が薄れているように感じられました。
完璧な影を落として木の椅子が部屋にあるべきものとしてある
室外機だけがしづかにひびく夜ひとを恨むのはいけないことだ
フラナリー・オコナー書きし短篇をさすがにきついと思ひつつ読む
果物の歌に通じるかもしれませんが、いま挙げた歌はいずれも下の句では物事に対して受け身になっているような言葉があり、連作一首目から感じた作者の美意識からはみ出していると感じました。ただ、変えられない「生」の姿や果たせないままの「約束」、こういった世の中の構造とそこに自分が置かれていることによる苦悩と向き合った際の心の揺らぎが、一首目があるからこそばらばらにならずに連作を構成しているのだと思います。
繰り返し登場する夕暮れのモチーフはいくつかの時間経過を経て新しい一日の始まりへとつながってゆきます。
すこしづつうしほが満ちてゆくやうな目覚めに内なる渚はなやぐ
ぬるき湯につかりをるとき夕雲のあかるさばかりが思ひだされて
きぞ読みし海彼のをみなの著しし短篇に充つほむらのにほひ
はるかなる物語として火の爆ぜる音聞くときにふるへたる耳