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短歌時評 第117回 田丸まひる氏の「詩客」短歌時評への感想文 遠野 真

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 未来短歌会の先輩である田丸まひる氏が「詩客」短歌時評において拙作「さなぎの議題」を取り上げて下さった。

 短歌時評 第116回 遠野真「さなぎの議題」と「設定」について 田丸まひる 

 今回の時評に二つ気になる主張があったので、それぞれについて拙いながら感想を書いてみようと思う。
 
 まず一件目。時評から一文引く。
〈虐待は舞台設定の小道具にするようなテーマではない。〉
 何気なく書かれたように見える一文だが(このことについて時評内でのさらなる言及はない)、僕はここで立ち止まった。
 この言葉は作品の内容よりも、作者の作歌態度を戒めているのだろうが、本当に〈虐待は舞台設定の小道具にするようなテーマではない〉のだろうか。受賞作である「さなぎの議題」について言っているわけではないと断った上で、僕はこの意見に反対する。
 理由は二点ある。
 すぐに思い浮かんだのは、「○○は舞台設定の小道具にするようなテーマではない」という規範を広げて適用した時に、実際の創作の現場において、ダブルスタンダードに耐えられなくなるのではないか、ということである。○○には、簡単に思いつくところでは「殺人事件」や「他人の不幸」が代入できる。僕なら耐えきれないだろう。
 もう一点は、虐待を受けた人物がその虐待を小さく扱ってはならないというルールはない、ということである。「虐待を受けた人物」の人生には「虐待の苦痛」以外描くことがないのかというと、常識的に考えて、そうではない。
 簡単に思いつく例では、虐待を受けた人物に〈それ以上の不幸〉や〈それすら隅においやるほどの大きな目標〉があったっておかしくはない。それらの状況が発生した時に、虐待が小さなものとして表出されることはある。また、「虐待が舞台設定の小道具のように見える作品はあり得る」。
 〈虐待は小道具にするようなテーマではない〉という発言は、虐待が小さなテーマとして扱われるような人生や物語を否定してはいないか。僕はその否定に、また、仮にその否定が当たり前に受け入れられるような状況があるのだとしたら、そこにも不快感を訴えたい。



 さて、もう一件は作者が〈自身を刺すこと〉についてである。
 時評中、田丸氏は作者が〈自身を刺す〉ということが具体的にどんな行為であるかを一切説明していない。
 また〈自身を刺すことから逃れ〉るということについて、「作者が自身を刺していない」のか、「作者が自身を刺していないように田丸氏には読めた」のかについても、判然としなかった。時評中では、次のように書かれている。

〈しかし、自身を刺すこと(あくまでも表現での話だが)から逃れてしまうと、その連作の痛みは表面的なものにとどまり、ナイフが刺さらずに皮膚の上を滑っていくようになってしまう。〉

 〈表現での話〉とは、どの話だろう。表現する作者の話なのか、表現された内容の話なのか、ここからは読み取れない。
  この一文において、田丸氏は作者である僕自身について、「現実の創作レベルで、自身を刺すことから逃れた」と批判しているように僕には読めた。
 そうだと仮定して、また〈自身を刺す〉という行為を「表現に際して生じる痛みを恐れずに引き出し、作品に乗せること」と解釈すれば、田丸氏の批判は的を外れたものであると言える。しかも、どのように外れているのか説明する義務が僕にはない。それは作品と批評を超えた、現実の人間の問題だからだ。
 それでもあえて言うならば、僕は、僕自身を犠牲にする相当な痛みと覚悟をもって「さなぎの議題」を書いた。そのことについて疑念を向けられたところで、邪推の域を出ないし、返答する価値を感じない。

 当然のことだが、時評中で述べられている〈手触りや実感〉は、作者が〈自身を刺す〉ことによって齎されるとは限らない。作者の気分や、修辞の洗練のために推敲された或る作品が、「作者自身を刺す」ことなく、「より深いリアルの手触りを持った」作品に変化することはあり得る。
 推敲によって変化する「作品のリアルさ」の由来について、読者が作品を読んで正確に指摘することなど不可能だ。
 また、田丸氏は「さなぎの議題」の〈肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答〉という一首について、次のように評している。

〈家族からの暴力を、暗示ではなくはっきりと提示している。「肉親の殴打」という、こなれていない表現のために、より「設定」されているという印象を明確にしてしまっている。〉

 ここでは、田丸氏自身が、言葉の使い方、修辞上の未熟によってリアルの手触りを損ねていることを指摘している。換言すれば、修辞のレベルによってリアルの手触りは増減する、ということでもあるだろう。しかし、その後につづく文章は〈自身を刺すことを逃れ〉ることが〈連作の痛みが表面的なことにとどま〉ることの原因であると、作者の実情の話に着地しているのだ。
 前掲の田丸氏の指摘の通り、「作品のリアルさ」や「作り物っぽさ」は修辞の技術によってその質を変えるし、作者の機微によって推敲され変化するだろう。繰り返すが、作品から読み取れる「リアルの手触り」が、作者自身の痛みや覚悟に由来しているとは限らない。また、作者が自身を刺したからといって、より深い「リアルの手触り」を有した作品が必ず生まれるとも限らない。
 一般論として、作者が「自身を刺した」としても、それを支える修辞がなければ読者にリアルの感触を持って読まれることはない、ということならば言えるだろう。そのような説明を欠いたまま〈さなぎの議題の作者は痛みをもって書くことから逃げた〉るという、曖昧ながら否定的なニュアンスを匂わせるのに十分な言葉を使い、作者の「作り方」や「在り方」のレベルに踏み込んで、「さなぎの議題の作者は痛みをもって書くことから逃げた」と読めるように言及したのは、田丸氏の勇み足であったと僕は考えるが、どうだろう。

短歌評 うらじ、みる。と、はねから、はねとね。 カニエ・ナハ

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 20年以上前に公開されて数年前にやっと日本で公開されたモーリス・ピアラの映画『ヴァン・ゴッホ』はまだ見ていなくて、私の中で動いてるゴッホのイメージはロバート・アルトマン監督のティム・ロス演じるゴッホのなのだけど、中家菜津子さんの『うずく、まる』(書肆侃侃房)、「新鋭短歌」というシリーズから出ていて、短歌が載っているのはもちろんだけど、短歌と現代詩が融合された作品も載っている、まずなんといっても表紙のゴッホが印象的で、ひらくと見返しは案の定(ゴッホのテーマカラーともいえる)黄色。これでこちらのアタマが完全にゴッホモードになったところでページをめくると、そこへ意表をつく「なぼこふ」の文字。「ごっほ」や「ふぃんせんと」ではなく。なぜ、なぼ、こふ?と思って読みはじめると、2首目に「耳朶」と出てきてどきり、とする。


  耳朶をひっぱりながらささやいたふたりのかなた冬の朝やけ  中家菜津子


 こちらのアタマは完全にゴッホモードになっているので、この「ふたり」がゴッホとゴーギャンに思えてしまうのだけど(ゴッホとゴーギャンが一緒に暮らした短い蜜月(あまりにも過酷な!)も秋から冬にかけてで、破局(かなた)を迎えたのは、まさに冬)、まあまさかそんなこともないだろうと思って読みすすめると、つづいて、


  あかあかと力をこめるわたしからいびつな耳をなくせ、ジンジャー


とあり、「耳をなくせ」(!)……やはりゴッホなんだろうか?こうなってくると、つづく歌たちの「一本のひかりの道に手をのばす」とか「小さな鳥へひかりを配る」とかの記述も、ゴッホのことをいっているように見えてくる。日本ではゴッホはよく宮澤賢治に似ているといわれ、たしかに共通点が多いと思うけれど(亡くなった年齢もおなじ)、賢治の絶筆が短歌だったことを思いだして、ゴッホが日本人だったら短歌を書いてたかも……、なんて想像までふくらむ。
 しかし私はあまりにもゴッホにとらわれすぎてるかもしれない。
 いったんゴッホはアタマから追い払って、きぶんを変えて、あらたなきもちでページをめくると、


  歯車のひとつのようなケチャップの白いキャップが床をころがる


とあり、これはなにやらピタゴラスイッチ、あるいは(その元ネタと思われる)フィッシュリ&ヴァイスを思い出させるような映像作品で、ころがっていく「ケチャップの白いキャップ」(この音自体ころがっていて楽しい!)を目で追っていくと、


  ひとときは紅茶を淹れる読みかけの本はかもめのかたちに伏せて


と場面転換するのだけど、ケチャップの赤が紅茶の赤に、キャップの白がかもめの白にメタモルフォーゼしたのかもしれない。つづく、


  冬の月ねこはまなこを細くしてオリーブオイルのまどろみのなか


 では、前の歌で「かもめのかたちに伏せて」いた本のかたちが、ねむる猫の細いまなこのかたちにトレースされて……、と、ピタゴラスイッチあるいはフィッシュリ&ヴァイス的に、ゆるやかな連鎖の運動で、歌と歌とがつながっていくようにも見える。あるいはわたしの考えすぎかもしれないけれど。でも自由詩を同時に書いている著者だから、一首が一つの詩行で(も)あるという意識(あるいは無意識)が、強めにはたらいているのかもしれない。しばらく読み進めると、まんをじして、という感じであらわれる「散緒」、表題作「うずく、まる」、「ピストル」といった詩型融合の作品群はこの作品集のハイライトと私は思うのだけど、ゴッホの絵画が、当時の「なになに派」からハミだす画風であったように、あるいは今見ても、あの超厚塗りの絵なんか平面と呼ぶにはおさまらない、三次元へと越境していく存在感をたたえているように、中家さんの作品の最大の魅力は、渦巻くような、表現することへの欲望を解放(あるいは爆発)させた、カンヴァス(既成の詩型)に収まりきらない、これら融合作品にあると私は思います。詩型が、さまざまな表記やリズムが、一つの作品のなかで混ざり合って渦をまいているポエジー。一方、その欲望をぐっとおさえた(ように見える)短歌作品には、それゆえの抑制された美しさを感じます。いずれにせよ、ゴッホの絵がシリアスなばかりでなく、よく見ていくと意外にもチャーミングだったり遊び心があったりするように、中家さんもその作品で、チャーミングにかつ真剣にかつ大胆に、遊んでいらっしゃる。短歌が好きな方にも現代詩が好きな方にもゴッホが好きな方にもピタゴラスイッチあるいはフィッシュリ&ヴァイスが好きな方にもおすすめしたい一冊。


    *


 ワタクシゴトで恐縮なのだけど、先日あたらしい詩集を出しまして、私はずっと私家版でやっているので(おもに金銭的な事情で……)、置いてくださる本屋さんを自分で探して、ありがたいことに、東京では吉祥寺の百年さん、三鷹の水中書店さん、下北沢のB&Bさんに、また大阪では葉ね文庫さんに置いていただけることになったのですが、詩歌ファンの皆さんはご存知のとおり、街のそのへんのふつうの本屋さんには詩歌集のコーナーなどほとんどなくてわれわれは苦汁をなめさせられているわけですが、そんななかで、いまあげた本屋さんたちは詩歌集にかなりのスペースをさいてくださっていて、詩歌ファンにとって、ましてや書き手にとって、これほど喜ばしいことってないです(よね)。東京の百年さん、水中書店さん、B&Bさんにはうかがっているのですが、大阪の葉ね文庫さんにはまだうかがっていなくて、いずれご挨拶にうかがわなくてはと思っていたところ、先日早稲田で開催されたブック・フェスに出店されるとのことで、私はシメタ、とばかり、いそいそと出かけていったのでありました。(おなじブック・フェスに前述の水中書店さんも出店されていて(私が行ったときちょうど店主さん不在で、その日はお会いできなかったのですが……)、ほかにも全国からハイセンスなインディース書店さんが集う、ちいさい会場ながらコダワリの本たちと素敵な書店主さんらがひしめくたいへん贅沢な空間でした。)

 そこで葉ね文庫店主の池上さんと詩歌のお話をあれこれさせていただいて、とても楽しいひとときを過ごさせていただいたなかで、もちろん短歌のことにも話はおよび、おすすめの歌集などいろいろ紹介していただいたのですが、その中で、表紙デザインも誌名もとりわけ気になって(気に入って)購入させていただいた一冊『羽根と根』(通巻3号)から、何首かここでご紹介したく思います。この本はどこで買ったとか、誰にすすめてもらった、といった記憶は、その本の、自分だけの来歴として、表紙よりも前にあるみえない頁にしるされて、その本を自分だけの特別なものにしてくれるんですよね。葉ね文庫さんからの羽根と根、という、その音とイメージの響きあいも楽しく。『羽根と根』は装幀もなかなかにこだわっていらっしゃって、一頁に一首ずつ、作者名は書かれていなくて、ぜんぶで7つある連作ごとに異なった7名の作者によって構成されていたことがさいごに明かされるしくみになっていて、誰が書いたかよりもまず、作品を見せようとする潔さ。好ましく思います。なので、ほんとうはここでもお名前無しで紹介したほうがよいのかもしれないのですが、それも申し訳ないので、カギカッコつきにして、お名前、しるさせてください。


  ねむたいと言ってわたしは目を閉じるわたしが泉そのものになる  (坂井ユリ)

 ベルイマンの映画「処女の泉」のことなんかもちらりと思い出しながら(『羽根と根』に参加されているみなさん、巻末のプロフィール見ると、90年代生まれの若い方ばかりで、90年代生まれの方って、ベルイマンなんか見るんでしょうか?80年代生まれの私でもベルイマン好きなひとなんてまわりにそんなにいないけれど)、この歌から死生観のようなものを私は感じるのだけど、ねむることは死の予行演習ともいいうるのかも、そして私は眠りに入るときいつも、なんとなく、水をたゆたっていることをイメージするのだけど(そういうひと、多いですよね?)、感覚的に、生まれる前に遡行しようとしてるのかも。


  人身事故で電車が動かなくなって外にある桜を撮っている  (阿波野巧也)


 先日、インディースロックバンド「森は生きている」の突然の解散のニュースが流れてきて、私は近年もっとも好きで愛聴してきたバンドの一つだったのでガッカリしてしまっているのだけど、おなじく近年大好きで、おなじく「モリ」をバンド名にもった「andymori」もおなじように先年あっというまに解散してしまったのだけど、彼らの「オレンジトレイン」という歌のサビは「人身事故で君に会えない」と歌われて、その歌を思い出したのだけど(この歌が入ってるアルバムには3回も「人身事故」という言葉が歌われる)、阿波野さんのこの歌も「人身事故」を契機として、生死が交差した(その境界があやうく感じられるような)ひとときをとらえていて、人身事故で止まった車窓から見る桜のまがまがしいうつくしさ。


  忘れそうになって線路をたどるときどこからか川の音がきこえる  (佐々木朔)


 そういわれてみると線路と川って、似てますよね。どちらもあわいを流れていく。(人身事故など、どうか起こりませんように……)


  ほらこれが陽ざしだよって言いながら光るほこりをぼうっと見てた  (上本彩加)


 これ読んで、美術家・内藤礼さんのインスタレーション作品を思い出しました(むかし鎌倉で見たやつ。なにもない中庭に、一本のほそい紐がぶらさがっていて、風にたゆたっている、ただそれだけの)。先日、内藤礼さんのドキュメンタリー映画を見たばかりというのもあるのだけど。「ドキュメンタリー」って言い切ってよいのかわからない、へんな映画でした。おもしろかったけど。彼女の作品のなかにいると、光とか風とかほこりの存在をおおきく感じられる。反対に、私の存在などほこりほどにも取るに足らぬものだということも。良い意味で。なんだかこの歌も生と死のあわいにいるように見えるんだけど、想起させられたべつの作品の記憶とか、ここまで読んできた歌にひっぱられてもいるのかも。いずれにせよ、わたしたちはいつだって生死のあわいにいるのだ、とも云いえますよね。


  はずれだね、って白いドロップくれながら笑った 花の名の商店街  (服部恵典)


 服部さんの連作は「十種の愛、九本のY染色体、八人の女、七色のドロップス、六組の異性愛、五つの声、四つの季節、三輪の花、二頭の獣、一つの大災害」と、これ自体が現代詩の詩行のような、なんだかすごいタイトルがつけられていて、どんな歌がくるかと身構えていたのですが、十首の連作を通してちゃんと(予告どおり)花が三輪でてきたり(「日輪草」「水仙」「花の名の商店街」)、獣が二頭出てきたり(「犬」「熊」)と、とても緻密につくられている印象。この「はずれだね」の歌も、白いドロップも、商店街のひとがくれた笑顔も、商店街につけられた花の名も、一種の愛なのですね。そんなささやかな種類の愛に支えられてたしかに生かされている気がします。そして、しかし、さいごに待っている「一つの大災害」。この連作の意表をつくオチをどう読むか。


  光は矢 しかれども眼に容れてのちは眼のくらやみの鳴りやまぬ弦  (七戸雅人)


 「Phobia Phobia Phobia」と題された七戸さんの連作には「Phobiaとふ語を聴きゐたり雨足が風に乱れて立つごとき音(ね)の」という歌もあり、音が光に、光が音になって、どこまでもまとわりついて刺してくるような恐怖がある。(この稿の前半の話にもどるけれど、)晩年のゴッホもこんな光の音を聴いていたんじゃないかな。生きてあることの根源的な恐怖にふれている気がする。


  暗くても歩けるけれど 口にすればどんな願いも光だけれど  (佐伯紺)


 二度くりかえされる「けれど」が、私たちに寄り添ってくれる気がして、逆説的に救われる気がします。つづいて、「生きるとか死ぬとかもういいよ気付いたらお湯が沸いてるから火を止める」、「雨は檻、檻には獣、獣にはなれなかったから淹れるお茶」と歌われてこの本が終わって、ああそうだ、お茶のみたいな

短歌評 穂村弘とは社会問題である~穂村弘3.0 橘 上

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 何で短歌について書くのは気が引けるのに穂村弘について書くことにはそうならないのだろう。
 その答えについて書く前につぎのことを書いておきたい。

・彼氏・彼女いない歴〜年
・元サヤ
・ツーショット
・全然〜(肯定での意味。「全然大丈夫」など)
・〜男子・女子
・(芸が)スベる
・(芸、空気が)寒い、サブイ
・逆ギレ
・ブルー(な気持ち)
・ドS・ドM
・ドヤ顔
・アガる
(参照:参考/とんねるずとダウンタウンが作った言葉やべぇwwwwwwww

