昨年末、角川「短歌年鑑」平成30年版・座談会「人工知能は短歌を詠むか」を興味深く読んだ。座談会の出席者は小島ゆかり・森井マスミ・永田紅・中島裕介。司会は坂井修一。人工知能の発展はこの数年のうちに広く一般に知れ渡り、興味が持たれるようになっている。そうした興味は短歌界隈においても例外ではなく、総合誌や結社誌などのメディアで散発的にではあるが取り上げられてきた。今回、角川「短歌年鑑」という一年の総括の場で人工知能についての座談会が設けられたことは、人工知能が短歌にかかわるものにとって無視できない存在として定着しはじめていることを示すものであるだろう。
座談会中では、「『
【引用開始】
中島 (前略)作者が何に感動したのかを、我々は歌や歌集全体から逆算して、そうして読者の側の感動を体験しているじゃないですか。(中略)読者にとっては、作者の時間の経過に対する感動というのは、もしかすると短歌における感動の中でも非常に核心的な部分かもしれない。でも、それはあくまでも読者としての、鑑賞の核であっても、歌を作るときの核かというと、違うのでは。(後略)
永田 そんな読者の評価を意識することではなくて、実作者としてはありますよ、時間は。
(中略)
中島 (前略)もちろん作者としての私自身の中でも「前と違うな」と思う場面というのはあるんです。極端なこと言うと、子供スイッチONになったとか、結婚スイッチONになったとか。
小島 そういうわかりやすいことじゃなくて、もっとわかりにくい仄暗い、自分でも無意識のところで変化してゆくのでは……。
(中略)
中島 無意識というのもどこまで認められるんでしょうか。(中略)今、私は作者の話と読者の話を使い分けようとしているんですけど、時間や、無意識的な言葉や内面の変化をどう受け止めるかという、その解釈の時点で、実は皆さんの話が作者の立場から読者の立場に切り替わっているんじゃないかなという気がするんです。(後略)
永田 自作の一作ずつもその時その時の自分自身ですよね。私は「時間に錘をつける」とよく言いますが。
(中略)
中島 その「自分は時間の中に生きている」という点に、作者の特権性を先に見出しちゃっているからなのかなという気もするんです。(中略)私がこの議論で問題視しているのは、作者が発した言葉や歌を読者が読んだときに、作者の特権としての時間を常に読み取っているのかという点なんです。[1]
【引用終了】
噛み合っているようで噛み合い切らない、不思議な議論という感じがする。そしてその噛み合わなさというのは、中島・永田の両者が、短歌にまつわるひとつの実感の別の部分にそれぞれ着眼しているためだけに起こっているものだと、私には思われる。
まずは、永田の主張する「時間」を考える。永田は2000年代初頭のインタビューで、歌を作らなかった時期のことを回想しながら「過ぎてしまった時間の実感がない。歌をつくる作業をしていると、時間におもりをつけるといいますか、時間の実感を確かめて形に残していく感じがするんですね」と述べている[2]。インタビュー時からある程度の時間が経過したものの、発言を鑑みるにこの感覚は永田の基本姿勢として現在に繋がっていると見ることができるだろう。わたしはいま・ここにいる。そのわたしが歌をつくる。常に更新されていくいま・ここのひとつを、わたしは歌をつくることで確かなものとして体感する。そして、いま・ここはやがて過去・あの場所になる。新しいいま・ここに立つわたしは、わたしの歌を通じて過去・あの場所を豊かに思い返すことができる。これらの過程が、わたしが作者として「時間に錘をつける」ということであると考えられる。
一方、中島の問題意識は「作者が発した言葉や歌を読者が読んだときに、作者の特権としての時間を常に読み取っているのか」という発言に端的に表れるように思う。たとえば、あなたがあなたの短歌を詠んで、あなたの時間に錘をつける。あなたはあなたの歌を通じて、あなたの過去・あの場所を豊かに思い返すことができるだろう。しかし、わたしがあなたの歌を読んだとき、わたしはあなたの過去・あの場所を思い返せるのだろうか。また、思い返せるならどう思い返しているのだろうか。そして、それは常に起こっていることなのだろうか。
【引用開始】
人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天
/永田紅『日輪』【引用終了】
私(浅野)が、この一首を読み解く。読み解こうとすることは可能である。私は私の思考の上で、この歌から情や景を味わうことができる。場合によっては、この歌を詠んだときの永田紅の様子や心情を想像することもできる。ただ、それらはすべて私の想像である。私が永田紅のように想像したとしても、それは永田紅が想像しているのではなくて、私が想像しているのである。永田紅や、あるいは永田紅がこの歌を詠んだときに近くにいた人が、この歌から永田紅の過去・あの場所を思い返すということはあるかもしれないが、それらは作者自身とそのごく近辺の人にのみ許される、非常に特殊なケースである。一般的な読者として想定される私は、永田紅という作者の過去・あの場所には直接アクセスすることができない。
また永田紅という作者が、永田紅の作品から、永田紅の過去・あの場所を想像することを、私が想像する。永田は自身の歌を通じて自身の過去・あの場所にアクセスし、その時間の流れや、いま・ここから見える過去・あの場所の無意識についても思いが及ぶかもしれない。しかしその際には、永田は自身の作品を確かに読解しているだろう。その点で、過去・あの場所を振り返ろうとするなら、作者は作者であるという特殊なケースにおける情報を持った上で、読者として作品に触れていることになる。