 これらはとんねるずあるいはダウンタウンが作った/広めた言葉であるらしい。我々はそうとは知らずにこの言葉を使っている。中には彼らの番組を見たことがないのにこの言葉を使っているものもいるだろう。そう、彼らはジャンルを超えた社会化された存在なのである。芸人松本人志を評価するのに彼のコントを見なければ話にならない。しかし、彼らのコントを見なくても彼らのつくった言葉やキャラクターに言及することは可能なのだ。
 どなり散らす唇の分厚い短髪の男性、気難しげに眉間にしわを寄せるひげ面の坊主頭の男性・・・これらは浜田雅功と松本人志のお馴染みといっていいほどの典型的なアイコンだが、今問題にしたいのは次のアイコンである。
 長めの前髪を横分けにしたヘアスタイルに黒ぶち眼鏡、繊細さと幾ばくかの頑固さを宿した瞳にやや冷笑的な微笑みをたたえる男性・・・そう、これは穂村弘のアイコンである。と同時に短歌男子あるいは文化系男子のアイコンであるといっても過言ではない。穂村弘の存在を知らなくてもこのアイコンとしての穂村弘は広く認知されている。
 例えば穂村弘を知らない人に、文化系男子の特徴をあげてもらい、その特徴をもとにデッサンをしたらほぼ穂村弘の顔が出来上がるだろう。穂村弘のアイコンは日本人の無意識化に広がる原風景になりつつあるのかもしれない。そう遠くない未来、「穂村弘」と書いて「ノスタルジア」とルビを振る日がやってきても不思議ではない。
 つまり、穂村弘の短歌について何かを言うことは短歌の範疇の話だが、アイコンとしての穂村弘について何かを言うことは、社会そのもの日本そのもの領域になりつつあるのだ。だから私はいけしゃあしゃあとこんな文を書いても平気な顔していられるのだ。
 文化系男子などという定義があまりに曖昧な言葉があれだけ広まったのは意味の不明確さに反して強烈なアイコンのイメージがあったからだと思う。
 「実像なんて存在しない。あるのは無限に増殖するアイコンのみ(・・)である」という誰かの(俺の?)言葉が頭をかすめる。

 で、ここまで書いて、以下の二つの穂村弘評を引用しよう。

 穂村弘
 86年、初応募の連作「シンジケート」で角川短歌賞次席。その後もファンシーでロマンティックな短歌で若い婦女子を魅了し続ける大人気歌人。また人生の経験値の低さ、生活への恐怖など「世界音痴」を武器にしたエッセイも飛ぶように売れているが実際はかなり器用に仕事をこなすしモテモテだしあまつさえ幸せな結婚をしたのでひんしゅくを買っている。
(小野ほりでい 「ナルシストは今すぐ短歌をはじめよう!」2012年1月11日より http://omocoro.jp/kiji/8782/)

 穂村さんのことを好きな人たちは、穂村さんってかわいいとか、だめな人だとか、恋の甘さをわかっているとか、そういう理由だけで好きなわけじゃなくて、言葉に対する真摯な態度に参っているんだと思うんです。でも、好きな気持ちを伝えたいときに、なかなかいい言葉で表現できないものですから、つい「かわいくて好き」と単純なことを言ってしまう。私もあまりうまくは言えないんですけど、本当はもっと細やかな言いたいことがいっぱいあるんです。個人ブログで「穂村さんかわいい」としか書評してない読者でも、本当はちゃんと穂村さんの言語感覚の素晴らしさを味わい尽くしている人かもしれない。そこは、わかってほしい。
(「言葉の渦巻きが生む芸術(アート)」山崎ナオコーラ・穂村弘の対談より山崎の発言「どうして書くの? 穂村弘対談集・2009年・筑摩書房」所収)

 この二つの穂村評を取り上げたのは、短歌界の外部でよく耳にする穂村評を象徴しているからである。(小野ほりでぃは右に引用した文の最後に「ここまでに書いた短歌の知識は全部ウソなんですけど、」と断りを入れてはいるものの、ここには穂村弘に寄せられる批判(というか揶揄)の一端が垣間見れよう。)
 前者は否定的、後者は肯定的に書いてはいるが穂村に対してのイメージは共通している。
 短歌の実力者でかわいらしくファンシーな短歌を書いているが言葉に対して深く洞察力があるというイメージだ。

 つまり短歌外部での穂村評は肯定であれ否定であれほとんど同じ次元で言葉を発しているのである。
 2015年の現在この二つの穂村評を読んで面白いと思う部分はあっても特に新鮮には感じない。もうこの二つの穂村評はフツーなのだ。いやこの二つを前提として、新たな穂村評を作り上げることが必要なのだ。


 ではそれの前段階として、短歌外の自分にとって穂村弘とはどのような存在だったのかもう一度考えてみよう。

 マイリトルラバーだと? よく人前でそんな事がいえるな。

 この言葉は90年代に一世を風靡したバンド、マイリトルラバーに向けてコラムニストのナンシー関が放った言葉である。一字一句あってるかは微妙だが、確かこのようなことを言っていたと思う。この当時はこんなことを言う人はナンシー関ぐらいだったが、インターネットが発達し誰でも発信できる「一億総ツッコミ社会」が到来すると、誰しもがこの手の批評を行うようになる。(その多くの質はナンシーには及ばないが)
 とは言え人間なんざアホである。いくらナンシー関的なツッコミを社会が強要しても、人は誰かを好きになったり恋に思い悩んだりすることはやめられない。誰しも心にマイリトルラバーを抱えているのだ。(マイリトルラバーやナンシー関を知らない若い人もしくは老いた人は「マイリトルラバー」の部分に「SEKAI NO OWARI」か「オフ・コース」を、「ナンシー関」の部分に「地獄のミサワ」か「山藤章二」を代入してください。地獄のミサワと山藤章二は全然似てないけど、論旨はそこじゃないので)
 だが穂村弘登場以前は「ラヴソングを書く人」と「ナンシー関的なツッコミを入れる人」は交わらない全く別の人だったように思う。「ラヴソングを書く人」はツッコミをいれないし、「ツッコミを入れる人」はラヴソングを書かなかった。少なくとも私の認識では。
 では心の中のマイリトルラバーと社会が要求するナンシー関との齟齬を人々はどうやって埋めたのだろう?
それに対しての対処法としてはA.心のマイリトルラバーをなかったことにする。恋愛の話をそもそもしないとか、徹底してマイラバーを避ける。B.普段は全く恋愛について話さないが、恋愛の話になると急に口ごもり恥ずかしげに話すという2パターンが考えられる。B.に関しては一部の芸人がよくやっていた。シャープなツッコミで一定の評価を得ている芸人が恋愛のはなしになると口ごもり、途端に口下手になる。その普段のシャープなツッコミとのギャップが笑いにつながる。というもので芸自体が「ラヴソングの恥ずかしさ」を克服したわけではない。芸がある人が芸をやれない瞬間にフォーカスをあてたものだ。無論当人に芸があることは前提なのだが。
 それに対して穂村がやったことは私なりにいえばこういうことなる。
 ナンシー関の突っ込みにも耐えうるラヴソングを書く、ということだ。
 ツッコミの視点を持ちつつ、それでもファンシーでロマンティックな短歌をつくること。
 それが短歌の外にも、今の時代を生きるための全うな営みとして受け入れられたのではないか。
 穂村の表現には、当たり前に二元論に陥らずそこで格闘しようというものがあったのだ。
 では穂村の格闘の成果をいくつか見てみよう。

体温計くわえて窓に額付け「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
「とりかえしのつかないことがしたいね」と毛糸を玉に巻きつつ笑う
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
「人類の恋愛史上かつてないほどダーティーな反則じゃない?」
爪だけの指輪のような七月をねむる天使は挽き肉になれ
(引用歌はすべて穂村弘「ラインマーカーズ」/小学館)
 これらの短歌を読んで考えたのが以下の事である。
・臭いセリフになりそうなところは「」をつけて「別の誰か」が言ったことにする。
・短歌という短い形式を象徴的なワンシーンを提出する「切れ」のメディアとして利用する。故に「うたい」過ぎず、また俳句より文字数が書けるので日常のフラットなワンシーンを描くのに適した文体と言える
・「天使」といったベタなワードは「挽き肉」という生活感と残虐性を伴う単語でバランスを取る
・上記三つの要素は2015年現在ではスタンダードな手法になっている。
・「人類の恋愛史上かつてないほどダーティーな反則じゃない?」は さすがにちょっと気取り過ぎである。「」のレトリックを使ってもなお嫌味ったらしさが残る気がする。が、穂村短歌の随所にみられるのはこう言った攻めの姿勢である。スベらないよう最大の配慮をしつつもどっか「スベってもいいんだ」ぐらいの気持ちがある気がする。ラヴソングに弄ばれるのを楽しんでいるような。気取った言い方をするならば、ラヴソングに恋をするようにラヴソングを書いている。フラットな文体の象徴のように語られる穂村だが、どこかでこんなダイナミックさを出すから侮れない。


 1980年代・当時大学生だった穂村弘は塚本邦雄の短歌を「なんて面白い言葉のパズル」として受容していたそうだが、穂村は「なんて面白い言葉のパズル」としての短歌のエッセンスをラヴソングの臭みを取るものとして上手く機能させている。後に穂村は塚本短歌の「『日本脱出したし』『さらば青春』『かつてかく』に込められた切実感を完全に見落としていた」と気付くことになるのだが、むしろ塚本短歌を「なんて面白い言葉のパズル」と「誤読」したことから穂村の短歌ははじまったのではないだろうか。塚本の前衛短歌的なものと目の前のフラットな現実の板挟みになりながら、歌をつくったことで穂村の文体は生まれたのかもしれない。
 元も子もないことを言ってしまえば、世にあまたあるラヴソングのほとんどは、「なんて面白い言葉のパズル」としての塚本短歌の影響を受けていない。というか塚本邦雄を知らない。故にラヴソング然とした言葉でラヴソングをつくってしまい単調な表現に陥ってしまっているのだ。
 塚本邦雄の「言葉のモノ化をベースとする高度なレトリックによって「戦争」を撃」つことにせよ、穂村弘の「なんて面白い言葉のパズル」としての塚本短歌レトリックで80年代以降を描いて見せることにせよ、時代とのズレや相反するものとの緊張感、二律背反が強烈なものを産むのではないのだろうか?  
 今は穂村弘がアイコン化されるほど穂村弘な時代だ。穂村弘な時代に穂村弘な文体で書くことにどれほどの意味があるのだろう? それは穂村弘がしばらく歌集を出していないこととどれだけ関係があるのだろう?。

 であれば穂村弘以降の歌人たちがすべきことは、穂村文体の踏襲をすることでなく、穂村弘を誤読し、全く違う文体をデッチ上げることではないのだろうか? 穂村が塚本の誤読から今の文体をつくったように。いや、誰も塚本短歌の誤読から穂村短歌が生まれたなんて書いていないのである。これは俺の妄想だ。でも多分そうだと思う。そもそもこの文自体がデッチ上げだ。騙されろよ。

 松本人志を「天才」或いは「天才の衰退」の一言で片づけてしまい、せっかくの彼の実験性をうまく受容できなくなりつつある日本人はもう同じ轍は踏めない。穂村弘という国有財産を「ほむらさんかわいい」「ほむほむいじり」の二元論で片づけるべきではない。
「穂村さんかわいいけど、それだけじゃない、批評も鋭くて、言語感覚も優れてるってことは、私わかってるんですよ」
「穂村弘、短歌うまいけど妙に鼻につくんだよな。キャラ設定とか」
「穂村弘以降、短歌が恥ずかしいものでなくなりつつあり短歌をやる若い人が増えた」
「穂村弘以降、短歌が平板なものになった」
 上のようなよく見かける穂村論をゴールとせずあくまで起点とすること。全肯定と全否定に終始するのではない、それらを前提にした新たな穂村弘観―穂村弘3.0―を構築すること。デッチ上げでもいい。とにかく手あかのついた穂村評から抜け出し、穂村弘な時代に穂村弘でない文体を作り上げること。
 穂村弘の次の一手であるあらたな歌集の出版が待ち望まれているが、それ以前に我々の次の一手である穂村弘観のアップデートこそが求められているのだ。試されているのは穂村ではない、我々だ。
  
 最後に穂村弘が斎藤茂吉を「未来の危険やすばらしさを予知」できなかったが、「この世にたった一度の生を生きることを全身で肯定した」歌人と捉えた上でこれからの短歌について語っている部分を引用して終わろうと思う。穂村弘3.0をインストールすればきっと穂村の言うことがわかるだろう。もし穂村の言うことが、わからなければ誤読したまま新たな文体をデッチ上げてください。

 だから、僕たちがもし次のステップを考えるんであれば、すごく不自然なことなんだけど、死の問題を、何ていえばいいのかわからないのですけど、ただ一度の生を限りなく燃えて生きるという以上のアイデアが必要なんじゃないか、もっといいアイディアがあるぞということを見つけた人間が、時代を切り拓く。
(「明治から遠く離れて」 高橋源一郎・穂村弘の対談より穂村の発言「どうして書くの? 穂村弘対談集・2009年・筑摩書房」所収)

 念のために言っておくが、この文章は穂村弘の実像に迫るとかそういった類のものではない。穂村弘の実像なんてしったこっちゃないし、本名だってしらない。個人的な意見で言えば、わたしは穂村弘を柔道五段の荒くれ者だと思っているので、この文章をもし穂村が読んで誤解されたら、怒り狂った穂村弘に一本背負いを決められるんじゃないかととてもビクビクしている。でもきっとそれは誤解ですう。私もあまりうまくは言えないんですけど、本当はもっと細やかな言いたいことがいっぱいあるんです。

 しかし、妙に素直に言葉を発してしまったな。なんか伝えようとし過ぎて妙にストレートな言葉遣いをしてしまった気がする。そういや言葉を発することについての穂村弘の言葉があった気がするな。


 山崎さんのエッセイは、「一見直球で言葉を投げかけているんだけど、直球のままでは言いたいことのすべてが伝わらないことを知っていて、だから近寄ってみると細かい変化がいっぱいついている」という感じがします。
(「言葉の渦巻きが生む芸術(アート)」山崎ナオコーラ・穂村弘の対談より穂村の発言「どうして書くの? 穂村弘対談集・2009年・筑摩書房」所収)


 じゃああまりに素直なこの文章、きっとだれにも伝わらないね。

短歌時評 第118回 遠野真「さなぎの議題」についての補足 田丸 まひる

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 遠野真「さなぎの議題」について書いた前回の時評に、遠野さん本人から指摘をいただいたので、いくつか補足をさせていただく。

 まず、〈虐待は舞台設定の小道具にするようなテーマではない。〉についてであるが、わたしの論旨は〈小道具〉になっていることの問題であり、テーマ選択の問題ではない。ただ、〈小道具〉という言葉の定義をせず曖昧なままで用いたことは文意の読み取りにくさを生んでしまい、申し訳なかったと思う。あくまで、作り物めいた思わせぶりな「虐待」のちらつかせ方は、作者の手つきがあまりに透けて見えるのではないか、舞台上の「設定」の域を超えて連作としての成功に寄与していないのではないかということである。(もちろん、〈小道具〉が実際の舞台において小さな役割しか果たしていない、という意味ではない。)
 「〈虐待は小道具にするようなテーマではない〉という発言は、虐待が小さなテーマとして扱われるような人生や物語を否定してはいないか。」と遠野は言う。たしかに、「虐待を受けた人物がその虐待を小さく扱ってはならないというルールはない」(遠野)だろう。しかし、今回の「さなぎの議題」について、虐待を物語の一部にしたことが成功していると言えるだろうか。これもあくまで歌そのものに起因するものだと思う。「ガンジーが行進をする映像で笑いが起こる教室 微風」の歌において、教室への違和感が詩的に昇華されているのに比べて、意味深なアイテムを並べているだけに見えかねない虐待の歌の完成度はどうか。ただ、それゆえに「リアル」を損なっているのではないかと思うことも、そもそも「リアル」など求めてしまうことも、読者の勝手な期待に過ぎないのかもしれない。
 今回の選考座談会では、「わたしだけ長袖を着る教室で自殺防止にテーマが決まる」の歌から「もしかするとリストカットの痕を隠しているのかもしれなかったり」(穂村)、「肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答」の歌から「家庭内暴力とかあるわけですね」(栗木)というような状況の想像にとどまっており、それらの歌そのものにどんな魅力を感じたのかについては言及されておらず、もどかしさを覚えた。少なくとも、遠野はこれらの歌を選考の場にまで持って行くことができているのだから、もっとこれらの歌に切り込んでいってもらえていれば、より面白かったのかもしれない。「子供から大人になろうとする時期の感覚」(穂村)、「子供と大人の境界にあって、心と体がアンバランスで、しかも抑圧のある時期」(加藤)を詩的に昇華している点が評価されているのは理解しうるが、どのようなひとでも通り過ぎていくと言えるような思春期の歌ではないはずだ。さらなる言及を楽しみに期待している。
 〈自身を刺す〉についても、あくまで歌としての完成度につながる話である。作者自身への言及ではなく、まだ歌そのものに彫り込んでいく余地があったのではないかと思って述べた。(ただ、歌を彫り込んでいくという行為が作者自身にまったく跳ね返ってこないとは言えないと思うが。)遠野にしかできない表現が、もっと他になかっただろうかという期待がある。また、もっと生な感情(作者自身の現実の感情ではない。あくまで、作品上のである。)を見せてほしいという勝手な期待があったことは否定できないが、しかしこの発言については、曖昧な比喩を用いたがために混乱を呼んだと思われる。これについては〈小道具〉の曖昧さと合わせて陳謝したい。
 ただ、ここまで書いて、筆者自身が引っかかりを覚えたところを再検討してみると、やはり「虐待」が詠み込まれていることそのものに反応したことも否定はできない。読者として、感情を刺激されないような内容ではないからだ。黒瀬珂瀾が『〈殺し〉の短歌史』(現代短歌研究会・編/ 水声社)において「〈殺し〉の短歌化の不可能性」、「なぜ歌人が〈殺し〉を歌わねばならないのかという問い」について論述しているが、「虐待」についてはどうか。黒瀬の論には、「定型という規範を生きる歌人には、〈殺し〉という強烈な規範逸脱は受け止めきれないのではないか。だが逆説的にいえば、〈殺し〉ではなく殺人事件自体を見つめることで、〈殺し〉を疎外化する社会そのものの姿を歌うことの可能性がある。強烈な規範逸脱性が社会にどう影響を与えるかを見届けること。それは、「事件」を歌うことを通して、今を生きる者としての歌人が、まなざしの痕跡を残すことである。」とある。この〈殺し〉がそのまま今回の遠野作品における「虐待」に適用しうるわけではないが、おそらく虐待を受けながら思春期を生き抜いている、おそらくは少女の物語(事件)としてこの作品と対峙することが、遠野の歌人としての「まなざしの痕跡」を見つけることが、作品の本質と向き合うための鍵になりえるのだろうと思われた。論考の余地がつきない問題ではあるが、ひとまずここで筆をおくこととする。

 遠野の受賞後第一作「陸から海へ」(「短歌研究」2015年10月号)より。

ありがとうって☆のかたちの音がする 星を鳴らしたのは死者のゆび

 ありがとうという言葉そのものからかたち、音への飛躍が面白い一首。遠野が今後、どのような物語を紡いでいくのか、一読者として楽しみにしている。

短歌評 たんかの 依光 陽子 

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 ようやく五七五七七での眼の息継ぎがうまく出来るようになってきたので、なればとびきり活きのいい短歌に触れたいと狙っていた文学フリマも、明け方の雨にあっさり断念。しかし結局のところ何が「新」かなどわかるはずもなく、要するに自分にとって目新しければ、いいものを読ませていただいた、と有難く頭を下げることにして短歌評の任務を終えたい。

気づかないうちにせかいはくれてゆく歯医者の目立つ駅前通り  杜崎アオ
帰れると思ってしまうしんしんと折りかさなってさびる自転車 

 単色で気づかぬまま移ろう世界が好きだ。普段気にとめることのない歯科医院の閑けさ。この歯医者が映画冒頭の何気ないワンカットのように何か不気味な暗示と思えるのは「せかい」という平仮名ゆえだろう。流れの中の杭のように、周りだけが動いていて自分は立ち竦んでいるような、この無機質な感覚が好きだ。たとえ帰る場所などなくて錆びていく自転車だとしても。

雨音ももう届かない川底にいまも開いてゐる傘がある  飯田彩乃
ずがいこつおもたいひるに内耳に窓にゆきふるさらさらと鳴る  野口あや子
水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水  服部真里子

 飯田の歌は、本来ならば音を立てるはずの傘が、開いても音を得られぬ川底の無音世界を見せる道化。野口の歌は、ずがいこつが重たいと感じる昼、可笑しな形の内耳がふと意識される。「内耳に」「窓に」雪が「ふる」「さらさらと鳴る」のだ。まず「内耳」に雪は降り、次に「窓に」さらさらと鳴り、そして「内耳」が「さらさら」という音を摑む。雪のつめたさは、アンドロイドの膚のつめたさだ。服部の歌は拡声器に似た水仙の形状と、耳をそばだてなければ声をキャッチできない盗聴という行為の並列。水仙の声なき声を私は聴き取れるだろうか。水仙の傾きに己を合わせれば水仙に似て、体内をわずかに水が巡る。

ついに来ぬひとを待ちつつ待つ場所を少しずつ右にずらせてゆく  光栄堯夫

 結局来ない(とわかっている)人を待ち続ける自分に待つことは無駄だともう一人の自分が呟き、他人の眼に映るであろう“待たされている自分”を愚かしいと感じたペルソナが「待つ場所」から身体を少しづつ右にずらしてゆく。右へ右への移動はすなわち時計の針を意識下で動かすことだ。

少年はきりぎりすにて十三になるなりやがて跳ぶなり天地  川野里子

 少年はきりぎりすであるという作者の作り上げた寓意への入り口に立つ。その少年が「十三に」なり「やがて跳ぶ」のかと普通に意味を追っていくと、最後の「天地」という言葉で着地した私の前に急に視界が開ける。俳句で言えば「なり」の切字が二つ入っていることで構造上は「やがて跳ぶなり」の後にも切れが生じて一旦意味が切れる。二つの「なり」でホップ・ステップしてジャンプした先に、ここまでつらつらと引き連れられてきた言葉たちは「天地」という圧倒的なスケールを持つ言葉の前で拡散してしまう。<野遊びの児等の一人が飛翔せり 永田耕衣>に通じる突き抜けた飛躍感。

ひともとの短歌を海に投げこんでこれが最後のばら園のばら  佐藤弓生
雲が……。ねえ縁側に来ておすわりよ、落ちてゆくのはいつでもできる 
耳ひらく花々はありことばなくしずかに湿る塀に沿いつつ 
ぼくたちはカラスみたいに好きだった 無人の塹壕に光るもの  

 私が短歌に求めるのは、俳句とは違う、短歌でしか在りえない「ひともと」の言葉の棒だ。そしてそれは、春夏花を絶やす事ないばら園のひともとの「ばら」であろう。栽培の難しい薔薇を咲かせるための日々の管理と、新種の薔薇を咲かせるための飽くなき試み。佐藤はその二つを持ち合わせた短歌作者と思った。短歌という長さを最大限に使ったコトバがどのような着地を見せてくれるのか、固唾をのんで言葉を追うこともまた読みの楽しみだとこの人の歌は思わせてくれた。

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 さて、ずいぶんたくさんの短歌に触れることで、短歌に対する苦手意識はかなり払拭されたようだ。もう鉄棒に人が並んでぶら下がってるいるようには見えなくなったし、心揺さぶられる短歌にもたくさん出会えた。そして短歌側から俳句を見直すことができるようになったことが何よりの収穫だと思っている。単に言葉の長さの問題ではなく、そこに盛る意味でもなく、短歌でなければならない作品、俳句でなければならない作品があるということに気付けたことだ。

 そしてそれを早々と見切っていた人に寺山修司がいる。

 2015年は寺山生誕80周年で様々なところで寺山に再び光が当てられたわけだが、短歌におけるそれは相も変わらず模倣、剽窃の側面であった。同じジャンルに属する者とそうでない者、あるいは実作者と読者とは心情も見解も違うと思う。実作者としては模倣されればいい気持はしないし、同じ素材、同じ切り取り方で先に完成度を上げて発表されてしまうこともあるだろう。読み手としては類似作品があれば二つを天秤にかけて重い方をよしとするだろうし、前書きで提示されなければ出典を知らぬままという事もある。この問題についてここで書くスペースはない。しかし一つ言えることは、言葉や発想においてまったくのオリジナルが存在する事は疑わしい、ということだ。例えば次の例などどうだろう。

おとうとに髪ひっぱられ姉ちゃんは六十年後のはつなつの顔   佐藤弓生
少年や六十年後の春の如し  永田耕衣

空を出て死にたる鳥かわれもまた夢を狩りつつ空に撃たれむ  山中智恵子
空を出て死にたる鳥や薄氷  永田耕衣

 これらの句は俳人ならば誰もが知っている耕衣の代表句である。佐藤と山中がこれらの句に触発されたかどうかは知らない。しかし私は上のどちらも剽窃でも模倣でもないと思う。パクリでもパロディでも引用でも型を変えた模写でもオマージュでもないだろう。特に下の「空を出て死にたる鳥」のモチーフは、耕衣句が道元の『正法眼蔵』「現状公案」の中の<鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す>から来ているのは明らかだ。耕衣はあらゆるものを吸収し、愛し、リスペクトし、咀嚼し、自らの作品として立たせた。全て耕衣の全存在を通って迸り出た言葉が耕衣の俳句だった。

 寺山に話を戻す。そういった意味で寺山修司の遺した作品は、どのジャンルにおいても寺山修司そのものだったと思う。(寺山の俳句眼の確かさは『火と水の対話――塚本邦雄・寺山修司対談集』の中の第五章「百苦惨々――俳句について」Ⅰ、Ⅱを一読すれば納得いただけると思う)

ある日われ蝙蝠傘を翼としビルより飛ばむわが内脱けて  寺山修司
面売りの面のなかより買い来たる笑いながらに燃やされにけり
剥製の鷹抱きこもる沈黙は飛ばざるものの羽音きくため
王国を閉じたるあとの図書館に鳥落ちてくる羽音ならずや
地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで堕ちゆかんかな
暗室に閉じ込められしままついに現像されることのなき蝶
夜光虫に耳のうしろを照らされて手を一つ拍つ欺きのため
満月に墓石はこぶ男来て肩の肉より消えてゆくなり
とぶ鳥はすべてことばの影となれわれは目つむる萱草に寝て

 新宿ゴールデン街脇の細径を花園神社裏へ抜けて通った地下の貸スタジオにはKORGの古いオルガンがあった。寺山修司には間に合わなかったけれど、私の周りにはいつもアングラな風が吹いていた。寺山の歌を読むとふとその頃の街騒が湧き起こり私の共感力は最も活性化する。これらの歌は寺山の歌でありながら、まるで私の原風景のごとく私を震えさせるのだ。上に挙げた短歌の一首目以外は没後の未発表歌集『月蝕書簡』より引いた。先行する何かがあるか否かは知らない。しかしこれらの歌はひともとの言葉の棒として慄然と立っていて、その世界感に強く打たれる。これが寺山修司だ。

 寺山晩年の『寺山修司&谷川俊太郎ビデオレター』の1983年1月15日の寺山→谷川の中で、寺山は自分探しをする。初めは原稿用紙に書かれた名前。次に写真。声。証明書類。いくつかの定義。そして最後に呟く。「どれが一番正しいのか、決めかねているのが僕自身というわけか」

 1975年、劇場という枠を取り払い、30時間市街劇『ノック』で阿佐ヶ谷一帯の市井を劇場と見立てた同時多発的演劇を行うなど常に実験的であった寺山が、なぜ晩年まで定型としての短歌を捨て去らなかったのか。寺山が手離さなかった短歌の本当の魅力、私はそこにこそ興味がある。


「私」性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである。
『寺山修司短歌論集』より)

よくわかるとは実は自分を失くすることなんじゃないだろうか
(『寺山修司からの手紙』山田太一著より)

短歌時評 第119回 フラワーしげるの短歌はどのように短歌なのか 田丸 まひる

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 フラワーしげるの『ビットとデシベル』(現代歌人シリーズ5/書肆侃侃房)は、2015年に出た魅力ある歌集のうちの一つだろう。緻密な写生、思考の明晰さ、大胆な破調だがリズムよく収まっている言葉の配置などに触れていると、フラワーしげるのもう一つの名義である西崎憲の『世界の果ての庭』『飛行士と東京の雨の森』などの優れた小説を読んでいる時と同じような心地がする。
 しかし、フラワーしげるの短歌は、西崎憲の小説には似ていても、他の歌人の短歌とは似ていない。勢いよくのびていくこの破調は、本当に短歌なのか。(そもそも短歌の定義って何だろう。五七五七七の定型を基本にしていれば短歌なのかという問いもあるが)フラワーしげるの短歌はどのように短歌なのか。いくつかの側面から考えてみたい。

 「短歌研究」2009年9月号では、第五十二回短歌研究新人賞の候補作として、フラワーしげる「ビットとデシベル」が取り上げられている。

 工場長はきびしい言葉で叱責し ぼくらは静かに未来の文字を運んだ
 小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく
 振りかえると紙面のような人たちがとり囲み折れているところ破れているところ

 この時の選考座談会では、穂村弘と加藤治郎が韻律についてそれぞれ言及している点が印象的だった。
 穂村「読んでいると短歌の韻律のある延長線上で読めるので興奮みたいなものを僕は覚えたんですけど、そのやり方として一つは、似たフレーズを繰り返すことで、五七五七七に相当している句の中に収納できるサイズ、量というか、情報量を増やすというのがあると思うんです。」(ただし「それが完璧に機能しているのかというとちょっと自信が持てない」と続いている)
 加藤「大正から昭和にかけての石原純、前田夕暮のころは、自分の生活感情を忠実に表現したいというモチーフで歌ったんですね。でも、この人は、はなから自分の生活感情を表現しようということなど思ってないところが、今までの口語自由律と違うところかと思います。」「非定型の問題、自由律の問題はまだ決着がついていないんだ、短歌でないよとするにはまだ問題を孕んでいる、もう一度考えてみたいと一票を投じたんです」

 前田夕暮の「自然がずんずん體のなかを通過する――山、山、山」「俺はここにゐるここに飢えてゐると、ポケットの中で凍てついた 手がいふ」などの歌の韻律の伸びやかさ、情報量を絞ったことによる風通しの良さに比べて、フラワーしげるの歌には時に過剰とも言えるほどの情報が搭載されているが、韻律においては計算された抑制があるのではないかと今のところ考えている。また、モチーフにおいても、加藤の指摘するように、フラワーの詠っている内容は自身の感情などではなく、まるで小説のようである。この点は、翌年の「短歌研究」 2010年9月号で最終選考通過作品として、「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」が取り上げられた際にも議論に上がっている。

 ずっと片手でしていたことをこれからは両手ですることにした夏のはじまる日
 小さく速いものが落ちてきてボールとなり運動場とそのまわりが夏だった
 ぼくらはシステムの血の子供で誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼き払った
(この歌は歌集収録時には「ぼくらはシステムの血の子供 誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼きはらう」と現在形になり、よりシャープな形に改作されている)

 この年の選考座談会における応酬は、フラワーの短歌と、散文や小説との違いを見出そうとしている部分が興味深い。前年度はフラワーの作品を短歌の韻律の延長線上で読めると述べていた穂村弘が、この年は、フラワーの短歌が定型を意識していることを示しつつも「定型にすると何か消え去るものがあるような気が」すると指摘している。
 穂村「この人の世界と感じさせるものは結局散文性ではないのかと思えてしまいました」「やはりこれは散文で、そこに詩的な資産を投入したのかなと見えてしまう。逆には読めなかったんです。つまりこれは短歌で、そこに散文的資産が投入されているんだというふうには見えなくて、これをぱっといきなり見せられたらすごいポエティックな散文だと思ってしまうのではないかな。」「短い小説のように見えてしまう」
 この指摘に反論しているのが加藤治郎である。
 加藤「散文性ということでいえば小説の中の一行ではけっしてないんですよね。これがもう全体で、これ以外のものは一切、前にも後ろにもない。」「百枚ぐらいの原稿を一行に凝縮した形がこれなので、散文性はあるけれどもやはり散文ではない。」

 穂村の指摘は鋭いが、フラワーしげるの短歌は本当に小説だろうか。とはいえ、加藤の述べる〈百枚ぐらいの原稿を一行に凝縮した形がこれ〉についても検討の余地があると考える。フラワーの短歌の凝縮を融解させると、小説として読むことはできるだろうか。
 例えば超短篇小説なら、飯田茂実の『一文物語集』(e本の本)(『世界は蜜でみたされる―一行物語集』(水声社)の改訂版)があげられる。

 世界のすべての人びとを愛するために、彼女は電話帳を開き、ひとりひとりの名前を精魂こめて覚え始めた。
飯田茂実『一文物語集』

 その生き物は闇をこねて造るしかなく、朝が来るといつも未完成のまま溶け消えてしまう。
(同前)

 家族・知人ばかりでなく新聞配達人さえもふっつりと訪ねてこなくなり、彼女は埃の溜まった廊下に張った薄紫の繭の中で、数箇月前の新聞を何度も読み返している。
(同前)

 飯田作品は一文で物語として完結している。もちろん物語なので最後に結論があるわけではなく、余韻を残したまま閉じているものが多い。他方、フラワーしげるの短歌はどうか。

 あの舗道の敷石の右から八つ目の下を掘りかえすときみが忘れたものが全部入っていて、で、その隣が江戸時代だ
 どうしているのだ、甲羅は白く、複眼は暗く、蹄は割れて、燃やせば切ないものたちよ

 これらの歌に物語としての完結はなく、読者が補って読む余地が飯田の物語に比べて広い。これは凝縮というより、小説だとしてもその抽出ではないだろうか。そして、抽出された小説はもはや小説ではなく、背負える情報量(フラワー作品の情報量は他の歌人の短歌より多いが)や内容からしてもやはり短歌なのではないだろうか。もちろん、読者が補って読む余地のあるものが短歌である、という定義はない。しかし、一首の歌に搭載できる情景や思考は限られており、限られているがゆえに魅力があることもある、というのは言い過ぎだろうか。(この点からは、2009年の選考座談会で穂村が指摘した「情報量を増やす」には限界があると思われる。)

 前述したような韻律と内容については、同人誌『率』創刊号においてゲストとして呼ばれたフラワーしげるが自作への評論「時間と空間の歌学」を寄せている。そこではフラワーは、内容においては〈(近代および現代短歌に認められるような)リアリズム以前の呪詞的要素の濃い短歌を作って〉おり、韻律においては〈ほぼ自由である。したがって記憶するのは簡単ではない。〉と自身の短歌を評している。これはフラワーの言う通り〈多くの作者、そして近代短歌からの流れとは逆行する〉作り方だろう。ただし韻律においては〈一見散文に見えるが、繰り返しや音数によって、明らかに操作がされている。〉と述べられており、それは前出の座談会における穂村弘や、東郷雄二の橄欖追放のページ「第109回 フラワーしげる」にもおいても指摘されている。あくまでフラワーしげるの短歌は、短歌だろう。そして、短歌としての韻律が維持されているがゆえにフラワーしげるの短歌はリズムに乗って読むことができ、個人的にはフラワーの主張とは少し違って、記憶することは実際にはそれほど難しくないと考えている。フラワーしげるの短歌は彼自身の述べるように〈韻律においては呪詞から離れようとしている〉、つまり「離れている」のではなく「離れようとしている」状態なのではないだろうか。今後、フラワーしげるの第二歌集が出るとすれば、それは『ビットとデシベル』の世界がさらに革命された後の世界で、韻律において「呪詞から離れている」短歌が飛び出してくるのかもしれない。

 また、韻律に関係して、フラワーの短歌の長さについても述べるつもりであったが、これに関しては、かばんの久真八志が「数値でみるビットとデシベル~フラワーしげるの短歌は長いのか?」というレポートで優れた解析を行っているのでそちらを参照していただきたい。久真は〈フラワーしげるの短歌について、他の短歌の取りえる範囲よりも、文節数・語 数・字数・音数において長い作品が多い。「フラワーしげるの短歌は長い」という説はこの点では実態を正しく述べている。しかし他の短歌の取りえる範囲よりも短い作品があるため、この点では単純に長いとはいえない。〉と結論づけている。

 文体についての指摘もある。『誰にもわからない短歌入門』(稀風社)において三上春海は「おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ」「ホームに立っていると指先の分かれた少年がきてこの町では誰も短歌を知らないという」などの歌をあげて〈ここにあるのはこれらの「怪異」を何かの比喩や寓話としてではなく、それ自体として一元的に描こうとする態度だろう。この態度はある意味で写実主義のそれに非常に近い。〉と述べている。それに呼応して鈴木ちはねが〈かれの作品の異様さは着想の特異さや暴力性、大胆な破調などにあるのではなく、かれの文体それ自体から来るものであるとわかる。〉〈かれの記述(あえてそう称する)はただひたすらに等速、単線的であって、そこにはもはや原思考への憧憬、身体への郷愁というのは無い。〉と論じている。
 「一元的」「写実主義」「等速、単線的」という指摘はその通りだろう。怪異を扱った歌でなくても「近寄ってみると白く短い線は二本の煙草でそれが風に転がっている」などは丁寧な写実の歌であり、比喩に頼ってイメージを多元化させることを徹底的に排斥しているようである。

 もちろんすべてが写実に寄った歌なわけではなく、うつくしい比喩の歌もあり、それらを抜きにして語ることはできないが。

 海にすてる手紙をもつようにウエイターはコーヒーを下げていきぬ
 夜の駅に溶けるように降りていき二十一世紀の冷蔵庫の名前を見ている
 これからは生活をしなくてはいけない日傘のなかで日傘をたたむ