わたしはあなたではないために、あなたの過去・あの場所は持ち得ない。わたしができることは、あくまでもわたしとして(時にはあなたであるかのように)想像するということである。あなたの過去・あの場所に触れうるのは、あなたか、あなたと過去・あの場所を共有した者であって、一般の読者であるわたしではない。あなたがたとわたしとでは、作品に触れる際に持ち得る情報の量・質に大きな差異がある。——「作者の特権」とは、そのような意味で理解される。ただし、そうした特権の有無による差異を意識せずとも、わたしは確かにわたしとしてあなたの歌を読んでいる。その意味で、作者の特権を読者が常に読み取っているということはないはずである。中島の問題意識は、このようなことを指摘していると考えられる。
永田と中島の両者の発言を私なりに解釈してみたが、以上のように考えるとき、そもそもの両者の発言は対立するものではなかったということが見て取れる。わたしはわたしの時間を生きてわたしの短歌を詠み、あなたはあなたの時間を生きてあなたの短歌を詠む。わたしはわたしの時間を生きているために、わたしの短歌からわたしの読解によってわたしの過去・あの場所を想起することができる。わたしはあなたの短歌を読むことができるが、それはわたしの触れうる範囲で行うわたしの読解である。わたしはあなたの短歌を読むとき、必ずしもあなたしか触れられないあなたの時間を思うわけではなく、わたしが触れることができるわたしの読解を行っている。わたしがあなたの時間を思うとしても、わたしはあなたの短歌からあなたの過去・あの場所をそのまま想起することはできず、あくまでもわたしの想像としてあなたの過去・あの場所を思う。以上は、わたしとあなたを入れ換えても成立する。——このような事態を、ある一面から眺めれば永田の主張となり、また別のある一面から眺めれば中島の主張となる。永田の述べる体感も、中島の述べる体感も、ともに短歌にかかわる者の実感として整合しているものと考えられるのではないだろうか。
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上記のような議論を進めていくと、作者は確かに存在しながらも、作者以外の読者から切り離されているように感じられてくる。わたしはわたしの時間を生きて、わたしの短歌を詠む。ときとしてわたしは、わたしの短歌からわたしに出会うことも可能である。そしてあなたは、あなたが触れうる範囲でわたしの短歌を読解する。あなたはわたしを想像せずとも作品を読解することが可能である。また一方で、あなたは作品を手掛かりにわたしを想像しようとすることもできる。ただし、その場合にもあなたが到達できるのはあなたの想像するわたしであって、わたしではない。作品に残るわずかな痕跡をもとに読者が作者を想像しうるという意味で、作者は死んではいないのだが、その読者の想像が決して作者には到達しないという意味で、作者は切り離されている。作者の特権性が認められるとしたら、それは作者の孤独と言い換えても良いのかもしれない。
作者の孤独——それは作者という存在の居場所を認めながらも、作者の心理的な状況とは無関係に読解によって作品は成立するというテクスト論の発想を内包している。そこで認められている作者という存在は、読者による読解に基づいて生成される存在であり、読者の把握している情報に応じて姿を変える。一般的読者が自分の想像しうる範囲で読解し、ときには読者による想像によって想像の作者像を得るということもあれば、作者自身が読者として自身の作品を読解することで、自身の姿を作者として作品に見出すという特殊なケースもある。
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作者の孤独によって、「人工知能による短歌制作は可能」と述べることも可能だろう。
【引用開始】
われわれは死に裏打ちされた生を日々生きており、それが表現という営為の源をなしている。詠まずにはいられないという切迫感は、もとをただせばわれわれが死すべき存在であることから来るのだ。AIにはこの世界の中での固有の立ち位置はあるのか。この世界の感受、この世界との交渉において固有のモードはあるのか。AIに死はあるのか。詠まずにはいられないという切迫感によってAIが歌を詠むことはあるのか。
斎藤寛「AIを使って作る短歌」[3]
【引用終了】
上記の引用は今回の座談会に対する反応のひとつであるが、自身の実作者としての体感からこうした主張を行う者もいるだろう。そして、ここに示されるような実作者としての体感を、作者の孤独は否定しない。しかし作者の孤独は、テクスト論から引き継がれたその孤独ゆえに、「固有の立ち位置」「固有のモード」「死」「切迫感」という作者のみが把握しうる概念・感覚によって短歌が詠めるか否かが決定されるという考えを退ける。
座談会における各人の主張や、そこから引き出されてきた作者の孤独という概念では、作品の成立が読解の有無にかかっていた。それは、一般的読者というケースはもちろん、作者が自身の作品に触れるという特殊なケースであっても同様であった。作品やその作品の裏にいるであろう作者に対する想像が、あくまでも読解によって立ち上げられるとしたら、人工知能がつくった短歌も人間の手による短歌も、同様に何らかの読解の結果や作者像を読者に手渡している。そこに取り立てて違いはない。私たちが実作者としての体感を持つことも、人工知能が短歌を詠むことも、共に等しく孤独である。
■註
[1]座談会「人工知能は短歌を詠むか」(角川「短歌年鑑」平成30年版)より引用。
[2]永田紅インタビュー「#072 時間の実感を歌に紡いで」(http://www.mammo.tv/interview/archives/no072.html)より引用。
[3]「短歌人」2018年4月号時評。
■参考文献
[1]角川「短歌年鑑」平成30年版
[2]永田紅インタビュー「#072 時間の実感を歌に紡いで」(http://www.mammo.tv/interview/archives/no072.html)
[3]永田紅『日輪』(砂子屋書房、2000年)
[4]斎藤寛「AIを使って作る短歌」(「短歌人」2018年4月号)