 さて、少しだけ内容の話に戻ると、フラワーしげるから「暴力」を抜いて語ることはできないだろうとも思う。あえて言えば、それは写実的に描かれる暴力である。暴力はただそこに存在しており、暴力に対しての情感や評価はない。行為の行われる瞬間においては純粋な、何も背負わされていない、まるで生物の本質のような暴力である。しかし、フラワーの作品に暴力が出てくるとき、そこには何かが這い上がってくるような鬱屈した心持ちが散見される。行為自体は写実的で淡々としているが、背後にあるのはきっかけのない暴力性ではなく、抑圧を基盤とした感情の動きではないだろうか。この点を、他の歌人の暴力性のある歌と比較してみることも面白いと思う。

 足萎えの敵を撃ちころして顔をあげれば虎のように晴れた空
 じゃあ、成功した友人を憎んで失脚させたいと思ったことのある人は用紙に○をしてください
 丁寧に暮らしている中年の女をすごく好きになって背後から性器をねじこむ

 ただ、性的な暴力(性器をねじこむなど)については、後述のような歌でバランスが取られていて、その意味はなんだろうと考えている。可愛げ、ではなく、情けないような印象の歌も写実的だが、この意味を考えるのも興味深い。

 おまえはあたしを送るだけでいいんだよ終電がないから感謝しろなんてぐちゃぐちゃ言うんじゃねえよとかたぶん思われている
 呼吸の荒い女の上で性器があまり固くならないことを嘆いている夏のはじめ
 比喩でなくおれのあそこは小物でしかし普段はあまり差しつかえなく

 以上、フラワーしげるの短歌について、韻律、散文や小説との違い、内容や文体について検討してきた。まとまりのない文章で申し訳ないが、フラワー作品の読みの何らかの手掛かりの一つになれば幸いである。

 最後に、余談だが、フラワーしげるの短歌は声に出して読むと面白い。

 小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく

 繰り返される「小さなものを売る仕事」を最初は速く、次にゆっくりと読んでみる。「それは宝石ではなく」では少しトーンを下げてみる。「彼女」の過去の希望は現実へと融解される。私見で恐縮だが、この短歌の魅力をいかに伝えようか考えると、決して平坦なリズムでは読めない。朗読のリズムを考えることを楽しませてくれること自体もフラワー作品の魅力だろうと思っている。
 東郷雄二の橄欖追放のページ「第167回 フラワーしげる『ビットとデシベル』」にも、〈フラワーしげるのやたら長い短歌は舞台での朗読に向いているのではないだろうか。近代短歌の31音の韻律に縛られないフラワーしげるの短歌を、緩急・強弱のリズムを付けて朗読したら、紙の上で読んでいるときとはまたちがったボエジーが生まれるような気がする。また緩急を付けることによって、ひょっとしたらふつうに朗読した場合の31音の尺になんとか収まるかもしれないなどと考えたりもするのである。〉とあり、強く同意する。

 以下、声に出して読みたいフラワーしげるの短歌をいくつかあげて本稿を終わりにしたい。

 生まれた時に奪われた音階のひとつを取りもどす涼しく美しいキッチン
 きみが生まれた町の隣の駅の不動産屋の看板の裏に愛の印を書いておいた 見てくれ
 星に自分の名前がつくのと病気に自分の名前がつくのとどっちがいいと恋人がきいてきて 冬の海だ
 きみが十一月だったのか、そういうと、十一月は少しわらった
 夜の駅に溶けるように降りていき二十一世紀の冷蔵庫の名前を見ている


#略歴
田丸まひる(たまるまひる)
1983年徳島県生まれ。未来短歌会所属。「七曜」同人。歌集『晴れのち神様』(2004年booknest)『硝子のボレット』(2014年書肆侃侃房)

短歌評 音楽、物語、そして光~山田航『桜前線開花宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』 田中庸介

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 このたび左右社からまっピンクの装幀で出た山田航さんの『桜前線開花宣言』は、帯にある「穂村弘以降」の若手歌人のアンソロジーとしていちはやく編まれたものである。山田さんは1983年生まれの札幌在住の歌人で、北海道新聞に連載している札幌の隠れた名所探訪のシリーズをみても、その文章のうまさ、ストーリーテラーとしての高い能力は衆人の一致するところだ。そして、要するに山田さんは何でもおできになる方で、ぼくの編集している詩の雑誌「妃」16号にいただいた「連詩 すすきの」(一般的な意味での「連詩」ではないと感じたが)も、その完成度の高さに舌を巻いたものだ。その彼が、左右社から鳴り物入りで派手なピンク色の装幀のアンソロジーを出したということだから、大きく期待して読んでみた。
 穂村弘は1962年生まれの、短歌集団「かばん」所属の歌人であって、このアンソロジーは1970年生まれ以降の歌人にしぼられており、ちょうど1970年生まれの大松達知から書き起こしている。だからその間にある評者の同世代、すなわち佐藤弓生、千葉聡、中沢直人、飯田有子というような六十年代生まれの「かばん」の中堅歌人を全部ネグレクトして若手歌人の群像を提示している点で、微妙に穂村に近すぎる層を「穂村弘以降」から除外するという巧妙な操作が行われていることは、まず指摘しておきたい。穂村弘は加藤治郎、荻原裕幸とともに「ニューウェーブ歌人」としてまずは出発したものであり、それに続くこれらの層は「ポストニューウェーブ」として脚光を浴びそうになってはひっくり返されるというような運命を辿ってきており、外野としては判官びいきとまではいかないが、彼らのこともちょっと心配になる。
 本書の構成は、きっちり二ページ分の著者による歌人レビューが書かれたあと、きっちり四ページ分の56首のアンソロジーが続き(行わけ短歌の今橋愛だけは六ページ分)、この構成で1970年代生まれの19人、1980年代生まれの19人、そして1990年代生まれの井上法子と小原奈実までの合計40人をカバーしている点で、目配りがよくいきとどいた、きわめて念のいった仕事である。あまりにも著者の評言や歌の引用が的確で峻烈なためなのか、それに続くアンソロジーの頁では、それをわれに還って落ち着いて読む心のゆとりが読者の手にほとんど残されていないのがちょっと気にかかる(まずアンソロジー、そしてレビューの順番のほうがはるかによかった)が、たとえば「松村正直(…)の本質は間違いなくパンク・スピリットだ」「風や影をはじめとした自然物が体内を透過してゆくというイメージが短歌に頻出するのも、「思うように動けない」ことへのコンプレックスが反映しているように思える。全ては過ぎ去ってゆき、私もいつでもここに置き去りのまま。読者には喜びのように感じられる風の吹き抜けるような感覚が、横山[未来子]にとっては孤独感でしかない」「石川美南は短歌にマジック・リアリズムの表現を導入しようとしている。そこが新鮮なポイントだ」「抽象的思考をビジュアライズして硬質な文体で詠もうとする小原は、坂井修一につながる「へヴィヴァース」の旗手となれる可能性を秘めている」などの発言は、短歌批評の一つのスタンダードとして長く歴史にのこるだろう。
 その中で、特に著者が「同い年の歌人なので、どうしても意識してしまう」と書くのは堂園昌彦である。「堂園昌彦の魅力の一つとして、連作に付ける小題(サブタイトル)のセンスが抜群にいいことが挙げられる。「いまほんとうに都市のうつくしさ」「それではさようなら明烏」「彼女の記憶の中での最良のポップソング」「すべての信号を花束と間違える」「音楽には絶賛しかない」。こうしたところからも、堂園が「音楽的な短歌」を志向していること、自らの短歌が「最良のポップソング」であるようつとめていることが感じられる」。これは著者が穂村弘ばりにけれん味に満ちた「まえがき」で、「ぼくが一番好きな芸術の形式は昔も今もずっと音楽だ」「ぼくは本が嫌いなのではなくて、「物語」があるものが嫌いなだけなんだと気付いた」と言っていることにも通じる。評者などは六十年代吉増剛造の「世界が曲っているから音楽だ!」という「断言肯定命題」を思い出してしまうが、おそらくこれは著者の短歌観を他者に投影したもっとも重要な部分なのだと思う。けれども、たとえば堂園の、

  追憶が空気に触れる食卓の秋刀魚の光の向こうで会おう

というような一首のしずかな「光」は、「音楽」としてよりも「物語」としてこそ評者の心には沁みる。いまさら、ポストモダンの『物語』批判でもあるまい。むしろ、今もっとも不足している、詩における音楽に物語を取り戻そうとすることにこそ、この一冊のアンソロジーにおけるストーリーテラー山田さんの真骨頂はあったのだという気もしたが、いかがか。

短歌評 アルペジオ。ジルベルトとか市子とか聡子のつま弾くアルペジオ。 カニエ・ナハ

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 紀伊國屋書店新宿本店の短歌コーナーで、『Herbstvilla』という冊子に目がとまりました。朱色とかバーミリオンっていうのでしょうか、ぱっと鮮やかに眼を惹く色の表紙の、左1/4ほどが斜めにカットされていて、1ページ目にある目次に印字されている執筆者一覧がのぞいています。そんなちょっと「ワザあり」の表紙からはじまって、本文の余白のとり方だったり、ひらがなだけ別フォントにしていたりと、装幀の方(主水透さん、装幀だけでなく短歌の作品も寄稿されています)の強いこだわりが随所に感じられて、装幀者の個性がおもいっきり前面に出ているので賛否あるかもしれませんが、私はこういう「攻め」の装幀、好きです。本屋さんでジャケ買いさせられちゃうんだから、凄いですよね。で、中身をひらくと、巻頭には編集の山修平さんから執筆陣へ宛てた依頼メールが転載されていて、「短歌連作15首または、現代詩を一篇」「短歌と詩の混合作品でも構いません」とのことで、結果12名の執筆者のうち、9名が短歌連作、3名が現代詩もしくは融合作品を寄稿されていて、いずれも大変面白く拝読しました。現代詩の作品についてはべつのところで書かせていただくことにして、9名の短歌作品から、連作の中で私がとりわけ惹かれた歌をそれぞれ一首ずつ、ご紹介します。

  恋人の夢のほとりに触れぬようベッドの際に浅く腰掛け  伊波真人

 伊波さんの「雨と回帰線」と題された連作は、水のイメージでつらぬかれていて、その流れのなかで、この歌では夢もある種の水として描かれています。人間はほとんど水で出来ているそうですが、同時に、ほとんど夢で出来ているとも云いうるのかもしれません。

  うちはもう墓は建てぬといふ声の低く流れつ雨にほふ土間  黒瀬珂瀾

 黒瀬さんの連作は、前の首で出てきた語が次の首でふたたび出てきたりする、ゆるやかなつながりで場面転換しながら、展開していく物語の、一首一首がそのフラグメントに見えます(このとき、レイアウトにおける一首と一首との間に大きくとられた余白が、黒瀬さんの歌間の余白をより引き立てているように思います)。「土間」という言葉の懐かしい響き、土と地続きである家屋の領域は、墓という字にもふくまれる「土」で繋がっていて、家(うち)と土(つち)、生と死の閾は、雨の匂いによって未分化されていくように感じられます。

  おだやかな風ふく朝は蕎麦殻のまくらのへこみ陰影を持つ  嶋稟太郎

 ここではまくらが(美術でいう)もの派の彫刻のようにみえます。先日、古川あいかさんという方の絵画を見たのですが、彼女の絵のモチーフが、「はいだ布団」や「脱ぎ捨てた衣服」で、それらがバロック絵画のような筆致で描かれていて印象的でしたが、そこには「まくら」のモチーフもあり、古川さんのステートメントでは「日常生活の中では、(例えば毎朝布団をはぎ取り、毎晩布団をかぶる行動のように)同じような状況や時間が流れているように感じても、厳密には二度と同じ状況や同じ時間は流れていません」。嶋さんの歌のなかに置かれたまくらの持つ「陰影」も、ひとつにはこのような生(活)の一回性がもたらしているのかもしれません。

  二十代 百人切りもなすべきを学知なんかにそそのかされて  滝本賢太郎
 
 滝本さんの連作は、やたらほとやらほとのことばかり書かれていて、ほとはほどほどにしてください!と申したいのだけど、滝本さんの頁だけ袋とじにしたほうがよいと思います。これ、現代だからいいけど、「チャタレイ夫人」とかの時代だったら大モンダイですよ。てか、こんなの読まされたら気が散っちゃって仕事にならないじゃないですか。

 中島裕介さんの連作は、短歌で具体詩(コンクリート・ポエム)的なことをやられていて、そこに鋭いユーモアと批評性もあって、大変面白く、ただこれは視覚的な要素がキモになっているので引用が難しいので、実際に本を手にしてもらってぜひ誌面で目撃していただきたいです。ある歌なんて3D映画みたいに、頁の外にまでとびだしてきて、目の前に文字が舞いあがってきて、おもわず手で払っちゃいました。

  夜をひとつの帆布と思えばつつまれて木犀の香のふかみに眠る  服部真里子

 服部さんの歌は遠近法のスケールが大きくて、詩人だと宮澤賢治に似た感覚を感じます。ところでこの歌、安眠法によさそうですね。羊をいくら数えても眠れない不眠組のみなさん(はい、もちろん私もです)、ぜひ試してみては。

  伝へたき思ひなどあれど年上のエゴかもしれずひつこめておく  濱松哲朗

 これ私も肝に銘じておきたいです。短歌であることとかを超えて名言ですね。飲み会の席とかにのぞむ前に口ずさみたいです。濱松さんの連作は「予兆と余白」と題されていますが、「伝へたき思ひ」よりも予兆や余白のなかにこそゆたかな歌(詩)があることをおしえてくれます。

  ゆっくりと運ぶスプーン アルペジオまたアルペジオ 夏のおわかれ  堀静香

 ジョアン・ジルベルトのボサノバギターの音色とかが聴こえてきますが(あるいは小野リサさんとか青葉市子さんとか)、連作のタイトルも「夏のおわかれ」で、めちゃくちゃサウダージ感じるんですが、連作の最後には「秋の日は アルペジオ いつもいとおしく髪撫でられるここちがする」とあり、夏が終わってもアルペジオは終わらないんですね。よかった。そのまま冬も春もアルペジオで通して、アルペジオさえあれば、サウダージをはらみながらもコージーに、やっていけそうな気がします。

  花泥棒墓泥棒ふと出会してけふの獲物を取りかへにけり  主水透

「さけがのみたきゃはかばへいけよ」と歌われる「サン・キュー」という歌のはいった、柴田聡子さんのサードアルバムにしてご自身の名前を冠したアルバム『柴田聡子』は、昨年の邦楽アルバムの中で私にとってはダントツのベストでしたが、リード曲「ニューポニーテール」も、めちゃくちゃさわやかな曲に、自己の消滅(願望)を描いた歌詞、それを墓場で歌えや踊れしている狂気のPV、このひといよいよ天才、と思いました。それはさておき、さいきんの墓場、花泥棒やら墓泥棒やら酒泥棒やらで賑やかですね。歌ったり踊ったりしてるやつらまでいて。そりゃ「うちはもう墓は建てぬ」ともなりますとも。で、柴田聡子さんの『柴田聡子』には、「オリンピックなんて無くなったらいいのに」と消え入りそうな声でうわごとのように繰り返す「ぼくめつ」なんて名曲もあって、このうたの主人公もめまいやら震えやらでめちゃくちゃ具合わるそうですが、主水さんの連作には「飼育係も凍傷に臥しひやびやと日本 ペンギンも棲み易かろう」という歌もあり、この飼育係さんも心配ですが、2020年、すくなくともペンギンにとってはより棲みやすい日本になってるとよいですね。

短歌評 橘上の短歌放浪記/長歌 橘上

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橘上の短歌放浪記

 困った。ネタが尽きた。いや、日々短歌は作られその中で秀作・傑作は生まれているのだから、その言い方は正しくない。正確には、ネタはたくさんある。しかしぼくはほとんど知らないということだろう。ダメじゃないか。けれども僕も三十過ぎ。ダメなものをダメなまま放置するほどダメじゃないんだな。ダメはダメとして受け止め前向きに「短歌 若手 いいやつ」でグーグル検索。すると「1971年生まれ以降の若手歌人を語る」というスレッドが一番最初に出てきた。ネタに困ったらネット検索? ダメじゃないか。見つかったのが2ちゃんねる? ダメじゃないか。いや、去年ポエトリー・スラム(ニュアンス変わるけどべつに朗読会でもいい)に出演しまして、そこで、2ちゃんねる出身で雑誌の新人賞を取った詩人の方にお会いしましてね、ああ、2ちゃんねるから発掘される人材もいるんだな、と思いましてね、ええ。今まで避けてきた2ちゃんねるだけど、もしかしたら、見落としがあったかもしれないと考える次第で。まぁ今回2ちゃんねるに当たったのはたまたまですけどね。
 で、「1971年生まれ以降の若手歌人を語る」を覗くと、まず「大阪万博以後に生まれた戦後の臭いすら知らない この世代の歌人について気軽にお話しましょう。」とある。そうか。1971年生まれは大阪万博以後で、戦後の臭いすらしらないのか。勉強になるなぁ。そのまま読み進めると「斉藤斎藤、笹公人、黒瀬珂瀾、石川美南、小島なお、玲はる名、今橋愛」各氏の名前が挙がる。イベントでお会いしたり、どこかで名前を聞いたりで歌集を既に読んだことある人がほとんどだ。若手っていうか、全員先輩だしなー。だってこのスレッド2006年のヤツだもんなー。なんかミクシーの話題ばっかだし。っていうか「1971年以降」の段階で気付けよって話だよなー。その後は「馬鹿」「お前が馬鹿」「そもそも2ちゃんねるに来る歌人は馬鹿」などとお馴染みの展開になってきたので「2ちゃんねるに来る詩人も馬鹿」ということにしてひとまず撤退。「アポロは月面着陸してない」に通じるとっても「東スポ」っぽいフレーズは気になりましたが。
 とりあえず、短歌しらない人が「短歌 若手 いいやつ」で検索すると、「斉藤斎藤、笹公人、黒瀬珂瀾、石川美南、小島なお、玲はる名、今橋愛」の1971年以降の人の名前があがり、彼らを若手と思う人が一定数いるかもってことです、歌人の皆さん。
 しかし、あれだな、検索の仕方が悪かったのかな、ってことで「短歌 若手 いいやつ」から「いいやつ」を抜いて「短歌 若手」で再検索。
 二番目に出てきた「これは美人!注目の若手作家・詩人・歌人! - Naverまとめ」を華麗にスルー。どうせ橘上とかいう奴についてアレコレ言うんでしょ。セクハラよね。でもその橘上って奴も「きっかけは顔でもいいです。読んでくれれば」とか言うんでしょ。けなげ。顔だけじゃなく心もキレイだわ、その橘上とか言う人。
 
 今回、短歌評になってるか微妙だね。なってるか以前にやろうとしてるかも疑問だね。でも若手の歌人を読みたいって人がネット検索すると、こうなるってサンプルになったね。え? 真面目な人は検索なんかしないで「新鋭短歌シリーズ」を読むって? 新鋭短歌シリーズ知ってる時点でソレ短歌の人じゃん。真面目な人しか集まらない短歌界でイイのかい? 現代詩はそれでかなりマズイことになってるけど。ってこのテの話題は昔からずっと言われてるだろうけど。
  
 ま、じゃこれじゃ終われないってことで最後に短歌を引用した詩を書いて終わります。
 フォーエヴァー短歌。グッバイ短歌。グッドモーニングアメリカ。



長歌

鍵穴に満ちているのは月の匂い、わが衣手は露にぬれつつ
マガジンをまるめて歩く袋小路「読む」六点の凹凸が
衣干すてふ銀杏(ぎんなん)ひとつ雨にうたれてひとりかも寝む

われといふ時計は疾うに停止してオルゴール語はきらきらと待つ
真昼間に感電死する工夫あれ 珈琲の湯が沸くまでのねむたい遊び
山川に風のかけたるしがらみはだるいせつないこわいさみしい
日本脱出したし 皇帝ペンギンも夜明け前 見はてぬ夢のさむるなりけり
とにかく煙草ほどのけむりも出ないのだつたキリマンジャロに死すべくもなく

天の原ふりさけ見れば春日なる この谷のPARCO海の手前で瞬いている 
誰も守らぬ信号ぐんぐん朝はきてあるいは宇宙船かもしれない。
指先に無機質の塊の如くに並ぶサバンナの便器は氾濫したり
春過ぎて夏来にけらしダマスクス この夏を本一冊も読まず逝かしむ
小倉山峰の紅葉葉心あらば結婚はまだですかなんて聞かないで
花の色はうつりにけりないたづらにあたしはケンカつよいつよい
脇役のようにたたずむ 火星がなつかしいね くわがた
「淋しい」 を指す七通りの言い方を インクが足りないとプリンタが紙の呼吸をやめる

窓ごしに丸井愛子の尻ばかり乗せて皇帝ペンギン飼育係りも
誰にでもさみしいと言ふ癖のあるこの娘は死をすでに覚悟して
昨日といひ今日とくらしてたすけて枝毛姉さんたすけて
執刀の医師の握れるメスの先この子はもう帰って来ない
一瞬を不安よぎれり〈ローニン〉のドアノブ冷えて秋は悲しき
まる焼きの、かんぺきにまでまる焼きのうみがめのような子ら とても元気で良い子です
回る椅子ぽかんと回すははははははははははは母死んだ
死をすでに覚悟して入院したらしきブリキで焼いたカステイラです
母はいまだに母であらうか無量大数の脳が脳呼ぶ
そうですかきれいでしたか息子より私が傷ついてます

ひら仮名は凄(すさま)じきかな 「なぜにおまへは生きてゐるのだ?」
いい日だぜ象のうんこよ聞いてくれ風よりほかにとふ人もなし
さみしさのそのゆくすゑをゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった
少女死するまで砕けてもぼくの体がわかるならをとめの姿初めての 

WWWのかなた白きをみればカーテンが「し」の字になつたと人はいふなり

 鈴木加成太、穂村弘、塚本邦雄、福島泰樹、大島史洋、加藤治郎、仙波龍英、杉本潤子、苅谷君代、工藤吉生、矢澤麻子、石井久美子、 花 凜、毛利さち子、宮地しもん、坂井修一、東直子、加藤久美子、雪舟えま、飯田有子、小野小町、春道列樹、壬生忠岑、天智天皇、持統天皇、安倍仲麿、僧正遍照、猿丸大夫、よみ人しらず各氏の短歌からの引用のみで構成。(すべて引用のため文字色は変えていません)

短歌評 ホムラヒロシ? 何それ果物? 橘上

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 はじめに
 長くなったので時間ない人は青字の「要約します」からお読みください。



 しまった。諸事情(※つまんなかった)により最初にアップされた短歌時評書き直そうと思った矢先に、前のバージョンに工藤吉生さんから応答が来てしまった。
http://blog.livedoor.jp/mk7911/archives/52160336.html

 こういう場合どうすればいいの? 教えて神様!

神様「ま、それはそれとして何か書けば? だってあれ、かなりひどかったよ」
橘上「じゃあそうします」
神様「それでこそ詩人、いや橘上」
神様「そもそもお前は詩人ではない」
神様「人間であるかも怪しいぞ」
橘上「じゃそういうことで」
橘上「橘上の職業は橘上です」
群衆「デヴィ夫人の職業がデヴィ夫人みたいで素敵!」

読書「そもそも、その神ってのはお前だろ」

 そうだ橘上は神なのだ。
 というわけで以下は橘上が神ということを踏まえてお読みください。

「こういう時に神の話をする奴はダメだ」
「神の話もできないで詩を書くやつはダメさ」


 最初のバージョンも残しておくのでご覧になりたい方はこちらをご覧ください。
 例のつまんないやつ(編集部からも不評だった)↓
http://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/90344bbcd027f45edb3eabadf99a662d



   知らない
   俺は知らない
   知ってる
   お前は知ってる

   知ってる
   俺は知ってる
   知らない
   お前は知らない

   誰も知らない
   誰もが知ってる

   知るっていう字こんな字だったっけ?



短歌時評



 僕は二度にわたって詩客に穂村弘のことを書いた

短歌評
http://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/66098c3af1538b71df09f45cd70534f2

短歌評 穂村弘とは社会問題である~穂村弘3.0
http://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/ad5b85ee1f95597a07ebbf555a794853


 なぜ穂村弘かというと、僕でも知っているレベルの歌人であるからである。
 と同時に穂村弘はお笑いにおける松本人志、演劇における平田オリザに通ずる人物である。
(テレビコラムにおけるナンシー関、現代美術における会田誠とも言えるか?)
 つまり、a,そのジャンルに明確に変革をもたらしb.一般に知名度がありc.彼らをきっかけとしてそのジャンルを始めた若い人が多くd.それ故それから下の世代はその文体を基本としていると言えるぐらいの影響力を持った人物である。
 また彼らは、大仰さを嫌う、細かいディティールを追及する、他者との微妙な距離感、日常の中に生まれる虚無にも似たエアポケットのようなものを表現しているという点でも彼らは共通している。
 それは、過剰な装飾を嫌うノームコアが折檻するファッション業界、「空気読め」という言葉が無言の圧力として存在する時代の雰囲気、無害芸人としての内村光良の再評価などとも呼応している。


「なんか話すぐでかくするんだよな、この人」
「どうせロクにもの見てないんだろ」
「見てないやつだからこそ見えるものがある!」
「根拠ないけど」

 要するに。
「ニューウェイヴ短歌」の穂村弘がスタンダードになり、「アンチ吉本」のダウンタウンが「吉本の顔」になったり、「アンチスタニスラフスキー・システム」の平田オリザの「現代口語演劇」が普通の演劇として受用されてから、それより下はその影響下の作品しか出てないんじゃないの?ということだ

 だから何だ。
 「ホムラヒロシ? 何それ果物?」ぐらいの人がね、出てこないと、どうなんでしょう、根本的に違ったものって出てこないんじゃないかな?

 第三次世界大戦が起きたという嘘をつかれて、幼少期より地下の核シェルターに隔離され、僅かばかりの水と食料と紙とペン、魔法の言葉「五七五七七」を渡されて、去年シェルターからの脱出と同時に歌集を出版した、みたいな人ね。

 ちなみに松本人志の文体に染まってない芸人としてジャルジャルがあげられるので
(ジャルジャルはあまり松本人志の笑いに深く触れることはなかったらしい)
 きっと演劇にも短歌にもジャルジャル的な人はいるのでしょう。
 知らないだけで。


「そもそも穂村弘の影響を受けることの何がわるいんでしょうか?
 芸術は前の世代の影響を受け、反発と更新しながら変わるものでしょう」
「悪くないよ」
「絶対それは悪くない」
「でも今はそうじゃないものが読みたい」
「ポストでもアンチでもない、もっと別の・・・」

 長くなったんですいません。
 要約します。

いやー穂村弘(※)って読みやすいねー
それに影響受けた人らもおもしろいなー
大げさな感じやドヤ顔を嫌うフラットな文体共感できるしなー
でもちょっと作風似てる人多くない? (細部に神は宿る、けどね・・・)
穂村弘知らない人こそ新しいものをつくれるんじゃない?
フラットな文体、だけど政治や生や死をてらいなく扱うみたいな
頑張れ! その読んだことない人。
もうそういう人出てたらゴメンネ(教えてよ)
※平田オリザ、松本人志でも可


です。

(要約しますって言っているもので要約できてるものを見たことない)

こう書くと

「アララギ最高や!
 ニューウェイヴ短歌なんかいらんかったんや!」

って言いたい人だと思われがちですが
 別に僕は「反穂村」でもないですよ。
(橘上を政治利用しないで)
 あ、アララギは最高です。

 前述の要約に付け加えるなら、平田オリザはフラットな現代口語演劇の延長線上に「ロボット演劇」という実験を行っていて好評だし、松本人志(作風はリベラルかつ作家主義的なのに政治思想は保守という稀有な人)はディティールの細かい笑いの先に、政治を含めたリアリティの崩壊をダイナミックに描いた「大日本人」が賛否両輪だし(僕は好き)、フラットのその先を試みている。

 けど、現状穂村弘がフラットのその先を提出しているようには見えないし(ロクに読んでもないのによく言うわ)、若い世代がやってるのかな、「新鋭短歌シリーズ」読んでないしね。
(新鋭短歌シリーズを知ってるんならそれを読んだらいいのに(すでに読んでいそうだ)、知らないようなふりしている。知らないのはしょうがないけど「ふり」には感心しない。)

知ってるって言ったら
知ったかぶり
知らないって言ったら
知らないふり
って言われるんだぜ

それが世の常
人の常

マイケル・ジャクソン「怒ってないよ、愛してるんだよ!」

 愛ってやすやすと言うやつは信頼できないねぇ。

 若手を知るのにもってこいの本、山田航さんの『桜前線開架宣言』が最近出たのにスルーだし。せっかく開架したのに。宣言してるのに。

 よし、このタイミングなら言える
 山田航さん、一昨年年賀状返さなくてすいませんでした。
 なんか右肘に違和感があったんです。
 でも他の誰にも返さなかったんで安心してください。
 おかげで今年はほとんど年賀状来ませんでした。
 今年もよろしくお願いします。


 あらためて短歌の若手って誰だよという問いに答えるなら、まずはさっきの山田航『桜前線開架宣言』を見てもらうのがいい。
目次を写すと、ようするに

大松達知/中澤系/松村正直/高木佳子/松木秀/横山未来子/しんくわ/松野志保/雪舟えま/笹公人/今橋愛/岡崎裕美子/兵庫ユカ/内山晶太/黒瀬珂瀾/齋藤芳生/田村元/澤村斉美/光森裕樹/石川美南/岡野大嗣/花山周子/永井祐/笹井宏之/山崎聡子/加藤千恵/堂園昌彦/平岡直子/瀬戸夏子/小島なお/望月裕二郎/吉岡太朗/野口あや子/服部真里子/木下龍也/大森静佳/藪内亮輔/吉田隼人/井上法子/小原奈実 (敬称略)

 といった方々が「短歌」の「若手」の「いいやつ」ということになる。

 じゃあこの中にその「穂村弘の影響を受けてない」「ジャルジャル」的な新しい人いるんですね。すいませんでした。

「謝ったら許されると思うなよ、この厚顔無恥が」
「厚顔無恥じゃなきゃこんな文書かないでしょ」
「礼儀正しい人、怒られない範囲でしか言わないじゃん」
「今こそ厚顔無恥が求められる」
「時が来た!」
「のか?」


 あ、「穂村弘の影響を受けてない真の新人歌人求む」とか言っといて、
 俺の名前出てねぇじゃねぇか、殺すぞ。

と思ったあなた、僕はあなたこそ待っているのです。(殺さないで)
 僕はあなたを応援してます。
 読んだことないけど。

 読んだことないやつ応援するってなめてんのか!
 読まれたことのないやつこそが真の新人でしょ

 ま、俺が読んだことない真の新人がこの文章読んでいるわけないと思うけど。
(読んでいたなら神に感謝)

 そういう人いたら私ですってコメント欄に書き込んでネ!
(いんたーねっとってべんりだね)


「さっきから教えてよとか書き込んでねとか」
「時評執筆者がそんな態度でいいのか?」
「むしろ教える立場じゃないのか?」
武田鉄矢「教えたくてたまらないんですね。人に教えたくてうずうずなさっている」
武田鉄矢「人間というのは面白いもので、教えようとした時に必ず間違うんですよ」
武田鉄矢「俺だけが知っているとか。こんな考え方も君たちはできないのかとか。人を導こうとか教えようとした時に、必ず人間は失言する」

って武田鉄矢も言ってるので教わろうとしてる俺はセーフ。
「でも、この文章基本失言だよね」

「この自らに突っ込んでいくスタイル卑怯よね」
「予め批判的なワード入れ込むことで」
「批判受け入れるように見せかけといて」
「批判封じ込めるっていうか」

「橘上のこの作風にはSNSや2ちゃんねる以後のコミュニケーションを描こうとしている野心を感じる。
インターネットの再現をしているのではなく、インターネットから受けた影響を取捨選択し、あくまで作家の「オリジナリティー」として新たな文体を掴もうとしているのだ。
所謂、『オリジナリティー』を否定するためのインターネットでもなく、古き良き『作家主義』の復権でもない。
インターネットに自らを開示するのではなく、インターネットを自らに取り込もうとしているのだ」

って批評誰も書いてくれないから自分で書いちゃったよ!

「この厚顔無恥が!(二回目)」

 つーか短歌評なのにこんだけ自分の名前出す人もいないよね

「この厚顔無恥が!(三回目)」


 この文章はほとんど憶測で書いているが(100パーセント憶測と言えないあたり俺もまだまだだな)
 ま、言い訳というか俺が時評やる意味ってのは、こういうとこにあると思うので

「短歌と演劇、お笑いは関係ない」

 要するに現代って細分化してるよね。
Wikipedia「中世においては、物理学者は化学者・数学者・錬金術師・哲学者などを兼ねていたが」
Wikipedia「20世紀になってから学問の専門化がいちじるしく進み、物理学者は物理学を学んで博士号などの学位を取得した者が主流となっている。」
「現代にレオナルド・ダ・ヴィンチは生まれない」
「物理学者は物理学を追うのに精いっぱい」
「詩人は詩を」
「演劇人は演劇を」
「歌人は短歌を」
「芸人はお笑いを」
 なんとか追うのに精いっぱい。

「でもそれだけだとちょっと視野狭くないすか?」
「憶測で言うヤツよりはマシだろ?」
「いわゆる一つの蛸壺から出ないと」
「それはそれとして基本は押さえろよ」
「短歌・俳句・川柳・現代詩・小説・映画・演劇・舞踊・舞踏・狂言・能・コント・漫才・大喜利・バレエ・モダンバレエ・コンテンポラリーダンス・ジャズダンス・ヒップホップダンス・ソーラン節・安来節・根岸安来節会・口語自由律安来節運動・前衛安来節・ニューウェイヴ安来節・ポストニューウェイヴ安来節・かんたん安来節・ネット安来節・新鋭安来節シリーズ・野球・サッカー・クイズ・八百屋・パーマ液・ジッパーの基本抑えるだけで人生終わっちまうよ」
「それがお前の居直りか」
「言葉を発するというのは一つの居直りである」

 知ってるか?
 一説には
 角川短歌年間に載ってるだけでも2800歌人がいて、お笑い養成所に入学するものは一年間で1700人いる。

ジャン・レノ「死ぬまでにすべての映画を見るのは無理だな」

「要するに他ジャンルにも目を向けろと?」
「いや、それでも足りない」
「コラボレーションって言ったって、所詮は文化やアートに興味のある界隈でしかやらないじゃん」
「でも芸人じゃなくても人は笑うよね?」
「役者じゃなくても人は演技するよね?」
「詩や歌だって多分、思いがけないところにあるよ」
「あーアレっすか? 生活の中にこそ芸術がある的な?」
「そんないい話に興味はないよ」
「いつだって足りない」
「今だって足りない」
「足りないのを前提に語るしかない」
「どんなことでも」
「これさえ押さえとけばOK!なんてライゼンスは存在しない」

知ったふりもできないし。
知らないふりもできないよ。

言葉はいつだって暴力だし、
歴史はいつだって勝者のものさ。

今に始まったことじゃないだろ?

足りない中でもなんとか語るしかないし、
その語りをつむいで歴史の糸をつなぐしかない。

時に知ったふりして。
時に知らないふりして。

じゃあ俺が知ってる限りの短歌を使って、
短歌の歴史をつむぎます。

橘上で「長歌」

長歌

鍵穴に満ちているのは月の匂い、わが衣手は露にぬれつつ
マガジンをまるめて歩く袋小路「読む」六点の凹凸が
衣干すてふ銀杏(ぎんなん)ひとつ雨にうたれてひとりかも寝む

われといふ時計は疾うに停止してオルゴール語はきらきらと待つ
真昼間に感電死する工夫あれ 珈琲の湯が沸くまでのねむたい遊び
山川に風のかけたるしがらみはだるいせつないこわいさみしい
日本脱出したし 皇帝ペンギンも夜明け前 見はてぬ夢のさむるなりけり
とにかく煙草ほどのけむりも出ないのだつたキリマンジャロに死すべくもなく

天の原ふりさけ見れば春日なる この谷のPARCO海の手前で瞬いている 
誰も守らぬ信号ぐんぐん朝はきてあるいは宇宙船かもしれない。
指先に無機質の塊の如くに並ぶサバンナの便器は氾濫したり
春過ぎて夏来にけらしダマスクス この夏を本一冊も読まず逝かしむ
小倉山峰の紅葉葉心あらば結婚はまだですかなんて聞かないで
花の色はうつりにけりないたづらにあたしはケンカつよいつよい
脇役のようにたたずむ 火星がなつかしいね くわがた
「淋しい」 を指す七通りの言い方を インクが足りないとプリンタが紙の呼吸をやめる

窓ごしに丸井愛子の尻ばかり乗せて皇帝ペンギン飼育係りも
誰にでもさみしいと言ふ癖のあるこの娘は死をすでに覚悟して
昨日といひ今日とくらしてたすけて枝毛姉さんたすけて
執刀の医師の握れるメスの先この子はもう帰って来ない
一瞬を不安よぎれり〈ローニン〉のドアノブ冷えて秋は悲しき
まる焼きの、かんぺきにまでまる焼きのうみがめのような子ら とても元気で良い子です
回る椅子ぽかんと回すははははははははははは母死んだ
死をすでに覚悟して入院したらしきブリキで焼いたカステイラです
母はいまだに母であらうか無量大数の脳が脳呼ぶ
そうですかきれいでしたか息子より私が傷ついてます

ひら仮名は凄(すさま)じきかな 「なぜにおまへは生きてゐるのだ?」
いい日だぜ象のうんこよ聞いてくれ風よりほかにとふ人もなし
さみしさのそのゆくすゑをゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった
少女死するまで砕けてもぼくの体がわかるならをとめの姿初めての 

WWWのかなた白きをみればカーテンが「し」の字になつたと人はいふなり



鈴木加成太、穂村弘、塚本邦雄、福島泰樹、大島史洋、加藤治郎、仙波龍英、杉本潤子、苅谷君代、工藤吉生、矢澤麻子、石井久美子、 花 凜、毛利さち子、宮地しもん、坂井修一、東直子、加藤久美子、雪舟えま、飯田有子、小野小町、春道列樹、壬生忠岑、天智天皇、持統天皇、安倍仲麿
僧正遍照、猿丸大夫、よみ人しらず各氏の短歌からの引用のみで構成。

 最後に長歌があったけど、どうなのかよくわからない。あれはいい長歌なんでしょうか。
 短歌は組み替えると駄作になるという証明でしょうか(笑)
 

     橘上の短歌時評~完~

本文中、赤字は工藤吉生▼存在しない何かへの憧れ/FC2版より「詩客 短歌時評「橘上の短歌放浪記」に応える/短歌の若手のいいやつって誰だろう」
http://blog.livedoor.jp/mk7911/archives/52160336.html
からの引用


橙字はマイケル・ジャクソン、武田鉄矢、ジャン・レノ、お世話になっているおじさん、Wikipedia物理学者の項目 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85
からの引用

※引用文字の色わけは作者の指示によります。

短歌時評第120回 あなたはどこで短歌と出会うんだろう 田丸 まひる 

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-『大人になるまでに読みたい 15歳の短歌・俳句・川柳』を中心に

 「春がきた。短歌を始めよう」というわけにはいかないかもしれないが、宝島社のファッション誌「リンネル」2016年4月号において、特集の「春からはじめる素敵な新習慣!」のひとつとして、「日常のワンシーンや心の揺れを表現する手段として、最近ブームになっている短歌」が東直子の担当による見開き一ページで紹介されている。ふんわりとした雰囲気の誌面は眺めているだけで楽しく、短歌に興味を持ってくれるひとが増えることを期待している。
 また、2015年12月に上梓された山田航・編著の若手歌人のアンソロジー『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』(左右社)は、書店だけではなくヴィレッジヴァンガードなどでも平積みで置かれ、新聞や週刊誌、文芸誌のみならず、前述の「リンネル」のほかに「装苑」2016年3月号(文化出版局)、「GINGER」2016年4月号(幻冬舎)などのファッション誌においても紹介されるなど、今まで短歌に親しみがなかったかもしれないひとたちの目に触れる機会が増えているようで頼もしい。『桜前線開架宣言』のあざやかなピンク色の表紙に心惹かれて手に取ってくれるひとがたくさんいることを願う。
 そんななか、ゆまに書房から『大人になるまでに読みたい 15歳の短歌・俳句・川柳』(「愛と恋」「生と夢」「なやみと力」全3巻)の刊行が開始された。中高生に読んでほしい短歌を黒瀬珂瀾、俳句を佐藤文香、川柳をなかはられいこが選出しており、その一首一句ずつに短いが丁寧な解説が書かれていて読みやすい。中高生向けということで語り口はやわらかいが、作品の内容を生き生きとひも解いてくれていて、大人として読んでも、また15歳の頃の感覚を思い出しながら読んでも魅力的だ。3冊セットでいま思春期を生きているひとや、過去に思春期を過ごしてきたひとにプレゼントして一緒に読みたい、学校の図書館に置いてほしいと思った。
 「愛と恋」から、短歌を少し見てみよう。引かれた作品には、次のような解説がつけられている。

 五線紙にのりさうだなと聞いてゐる遠い電話に弾むきみの声
小野茂樹『羊雲離散』

 恋人は今、遠いところにいる。電話でしか話ができないけれど、電話する時間の、なんと楽しいこと。あっという間に時間がすぎてしまう。たわいない話をするきみがうれしそうに、電話の向こうで声をはずませる。その声は、ぼくにはまるで、美しい音楽のように聞こえるんだ。きみの声のメロディーはそのまま、五線紙に音符で書けそうだね。

 作品の主人公の「ぼく」として書かれた文章には臨場感があり、作品世界に入り込んでいくことができる。「聞こえるんだ」「書けそうだね」という「きみ」への語りかけがそのまま解説文となっているのが特徴的で、さわやかな気分にさせてもらえる。
 もちろん、15歳の知る愛や恋は、さわやかだったり穏やかだったりするものだけではない。

 吾がために死なむと云ひし男らのみなながらへぬおもしろきかな
原 阿佐緒『涙痕』

 おもしろいじゃないですか。かつて、わたしに恋をして「あなたのためなら死んでもいい」と言った何人もの男たちが、みんな死なずにのうのうと生きている。恋の言葉など馬鹿らしいものだ。原阿佐緒は著名な学者との恋愛事件を起こして、短歌の師匠から破門され、新聞や雑誌に書き立てられ、そうかと思うと映画女優に転身するなど、はげしい生涯を送りました。

 「おもしろいじゃないですか」と言ってくれることがおもしろい。中学生や高校生と接していると時折、学校とSNSが、家庭が、部活動が、目の前の恋が、世界のすべてだと思っていてその世界でばかり希望や絶望を感じている子に出会う。そうじゃない。あなたの目にうつっているものや、指先でふれられるものだけが、世界のすべてではない。いつでも、そこから飛び出すことができる。そして、あなたが見ている世界を越えても、希望も絶望もあなたを待っている。越えた世界を振り返って、「おもしろきかな」と言ってもいい。

 ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう
折笠美秋『君なら蝶に』

 お別れに光の缶詰を開ける
松岡瑞枝『光の缶詰』

 まだ見ぬ希望のような「ひかり野」も、「光の缶詰」のような思い出も、確かにそこにあることを短歌も俳句も川柳も教えてくれる。小さな詩形ひとつは、人生に押し寄せてくる波からわたしたちを救ってくれるわけではない。しかし、その波のなかを進むための櫂のひとつにはなり得るのではないか。この本が、だれかの櫂になることを願っている。「愛と恋」の巻末のエッセイで、黒瀬珂瀾は「小さな短詩形にその思いが乗ると、不思議と多くの人に伝わる言葉になるし、作った自分にとっても時を超えて過去の自分の心を教えてくれるタイムカプセルになったりして、とにかく大切なんです」と述べている。「とにかく大切なんです」に強く同意する。15歳のひとにも、15歳を過ぎてしまったひとにも、とにかく大切な心のタイムカプセル、心の櫂としての小さな詩形に出会ってほしい。あなたはどこで短歌と出会うんだろう。

#略歴
田丸まひる(たまるまひる)
1983年生まれ。未来短歌会所属。「七曜」同人。短歌ユニット「ぺんぎんぱんつ」の妹。歌集『晴れのち神様』『硝子のボレット』

短歌評 ラムネ、図書館、みちる海――中家菜津子『うずく、まる』の世界 田中 庸介

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 中家菜津子の歌集『うずく、まる』(書肆侃侃房 新鋭短歌シリーズ23)は、詩と短歌のハイブリッドによって構成された意欲作である。本作のタイトルにあらがうように、彼女の歌はとにかく《たけ高い》ものであり、たけ高いから、やや物語的な抒情に淫していることなどまったくどうでもいいではないかと思わせるような、そんな才能を感じさせる一冊であった。

  満たされぬ器にひとつの罅もなく真砂の日々がそそぎこまれる

 「罅」と「日々」が地口になっているのであろうけれども、「罅」がないはずなのにいくらでも「日々」を注ぎ込める。そんな「満たされぬ器」とは、無限の可能性を秘めた詩歌の世界であると読んでもよい。

  うずく、まる うみおとせなかったものでみちる海を抱えて

 本作では、その「満ちる」イメージが「子宮」の海の潮を予感させる。かつての《女性詩》よりもさらに自由に、「うずく、まるからだに沿って/虹がかかる」と書くからだは「うずいている」のと同時に「まるい」。その「まる」が、胞状鬼胎のつぶつぶのイメージを喚起させる。伊藤比呂美を越える才能かもしれない。

  さかしまに図書館は建つ噴水の青い絶え間をゆくひるさがり

 「さかしまに建つ図書館」とは、噴水にうつった図書館の影。噴水は「絶え間なく」降り注ぐという慣用句から生まれてきたその「絶え間」を縫うように、幻想の幽冥境である本の神殿である図書館を「ゆくひるさがり」。その水鏡こそが、作者にとっての詩の入り口なのだろう。

  赤茄子と子を乗せ弾む一輪車 白爪草の畦道をゆく
  パレットのような田を行く自転車よ黄色の絵の具を買い足すために

 郷里の北海道を歌った連作「沃野の風」から二首を引いた。乗り物による場所の移動が、心のパレットに「赤」「白」そして「黄色」の色彩を加えるように、作者の心象をゆたかにする。鮮烈な、新しい描写である。

  ラムネ壜越しにのぞいたさくらばな道はすみずみ泡立っている

 ラムネが泡立っているから、壜越しにのぞいた春の風景も泡立っているという発見の歌である。「道はすみずみ」の「すみずみ」がやや唐突だが、新しいオノマトペのようにも感じられる。その「泡立ち」は、心の泡立ち。心が泡立っていれば、そこから見える(平凡なはずの)風景/写生も泡立つのだ。

 このような作品をもっともっと読ませてほしいと思わせるのは、やはり詩のたけの高さのみがなせる業であり、この作家のデビューに心から乾杯したい。

 圧倒的な衝撃を受けている。

短歌評 中澤系という熱量 竹岡 一郎

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 大阪・中崎町の葉ね文庫で中澤系の唯一の歌集「uta0001.txt」を買った。この歌集は、2004年3月刊の雁書館版と2015年4月刊の双風舎版がある。葉ね文庫には二冊ともあって、つい両方とも買ってしまった。双風舎版の方は、若干の訂正がなされていて、夭折した作者の意図により近いと聞いたので、ここでは双風舎版によることとする。
 歌集は三部構成で、「糖衣(シュガーコート)」なる題のついたⅠ部は、1998年から1999年の作、Ⅱ部は2000年から2001年の作、Ⅲ部は1997年から1998年の作、制作年からいえばⅢ、Ⅰ、Ⅱの順となる。歌集の冒頭には次の歌が置かれている。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって     Ⅰ
 この歌については、既に色々と評がなされているが、どれもしっくり来ない処があって、私なりの考えを書きたいと以前から思っていた。最初にこの歌を見たとき、先ず思ったのは、「理解できる人はどうするのだろう」。理解できない人は下がるのなら、理解できる人は前進する、或いは跳躍するのか。つまり、理解できる人は飛び込む、または電車に対して立ちはだかるのだろうか。
 飛び込み自殺で片づけるには違和感があった。多分、理解できる人は通過する電車に何らかの形で立ち向かうのだろう。それが結果的に自殺であったとしても、電車の通過を阻むための何らかの行為を取るという事だ。
 電車とは何だろう。速い速度で以て、決められた軌道の上を飽きもせず反復して走り、大量の人間を多くの場合平等に運ぶ機械。電車或いは速度の歌は、歌集中に幾つもある。
未決囚ひとりひなかの快速にいてビールなどを呷っていたさ  Ⅰ
 護送されることも無く、一人で居るのだから、この未決囚は喩だろう。カフカの「審判」を思わせる登場人物だが、この人物の置かれている状況はひどく明るい。「呷って」いるのだから、自棄にはなっているのだろう。だが、焼酎でも日本酒でもない、アルコール濃度の薄い酒であるビールだから、大して深刻な自棄ではない。中途半端な自棄である。昼日中、速度は快適だ。仄かな酩酊。明るい、薄められた獄として快速電車は何処にも止まらないような気がして、その軌道は一直線なのだが、あまりにもいつまでも進む感がある。ならば、乗っている者の感覚として、それは同じ処を回っているのと、どこが違うだろう。
メリーゴーランドを止めるスイッチはどこですかそれともありませんか   Ⅰ
 メリーゴーランドは同じ処をぐるぐる回っているのであって、電車とは違う。それとも環状線や山手線なら、遥か高所から見れば、メリーゴーランドとさして変わらないだろうか。多分、スイッチは無いのだろう。少なくとも作者が止めたいと思う時、スイッチは見当たらない。メリーゴーランドの動きに対する焦燥またはうんざりした感じがあって、だからこそ止めるスイッチの有無を問うている。
予兆なき郊外電車の連結部床板は猫の腹を踏む如    Ⅰ
 郊外を走るのだから、のんびりしているのだ。少なくとも通勤電車のように殺人的に混んでいるわけではなかろう。その連結部は、踏むのに躊躇するほど頼りなく柔らかい。「猫の腹を踏む如」とあるが、電車の連結部床板を踏むように、体重を掛けて猫の腹を踏むような奴は、猫が死んでも良いと思って踏むのである。だから、ここで実際には、作者は連結部を踏むことなど、とても出来ない。つまり、車両から車両へ移動する事すらできない。一つの車両の中を移動できるのみである。連結部床板に体重を掛ける事がまるで人非人の行為のように思われて、その謂われない罪悪感を「猫の腹を踏む如」と言ったのか。急いでいる時に意味も無く電車の中を前へ前へと移動する事はないか。そうした処で、電車より早く移動出来る訳はないのだが、ついそうしてしまう経験はないか。それまでもが罪を伴うのであれば、もはや自発的に何処へ行けばよいのか。
 ここに「予兆」とあるのは何の予兆があって欲しいのか。吉兆という感じはしない。むしろ滅びの予兆だろうが、郊外の電車にそれがない。何とはなく幸福に自足した明るい主体として生きられる、恐らく一つの車両から出なければ。車両間の頼りない連結部を踏むことへの罪悪感。歌集中からもう一つ予兆の歌を挙げるなら、
臨界の時を待たなむ驟雨降る森にて何の予兆もあらず   Ⅰ
 これは圧倒的な滅びを待とう、見届けようとする意志だ。その滅びは雨の激しさにより、或いは雨の激しさに比して来るように思われる。森は雨音にさんざめいている。今しも何かが起ころうとするかのような、それは反撃の音か。だが、いつまで待っても変わらず、何の予兆も無い。予兆と、作者が森を去るのと、いずれが先か。(その答えは既に出ている。作者が森を去り、38歳で世を去った2009年、その二年後に臨界は、予兆というにはあまりに激しい地震と津波によってもたらされた。)
プラスチックの溶けた滴をしたたらせひとりひとりのキューピーの死よ   Ⅰ
 キューピ-は沢山死んだのだ。だから、「ひとりひとりの」と言わねば(ここに漢字を当てるなら、「一人一人」よりも「独り独り」の方がふさわしい気がする)、あっという間に只の数字になってしまう程の類型的な死である。キューピーとは類的な果てしなく取り換えの利く存在であって、だから子供たちは何の罪悪感も無く、キューピー人形を火中に放り込んで、微笑んだまま溶けてゆくそのデクノボウさを楽しみ、惨めな我が身に重ねて慰めを得る。
 七十年前は大空襲で、また原爆で、爆撃機から見れば全く類型的な存在に過ぎない人々はプラスチックではない血肉を沸き滴らせて一人一人が孤独に死んでいったが、それは戦争という津波から見ればキューピーの死と、或いは手も足ももがれた丸太が焼けるのと何ら変わりない。
罪ならば 九段下より市ヶ谷へしずしずとゆるき坂を上れり    Ⅰ
 九段下には靖国神社があり、市ヶ谷には東京裁判の舞台となった大講堂があり、自衛隊の駐屯地と基地がある。作者は死者の領域から戦後の生者の領域へと坂を上ってゆく。黄泉平坂を昇ってゆくのだ。「罪ならば」とまず罪を背負い、それから空白一字分躊躇して、傍目には重荷を重荷と感じさせない姿勢で「しずしずと」儀礼のように上るのだ。それは快速電車の速度でもなければ、郊外電車の速度でもない。
個人の、生身の速度だ。もはや戦後ではない 青い青い青いそらひくひくとゆるい痙攣     Ⅰ
 昭和31年経済白書の「もはや戦後ではない」という、神武景気真っ只中における宣言の後、同じく一字分の空白が置かれるのはやはり作者の躊躇であろう。かの宣言に訝しみ躊躇して、「青い」を三度積み重ねば我慢できぬほど、それは屈託ない上に惨たらしく更に無関心に青い空であるが、その空がひくひくと痙攣するのを見る。(もしかすると「そら」は「空」ではなく、「そら、御覧」というような呼びかけなのだろうか。その場合、ひくひくと痙攣するのは「空」ではない何か、空に似た何か他のものなのだろうか。)先の歌の、坂の「ゆるき」傾斜と同じく、電車の速度からは遂に認められぬほどの「ゆるい」痙攣だ。その痙攣を認めぬ態度こそ、戦後のアイデンティティーではなかったか。
類的な存在としてわたくしはパスケースから定期を出した    Ⅱ
 個人は電車に乗るのだ。電車の速度で認められぬ物は認められぬままに、そのように否認し続ける日常を反復して移動する為の、定期という便利さを、個人は、自らを類的な存在として提示する為に、真四角の日常の檻のようなパスケースから出すのだ。
戦術としての無垢、だよ満員の電車を群集とともに下車する   Ⅰ
 だから無垢、なんてものは信じない。無垢が「何かを疑いも無く信じている」意味というのなら只の愚昧であるし、信じている振りをしているなら集団におもねる戦術であろう。無辜なんて概念も信じない。無辜の民など存在した例がない。垢のつかない魂など存在しないなら、辜無き、罪無き者も存在しないだろう。それは集団の中で生き延びるための方便なのだ。作者もまた何事も無く群集と共に日々下車する為の戦術として無垢を使っている事を意識する、それは即ち無垢でない主体を自覚するという事だ。
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に  Ⅰ
 無垢でないとは、強迫神経症的に何かを信じる振りをしていることで、そう演じ切るために、多くの者は死んでも良いとさえ思いつめ、例えば牛乳は飲めれば良いのだが、かつては空の瓶を提げて農家へ貰いに行った筈の牛乳は、今や能う限り無菌のパックに詰められ、恐るべき無駄な完璧さを夢見て開けねばならず、もうそれだけで死の終点を思うほど細心の注意を払って形作る菱形の口は、なんという幻の信心だ。「二元対立に収斂される如何なる倫理も正義も信仰しない。無垢であり、無畏であるから」となぜ誰も言い得ないのか。
「桜井君傘の下には告ぐるべき者などいない。東へ行こう」    Ⅰ
 ここに出て来る「桜井君」とは、Ⅲにおいて次の如く詠われた桜井君であろう。
したり顔する 価値を裏返すことなど簡単さねえ桜井君      Ⅲ
 桜井君は、例えば作者が「何ものにも価値など無い。価値とはいかようにでも狂信できる」と自意識のしたり顔に隠して、哭くように呻くように嘲笑うのを多分黙って聞いている。桜井君は盟友だ。作者に「東へ行こう」と誘われているからだ。傘の下に居る者達に告げる事、その事にうんざりし、作者は桜井君だけを誘う。「傘」に戦後の日本を見たって良い。例えば、核の傘を。要するに、システムの傘だ。西は、否、浄土がその方にあるなどとは信じない。北は、否、パウル・ツェランのように「未来の遙か北の川で網を打つ」ような癒し難い傷がある訳ではない。南は、いや、そんなに陽気には生きられない。だから、せめて夜明けの方へ行こう。希望があるわけでもないが、少なくとも朝焼けのこの世ならざる恐ろしさを常に含んでいる方角へ。
そののちの朝焼けの中日常に似た場所ばかり踏んで帰った     Ⅱ
 「そののち」とは何ののちなのか、明示されてないが、「日常に似た場所ばかり」を確かめるように踏んで帰路に選ぶのは、日常を懐かしんでいるからだろう。その後にも確かに日常があれば、懐かしむ必要はない。だから、「そののち」に、日常はもはや失われている。「その」事は夜にあったのだ。その後の朝焼けである。
それは極めて個人的な事かも知れない。或いは世界の破滅かも知れない。個人にとってはどちらでも同じことだ。取り敢えず、その事の後、日常は非日常となった。個人の日常が消えた時、その個人の見る世界もまた日常ではありえない。この歌の後に来る歌で、
ぼくたちはゆるされていた そのあとだ それに気づかずいたのも悪い  Ⅱ
この「そのあと」と、先の歌の「そののち」が重なるのだ。この歌に匂う、言い訳も何も最早空しい状況、そんな状況下に尚も許されていた「ぼくたち」、絶望的に許されていた「ぼくたち」、そんな風にとっくに崩壊したかもしれぬところに気づかずにいたのは、「ぼくたち」の悪さであって、もうそれはどうしようもない。「それ」とは何を指すのだろうか。許されていたことか、それとも許されていた後に起こったことか。恐らく、その両方だろう。
始発電車の入線を待つ朝霧に問ういつまでの執行猶予     Ⅱ
 先に挙げた「未決囚」の歌の舞台も電車だった。ここでは始発電車の入ってくるまでが執行猶予であるような印象がある。電車と審判は作者の中でどのような関係にあるのか。電車は地に沿って速度を形作るのだが、次の歌では速度は下へ向かって形作られてゆく。
落下する速度のままの三月は青 渦をなす真鴨は悲し   Ⅱ
 三月、海を思わせる青、渦をなす真鴨、その真鴨を悲しいと観る眼。この歌は2011年の大震災の十年以上前に作られたのだ。作者は何らかの外部に自分を置くことにより未来を見たのだろうか。
雨、うすきテントを叩く外部とは徹底的に外部であった      Ⅰ
 薄いテントは、まるで作者の魂の皮膚のようだ。作者はテントではなく、従ってテントの内部もまた、作者の体から見れば外部である筈だが、この場合、作者は、己が肉体の外からテントの内までをも、内部と感じている。生きとし生けるものの世界を内部と見たときに、「外部」とは何だろう。その「外部」、誰がどう見ても「徹底的に外部で」ある「外部」、多分、或る恐るべき冷徹さと客観性を持つ「外部」から雨として、世界の皮膚を叩く、それはどんな啓示だろう。
衣ずれの音遠ければ地表とも判別できぬ肉塊に触れ      Ⅰ
 衣の下には肉体があり、この衣擦れの音は、衣と皮膚の境界を認識する音か。その音が遠い、とは如実に感じられぬ、の謂いか。人間とは肉塊だ。生きていようが、死んでいようが。地表とは地の皮膚であり、人間の生存圏だ。その環境、その共同体と判別できぬ肉塊が君であり私であり、触れて、その後、触れた体は触れられた体を、地表と判別できるのか。その自信がないから、作者は詠うのだろう。そう詠いながら、一方で、触れられた君の眼差の裏で、触れた側である私は、如何なる像として結ばれているか。
手触れ得ぬ君の眼窩の裏側を思うあら煮の身を削ぎながら     Ⅰ
 例えば、鯛のあら煮の一番旨い処は、目玉の裏側だったりするわけで、其処を求めてひたすらあら煮を分解していったりする。目玉の裏側が旨いのは、観た世界が悉く其処に像を結んでいたからか。深海魚である鯛の見て来た世界がどのくらい鮮明であったかはわからないが、人間の文化はその90パーセントが視覚文化だ。その眼球を支える眼窩の更に裏側にあるのは、脳、の筈だ。それとも、眼窩の裏側には「手触れ得ぬ」空のようなものが広がっているか。それでも、「心は無常である」と理屈ではわかっていても、空(くう)と呼ぶには、あまりに癒し難い想いが、君の奥にも私の奥にも持て余すように燃えているはずで、
埋み火を抱くがごとき夜半過ぎの空(くう)より空へ移る想いよ   Ⅱ
恃むべき思惟のあまりに細ければなおも削らん血しぶくまでを    Ⅱ
 恃み甲斐の無い自らの思惟を、その細さを逆手に取るべく、血しぶくまで徹底的に尖らせてゆけば、その細さゆえに、いつか世界を深々と貫けるだろうか。その時の血しぶきは私のものだろうか、それとも貫かれた外部あるいは生きている者たちの世界あるいは君のものだろうか。
加速してゆく感触のない量の記憶地平をかすめていった     Ⅰ
 地平をかすめるのは電車か。もっと絶望的に速い乗り物か。世界を覆う網の爛熟に伴って、加速度的に増殖する情報を速度あるものに喩えているか。その状況において、自らの固有の記憶と他者の示す情報との境界は果たしてあるか。
ご破算で願いましては積み上げてきたものがすべて計量される日    Ⅰ
 審判の日、怒りの日を思わせる。死後の天秤による計量を思わせる。そこで計量されるのは、自身だけでなく、今や自身の体験と分かちがたく融け合った他者の情報であろう。私が裁かれるとき、世界もまた裁かれるのだ。
水平に切ればいいのさ地表からすこし浮かんでいるあたりをね     Ⅰ
 「地表から少し浮かんでいるあたり」という表現を、肉体に根付いていない諸々と取ることも出来よう。「そのあたりを」水平に、公平に平等に死神の鎌を使う如く切れば、溢れ出すものは血肉でも叫びでもなく、自他の見分けのつかぬ情報の集積か。
ミートパイ 切り分けられたそれぞれに香る死したる者等の旨み    Ⅱ
 ミートパイの中にある肉は挽肉であって、それは最も個性無く平等に均質化された死体だ。それでこそ自在に切り分けられるし、平等に或いは何らかの価値基準によって大きくも小さくも切り分けられる。パイの中の「挽肉という死」によって大きさが決まる訳ではない。
 支障なく切り分ける為に、死とは思えぬほど均質化され薄められた肉は、あくまでもナイフを入れる者の嗜好によって切り分けられる。それでこそ現代の死であり、そうなってこそ死は香り、旨い、と鑑賞され享受される、とは、なんと皮肉な挽肉だ。「ミートパイ」の後の一字空けは恐らく「即ち」という思惟だろう。
 ここで2001年の貿易センタービルのテロにおいて、挽肉状になった犠牲者たちを思い、更にその犠牲がすぐさま巧妙に中東への空爆へ、軍産複合体の商売の旨みへと利用された事を思うも可能だ。空爆とは均一化された死の演出である。そして切り分けられるのは死だけか。勿論、生が、生を囲む環境が、あまつさえも空までもが情報として切り分けられ得るから、
うつくしく生きよ 見上げる青空を縦横無尽に走る電線     Ⅱ
 それはかつて「3番線」の歌以前の、いささか箴言的に走ったⅢ部の歌群の中で、次のように詠われた青空だ。
完全にましかく切り取ったあとさえ見えないような青空ばかり  Ⅲ
 今は空を分断する電線が見える。あのころは「うつくしく生きよ」なる声は聞こえなかった。今はその声が聞え、一字分の空白という自己確認の後、その声に従おうと思った。電線は美しいのか、それとも電線が美しさを阻害しているのか。このままで美しい生と信じたい者達には電線は美しく見えるだろう。美しい生が現在は無く未来に憧れるのなら、電線は縦横無尽に目につくだろう。
早送りの時のただなか声もなく少女悍馬のごとく上下す     Ⅱ
 この歌の前に「顔のない少女のひとりあゆみ来て葵みのりと名乗り出でたり」「カセットを入れその刹那受像機に映る青色 その青苦く」が、この歌の後には「受像機に映る裸体の少女への距離あまりにも遠し 霜月」がある。「葵みのり」をネットで検索すると1980年生まれのAV女優がヒットした。この歌が詠まれた当時は20歳くらいか。写真を見ると、顔も体も幼げな風情の子だ。「葵みのり」とはよく出来たネーミングで、「青い実り」なる意味かとも思う。男に馬乗りになっている葵みのりの映像を早送りして観た情景か。声をカットされ、有り得ない速度で上下する裸体の少女は、この世の者ではないような印象を受ける。速度を高めることにより、人間の行為はこの世に属さなくなるのか。それを「悍馬の如く」と、逞しく強いものとして詠った処に眼目がある。先に挙げた電車の歌群、その中でただ電車の速度に身を任せている者達の無力感と比べ、所作を早送りされている少女は如何に超越的か。その肉体の輪郭のぶれる有様は、電車の振動と似てはいないか。仮に電車の速度に匹敵すると仮定すれば、その速度は、無防備な少女の最も剥き出された行為に導入されるとき、人を超えた猛々しさを発するという事だ。只、この歌の前後に見られるように、この葵みのりには顔が無い、その少女の動きだす世界にはまず苦い青が一面に生じる、そして作者と少女との距離は「霜月」の如く冷たく「あまりにも遠」い。
階段を昇る少女の膝の裏、他者、他者たちはあまねく白く      Ⅱ
 少女の後に付き、階段を昇る時に目につく、かの膝の裏はエロティックであるはずだ。「他者」と二度続けるのは、一度目の他者は「少女の膝の裏」であり、二度目の他者はその膝裏を扉として遍く繋がる他者たちであり、そもそもエロティシズムとは何だろう。それを秘所への憧れと言い換えるなら、他者の魂への憧れであり、この場合は少女の魂への憧れであり、少女は他者への扉であり、他者の代表であり、その代表者が、その膝裏という秘所が白いなら、作者にとって世界の全ての他者は白く、では自らは白くないから白を認識しうるのか。他者が空白として白いなら、自らはその空白を埋めるべく、思惟にぎっしりと埋まっているのか。
たてがみのとぎれるあたり耳伏せてソヴィエトスターとおれを呼べ、とは  Ⅱ
「題詠 耳」の前書きがあるから、歌会で作ったのだろう。見事な傾奇振りで、鬣のある生き物は獅子でも悍馬でも良いが、猛るものを思わせる。脳髄に収まりきれぬ思惟が猛るままに一斉に頭蓋を突き破り、生い茂ったように見える鬣、その鬣が途切れるあたりに付せられた耳は、思惟の果ての含羞か、罪の認識か、己が猛りに対する冷めた姿勢か。ソヴィエトスターとは、また傾奇切ったものだが、この当時とっくにソヴィエトは崩壊している。ソヴィエトスターはその語感から「聳えた星」を想起させる。その星は幻で、無残に潰えた理想であり、潰えた後も蜿蜒とその失敗を誤魔化し続け、ついには二万年の惨禍であるチェルノブイリを残して崩壊した。では、その星とは黙示録中の「にがよもぎ」という星なのか。「、とは」と最後に置いた瞬間、この「おれ」は作者ではなくなる。作者はソヴィエトスターから幽体離脱して、その無惨な傾奇振りを眺めている。
赤旗は上がっていない踏み切りは完全だでもどこに落ちよう    Ⅰ
 この「踏み切り」は電車の「踏切」であると同時に、作者の跳躍の前の動作としての「踏み切り」でもある。赤旗が上がっていない事、踏み切りは自分にとっては能う限り完全なフォームである事、同時に電車の踏切は完全に閉じられている事。(ここで電車の踏切が「完全だ」とは、閉じられているか開いているかだが、ここでは閉じられていると読みたい。踏切が閉じられていることにより、電車はその速度に異常を生じずに近づいて来られるからだ。)それだけの条件が揃っていて、しかし踏み切ったその先が見えない。死へ落ちたい訳ではあるまい、敢えて推し量るなら、真の「革命」へでも落ちてゆきたいのだろうが、その種の言葉たちが掲げてきた理想が悉く嘘に満ち腐臭を放ってきた事に、もはや飽き飽きしている。
絶唱と思う叫びが突然の咳で中断された、あの感じ      Ⅱ
 だからこそ、あらゆる絶唱は白々として、異物を排斥するための「咳」という生理現象を既にその裡に含むのだ。「、あの感じ」とは、生の、読点をどうしても含まざるを得ない、あの感じだろう。絶唱の後も、読点としての明日は来て、飯を食わねば生きられない、あの感じ、明日も電車に乗らねば飯が食えない、あの感じだ。絶唱を中断するものとは、明日を手に入れるために白線の内側に「下がる心」であり、その己が怯懦を肯うために、咳という生理現象を以って「下がらない心」を嗤う、肉塊の惨めな自己防衛でもある。ここで史記列伝に出てくるような烈女、例えば弟の死を悼むあまり、泣き死にした姉の偉大さを白々と眺めている人々の眼差しを、作者が感じていたかどうか。だが、世に絶唱というものがあると信じたくなければ、わざわざこのように詠う必要もあるまい。
意味あまた中空に浮く 花火大会に擾乱などを思えば     Ⅱ
 ここでも作者の捩れた含羞は顕れている。「擾乱に花火大会などを」思うのであれば、「意味あまた中空に浮く」のは取り敢えず納得できる。それは擾乱というものを冷酷に見ている姿勢だ。花火大会は擾乱ではない。予め安全に企画された娯楽だ。擾乱を娯楽と思う冷酷さがあれば、意味あまた中空に浮き、中空に帰すであろう。一方で、「花火大会に擾乱などを」思うのであれば、それは擾乱というアナーキズムの幻を美しい花火に託して、日常の裡に希求しているのだ。「意味」とは、花火として束の間具現し、しかしどう願おうとも花火として跡形なく消えるものか。意味が中空に浮くことへの苛立ち、その焦燥が遂に諦めに代わる事への承諾。
スローガンを叫び続ける生活が来る甘受する生活が来る    Ⅰ
 スローガンを叫ぶとは、騙されている事に対して盲目であり続ける事だ。共産主義革命と大本営発表と右上がり経済と、この三つが全く変わらない事は、90年代以降を生きてきた者なら、知らない方がおかしい。「スローガンを叫び続ける」と「スローガンを甘受する」とは実は等しいのであり、作者が何よりも拒否したかったものとはスローガンというわかりやすさか。(そのスローガンが、全体主義あるいは革命へ向かうものではなく、ささやかな日常の幸福に自足する明るい主体を称えるものであったとしても。)スローガンとは、進行する共同体という電車の騒音であるか。
わかりやすさを打ち破れ理解には甘さも柔らかさも付随しない      Ⅲ
全体を蔽いすべてのまなざしをそらすもの ことばはそのものだ     Ⅲ
ひとことですべての闇が消えるかのようなデマゴーグが流布している   Ⅲ
マニュアルのとおりに解読されているわかりやすさという物語      Ⅲ
 ⅠとⅡに比べれば、あまりにもナマで殆ど箴言に等しいこのⅢ部に90年代以降の絶望は示されているだろう。言葉が思考であるのなら、あらゆる思考が、己が業(カルマン)の範囲内を巡るものに過ぎぬゆえに、信用するに足りない事は、この時点で彼には明白だったか。
そのままの速度でよいが確実に逃げおおせよという声がする       Ⅱ
 この場合、逃げおおせよ、とは、おそらく「立ち向かう」と等しい拒絶だ。そのままの速度で良い、電車の速度にもメリーゴーランドの速度にもならぬことによって、「確実に逃げおおせよ」。だが、
いつもどこかにある中心者に見つめられながらぼくらは生きてゆく    Ⅲ
とりあえずこの場に置いた石ころを世界の中心として定義する      Ⅲ
 中心者とは何者でもない。中心とは空っぽの玉座だ。その上に石ころを置けば、すなわち石ころが中心となろう。いや、何者でもない者などこの世にもあの世にも存在しないとすれば、中心者とは特異点であるか。ブラックホールとホワイトホールの隙間なくぴったりと合わさったその一点に定義される者か。そこに全てを公平に観ている眼は、誰のものでもあり誰のものとも定義できない眼だ。
中心で焼かれる牛の脊椎の白さよゆるく海風が吹く           Ⅰ
 その中心に生贄のように焼かれる牛は作者ではないかもしれない。その牛の脊椎の白さは作者の思惟かもしれない。作者の見る白い他者たちかもしれない。何か取り換えの利かない大事なものが、取返しもつかず容赦なく焼かれてゆく。そのむごたらしい、いたたまれない白さを紛らわせるためか、軽く見なすためか、「ゆるく海風が吹く」。きっと生臭いだろう。
ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ    Ⅲ
 最後の「こわ」の後に続いたかもしれないものは、本当に「れてしまった」だろうか。そう信じるのも、一つの安心である。昨日の次に今日が続き今日の後に明日が続くと信じたいのと同じ安心だ。例えば、「こわい」だったかもしれない。壊れてしまったことを怖いと言うことは怖いのでそこで思考停止してしまえば怖いと言ったことにはならないがそもそも壊れてしまったのは「ぼくたち」という集団であって僕個人と言ったわけではない。この歌は、制作年順から言えばⅠ部の前に来るものだ。壊れたレコードのような、壊れた状態を反復したまま危うい安穏さを維持しているのが、ぼくたちという時代の精神であって、それを皮肉を以って詠った後、中澤系は「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」と詠った。壊れた状態のまま或る一定の速度で反復している現時点から、その速度を超えるために、快速電車の近づきつつある速度が導入される。更に快速電車の速度に働きかけるために「理解できない人は下がって」という、一見「立ち止まれ」または「後退せよ」という命令に思える、ぴしゃりと遮るような、うんざりして放り出す直前のような響きの台詞が導入される。その台詞を理解できる人は、下がらないなら、どうするのか。
不完全さにとどくはず耳たぶを嚙みしめようと思って止めた        Ⅲ
 噛み締めたいのは自身の耳朶だろう。それは体の構造上、初めから無理な事だが、「とどくはず」と作者は確信している。耳朶にではなく、「不完全さに」。噛み締めたいのは耳朶ではなく、本当は「不完全さを容赦なく体感する試み」だろう。それを体感する事により、不完全さを超える、つまり本当に耳朶を噛み締めることが出来るかもしれない。
世界とはあまりに高き熱量をもてみみたぶを切り落とすもの         Ⅱ
 この「世界」とは、日々電車に乗るための方便として取り敢えず安易に認識されている世界ではない。人は自分と同じ熱量の領域しか見えないものだ。世界をより見抜くためには、より熱量が要る。世界に肉薄する熱量を個人が持つことは可能か否か。その熱量に晒される事の痛み、それは歌を詠む動機でもある渇きといって良いだろうが、それを「理解できない人は下がって」、日常と思い込みたい何かを生きるが良い。だが、理解できるなら、耳朶を切り落とす新しい言語を聴け。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
 なぜ3番線なのだろう。3とは完全な数字、揺るぎない安定の数字だ。三位一体を、或いは三権分立を、或いは三世の毒を思っても良い。世界の構造を象徴し体現する最小の数字が3である事を考えるなら、その線を疾駆しホームを通過する電車は、恐らく誰にも止められない。ホームに佇む者にとっては乗ることの出来ない電車であり、乗客にとっては降りることの出来ない電車だ。
 そのことをホームにおいて理解した者は、下がらずに跳躍するだろうか。未決囚が、キューピー達が、真鴨に似たものたちが、顔のない少女が、次々と跳躍し、空しく血泥と化すだろうか。何人かが、何十人かが、何百人かが挽肉と積み上がった果てに、遂に肉塊の山に阻まれた電車は自らの速度に内攻され、M字型に折れ曲がり、開脚を晒すように、その秘所から擾乱を花火を奔らせ、ミートパイの焼けるに似た焦げ臭い粉塵を巻き上げる。脱線直前にホームから最後に跳躍したものは、先行した者達の血の驟雨の森に守られ、青い実りとして血泥を躍り上がり、悍馬の速度で電車の血しぶく頂きへ、聳え立つ星の思惟の臨界の只中に、「逃げおおせよ」とも聴こえる響きを以って、「うつくしく生きよ」と。かつて誰も噛み締めたことの無い、聴く者の耳たぶを切り落とす、全く新しい言語によって、朝焼けへ絶唱するだろうか。
 そんな地球最後の日を、快速電車が通過する轟音の数秒に夢見て、懐かしいと気づく。懐かしいのは、1999年にノストラダムスの大予言が見事に外れるまで、誰もが胸底で来たるべき滅びに戦きつつも安んじ、滅びの予感を舌なめずりして楽しみ、深淵から叫ぶように滅びを希んできたからではない。懐かしいのは、繰り返し繰り返し、この肉体は滅び、この魂は分裂し、世界もまた滅び分裂してきたことを、私の深奥に在る中心者、或いは特異点が見てきたからではないか。
なつかしき地球最後の日をぼくはあしたにはもう去らねばならぬ      Ⅰ
 いつも最後の日だった。滅びは今や懐かしく覚えるほど、幾たびも予言され、囁かれ戦かれ期待され希求され、今日と同じく明日も最後の日だろう。その構造が理解されなくとも、あまねく白く晒される日には、もはや告ぐべき者には告げた。中澤君、東には何が待つのだ。

短歌評 短歌作品と散文構造――岡井隆『現代短歌入門』を入口に 添田 馨

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 短歌と俳句そして現代詩(口語自由詩)、この三つの異なる表現形式について、これまで横断的に考察したことがなかった。ひとつには、そうする必要が差しあたって私にはなかったからだ。
 一方で、私は詩の書き手として、この国の近=現代詩、ことに戦後現代詩(この呼称にも若干抵抗があるが、いまはこの単語を使う)の在り方を、批評する行為をとおしてずっと追求してきた。しかしながら、それと並行して戦後の短歌あるいは俳句の歴史について、相互に照応させることも対向させることも、一貫してやってこなかった。
 これは果たして私の手落ちだったのだろうか?
 ただ、言い訳するのではないが、周囲を見回してみると、短歌評と俳句評そして現代詩評を、おなじ批評原理おなじフィールドで同時進行的に実践している論者は、これまでも今もほとんど確認できていない。ということは、つまり、そのような取組みはあまり行われてこなかったのだと考えていいだろう。
 実は、その理由を考えることが本論の目的ではない。しかしながら、抑えておくべき前提事項であることは間違いないことのように思えるのだ。

 私は短歌論に関してはずっとながいこと門外漢であり、はるかに遅れてその考察に手を染めることになった身であって、何かまともなことを語れるかどうか、まったく保証の限りではない。わずかに文学的な関心というより社会思想史的な関心から、連合赤軍事件の主犯のひとり坂口弘死刑囚による獄中短歌の考察を、それこそ徒手空拳でやってみたことがあるくらいだ。(注:「短歌作品と散文構造―『坂口 弘 歌稿』を読み解く」「詩客」短歌時評 2015年2月5日)
 だが、その結果、自分なりにひとつの知見を得ることもできたのだ。
 まずやってきたのは、坂口死刑囚の短歌作品を、その背景にある散文構造を抜きにして、作品単体として美的に読み解くことは不可能であり、またそれは意味がないという直感だった。それには、概ねふたつの明確な理由があった。
 ひとつは、坂口死刑囚の短歌作品のどれもが、「あさま山荘事件」や「山岳ベース事件」で、自分が人を殺めてしまったという重い事実からくる暗い抒情性を、その本質として持っていたことによる。作品創作の背後に横たわるこうした現実体験をまったく無視して、これらの作品評価を行うことは、文学の批評云々以前に、言説としてあり得ないことだった。
 理由のもうひとつは、それらが獄中作品だったことである。つまり、作者が投獄されているという背景事情が、作品成立の原理的な前提条件にもなっていて、そのことをも含み込んだ評価がなされるべきなのは、他に選びようのない必然的な道行きだったということである。
 こうした事情は、作品を成立させている不可視の散文構造が、短歌作品と一体化してすでに切り離せない位置関係にあるという認識を私にもたらした。私はこの散文構造をフォーマット(型式)と呼ぶことにしたのである。つまり、五七五七七の短歌のフォルム(形式)と、概念的に対応させる意味で、この表現を採用した経緯があった。

 現在、私の現代短歌に対する最大の関心事は、それがいかなる体勢によってこの現実世界と戦いうるのか、というドラスティックな傾きのものである。短歌・俳句あるいは現代詩を問わず、およそ詩文学なるものは、それみずからの発生根拠に立って、世界との拮抗関係によく耐えるものでなくてはならないと思うからだ。
 今般、あらためて短歌について考察するにあたり、岡井隆『現代短歌入門』(講談社学術文庫)を入口にして、そのありうべき方向性をまさぐることにした。というのも、短歌において現れている固有な問題性をまずは押さえたうえで、理論的普遍化への契機をさぐる必要があったからである。
 ところで、岡井隆の入門書を一読して驚愕したことがある。それは、私が坂口死刑囚の獄中歌に接してつよく感じた、五七五七七のフォルムの背後に沈む散文構造と、その構造が個々の短歌作品に対して否応なしに迫ってくる主題化の要請とが、すでに1961年の時点において岡井が「主題制作と連作」(初出「短歌」1961年8月・角川書店)というテーマに託すかたちで、正確に問題化していたことだ。

…わたしたちは、特殊な場合をのぞき、ほとんど必ず、数首の作品を同時にならべて発表し、同時にならべて読むのです。いかに作者が、第一首と第二首は、まったく切りはなして読んでほしいなどといったって、いやおうなしにそれらは相互に干渉しあいます。二首目は一首目の存在によって影響されざるをえないのです。つまり、数首の歌は、寄り合うことによって、一つの磁場を形成し、互いに他にその磁力を及ぼし合うわけです。
 ここから、逆にそういう磁場ができるのなら、その「場」の持つ性質を知って、それを利用することができるのではないか、という考えも、ごく自然に生まれてきます。
(「第八章 主題制作と連作」138~139頁)

 門外漢の目からすると、なぜ殊更に短歌の連作が問題にされなければならないのか、との思いを禁じ得ない。当時の歌壇においては、「連作の弊害は一首の独立性をあやうくする点にある」(同前130頁)といったドグマが支配的だった事情もあったという。つまり、連作は一首の独立性の希薄化をまねく、あるいは一首の表現価値を減じるという、それは思想だった。
 「連作」とは、この場合、私が言うところの不可視のフォーマット(型式)を指していると考えられよう。あるいはそれは、具体的に明記されていない背景的な主題のことだと言ってもいい。
 とすると、上記のドグマは、フォーマット(型式)が強化されるところでは、形式(フォルム)の弱体化、つまり短歌文学の衰弱が起こるのだと言っていることになる。
 しかし、実作レベルにおいて、そのような事態は招来されなかったというのが、率直な私の実感である。その証拠をあげられる段階にまで、現在の短歌の表現水準は間違いなく到達していると思うからである。
 私が坂口死刑囚の短歌作品において確認したのも、まさにそのような表現水準であった。つまり、〈短歌〉というフォルム(形式)と〈拘置所〉というフォーマット(型式)が協働しあって、相互的に自らの表現価値を高度化させている姿がそこにはあったのだ。

 このように考えてくると、ひたすら横へ横へと詩行が加算されていく現代詩(行分け詩)と、独立した一首がこれも横へ横へと並列されていく連作短歌とが、どこかで微妙な接点を持つのではないかとの予想が、否応なく惹起されよう。
 昨年この場所で連載した俳句論において、私はこれとよく似た問いを立てたことがある。(「俳句作品と配列―齋藤愼爾句集『永遠と一日』から」「詩客」俳句時評2015年4月30日日記)すなわち、百個の俳句作品を眼前に並べたとき、それを個々に独立した作品のたんなる群れとして読むべきなのか、あるいはそれを百行の行分け詩を読むように、何らかのまとまりとして読むべきなのか、という問いである。
 無論、これも簡単に正解がだせる問題であろうはずがない。ただ、作品享受の生理として、私自身は百の俳句のうち、琴線に触れた何句かをとりわけ強く印象づけられる結果、自分で無意識のうちに任意のフォーマット(型式)作りあげてしまい、それに、ついついその何句かを選択的に嵌め込みながら読んでしまうという傾向が生じることを指摘した。そしてその点に、百の俳句と百行の行分け詩とが、限りなく至近していく原理的余地をも残しておいたつもりである。
 それと同様のことが、果たして短歌を読む場合にも起こり得るのかどうか。この問題を考えるには、短歌と俳句の若干の性格の違いについて押さえておく必要があろう。
 あくまで直感的な言いかたになるが、俳句が〈超出〉を基本性格として持つのに対し、短歌は〈回帰〉をその基本性格として持つと私は思っている。なぜなら、短歌の場合、最後の七七が着くことで、作品としての完結性が、俳句にくらべてより強固に呼び込まれると推定したからだ。このことは、言い換えれば、ひとつの作品として見た場合に、短歌のほうが俳句よりも作品としての自律の度合いが強い、つまり一首と一首の間の裂け目が深い、ということを意味するだろう。
 岡井隆は『現代短歌入門』のおなじところで、この問題についても言及している。

 短歌は、いかに核となる作品とその随伴作品が、続いて成立することが多いといっても、やはりもともとは、一首一首、彫りあげていくほかありません。連作といっても、それが、単作の集束である点では、なんでもない群作と表面上のちがいはありません。とくに、意味内容の上で、一首の独立性(あるいは単作性と呼んだほうがいいかもしれません)を稀めていっても、リズム上の完結感は、のがれるべくもないのです。短歌連作が長歌とも、俳句の連作とも、連歌とも、現代詩とも異なっている点は、
  五、七、五、七、七、
のリズムの、とりわけ下七七の反覆性がじゃまになって、短歌連作を、切れ目のない一つながりのリズムの流れにはさせない点にあります。一首独立性と連作を背反する概念としてとらえようとする、根強い連作排撃の論は、この七七の反覆が生む重い終結感に根を置いているともいえます。
(同前156頁)

 本論の関心のもとにこの問題を改めて捉え直すなら、連作化がもっとも難しい、つまり主題化することが最も困難だとみなされる短歌は、現実世界との戦いにもっとも相応しからざる詩的表現形式だということになろう。
 だが、果たして本当にそうなのか?
 現実世界とは、この場合、散文構造として文学の内部に侵入してくる、生々しい世界の暴力性のことにほかならない。そして、短詩型文学の表現において、その受け皿となるべき対応物が、名に見えるかたちでは記述されない散文構造つまりフォーマット(型式)であった。だが、フォーマット(型式)とて不変の構造であるわけではなく、フォルム(形式)の持つ諸要因、特に五と七の組み合わせが作りだすリズムの新しい衝撃波によって、相互に鍛えられ、また変質しうる性格のものでもあるだろう。
 であるならば、この問いへの答えは、短歌創作の実践の大海のなかに、個々具体的に探っていくしかないだろう。つまり、机上での思索によってはおよそ検証できない領域に入っていかざるを得ないだろう。
 吉本隆明は、かつて、その「短歌命数論」を「定型短歌としての将来の短歌形式を、内容の面から規定するのは、日本の他の詩形の場合と同様に、散文的発想である」と結んでいる。短歌が世界と戦う文学的抵抗を、表現の原理として打ちだせるとしたら、それは散文的原理によって初めて可能になるという大いなる逆説が、実作上で果敢に実践されたその時だろう。1957年に吉本が遺したこの言葉は、恐らくそのことを今も暗に告げていると、私には聞こえるのである。
(続く)

短歌評 短歌を見ました(1) 鈴木一平

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 このたび、俳句から短歌の方へ異動になりました。今後とも、よろしくお願いします。俳句についての評を書いていたときも、あまり準備をせずに作品を読んで、書きましたが、今回も似たような感じでいきたいとおもいます。

 ひかりほどのおもさをうけてちるはなのはなのひとつのまだちらぬとき
渡辺松男『雨る』(2016年)

 技をいくつも重ねた感じがいいですね。葉が落ちるときよりもかるさがある落花の仕草が、「ひかりほどのおもさ」と表現されているところで、花に重さを加えているものはなんなのか、という疑問を呼びます。実際のところ、花は花の重さで地面に落ちていくわけですが、それを「ひかりほどの」とぼかされると、この花を見ることをそもそも可能にさせていた(花が、見えとしての花を私たちに提示することを可能にさせる)光の存在が、花そのものに染み込んで、その重さで花が散るかのような認識を与えてくれます。ところが、この歌は散る花を受けて詠まれたものではなく、そのような花が散らずにいる時間を主題としています。すると、「ひかりほどのおもさをうけてちるはな」という言葉がそれ自体で花が散っていく際の時間を歌ったものとして、了解していた情景が巻き戻されていくような感じがします。もう散ってしまった花の、まだ散らずに咲いていた頃の時間に対する想起を巻き戻す。それは、「ちる→はな・はな→ちらぬ」という、鏡合わせの配置が下支えになっているともいえます。上から下に読んでいく過程が語の配置においても遡られることで、巻き戻しの感覚が強くなるわけです。

 蝶の髭うすきみわるく見えしときの見えてしまひしうすきみわるさ

 この歌集は、そうした鏡合わせの反転を狙った作品がいくつか見受けられますが(ほかに、「であふまへすでにであひてゐしごときさゆらぎの翠陰につつまる」など)、この作品は、読んだ時間の巻き戻しの効果を引き受けつつも、「うすきみわるさ」を懐古するなかで主題として引きずりだすような仕草があります。薄気味悪く見えたのは、蝶の髭がうすきみわるいからというより、蝶の髭とは無関係に、うすきみわるさそのものが客観的なものとして存在しているからだ、という認識が、ここにはあります。蝶の髭にうすきみわるさを見いだすのは主観かもしれない、けれど、うすきみわるさがそこにあることは客観的な様態としてあるはずだ、と。この作品は対象から受けとる感覚そのものの、理性による制御の不可能性を逆手に取っているともいえます。一方で、ここには対象と対象のもつ属性との分離があります。

 葱の香に葱そのものが負けてゐるわらつてはゐられないさみしさだ

 対象と、対象の属性との分離は、言語の存在が可能にした操作です。対象の知覚が、対象がもつ性質の総和の、あるいは対象を原因にもつ性質の総和の知覚であるなかで、それらを切り分け、別のものとするデジタルな操作は、対象とその性質との関係を揺らがす起因をつくります。この作品における「さみしさ」とは、おそらく言語が担う分節のさみしさであるのかもしれません。本来なら、葱とその匂いを分けるという認識そのものが言語を経由しなければ成り立たないからです。こう読み解いてしまうと、「さみしさ」の配置がすこしつまらなく感じてしまいますが。

 不発弾処理せしのちのごときなるあかるき穴はなぜに掘られし

 むらさきは虹のいちばんうちのいろ地上のこゑのさいしよにとどく

 狂人とひとに言はれてゐるわれはみづからの歯ならびを光らす

 その他、印象に残った作品をいくつか挙げてみますが、しばらく俳句を読んでなにかを書く習慣があったせいか、正面切って短歌を読んで、七七の存在をつよく意識しました。この間取りは、俳句に対して感じる物の配置の問題意識(季語+物、または認識をどう当てはめるか)から、短歌を詠むこの私の身体性に対する視点があらわれるような気がします。それはある語の、作品に対する占有の度合いが減り、それに伴って語そのものが仮構する対象の物質性が薄れ、語に対する明示的な身ぶり(記述)の自由度と、身ぶりへの注目度が相対的に増えることに由来するのかもしれませんが、それによって、作品が実現する「ある認識」以上に、「その認識をする私」を特権化する方向が打ち出されるところがあるとおもいます(これは私性の問題と重なる?)。これは、詩においてよくある「この私」、あるいは、「『この私』の認識」の主題化と重なるところがあって、こうした問題意識のつよい作品は、読んでいてあんまり好きじゃないのですが、むしろ、「この私」を不気味な存在としてつくり、「私」からずらす作品として、永井祐の『日本の中でたのしく暮らす(2012)』がおもしろかったです。

 歩くことで視界が揺れる なんとなく手に取ってみたニューズウィーク

 手ブレ補正の機能をもたないカメラは、歩行の振動をダイレクトに受けますが、私たちの視界は不随意的に作動し続ける眼球運動に支えられていて、歩行の際もブレることなく、安定して世界を見ることができています。この作品は、カメラのもつ私の視界の外、その隔たりを私の視界に向けて送り返すことで、私の視野を私から引き剥がす操作が特徴的です。単にカメラの映像を見ているといってもいいのかもしれませんが、そうなると、「歩くことで」のもつ継起性をカメラをもつ手、カメラをもつ対象に委ねることになり、どちらにせよこの視界とこの視界を見る私の距離、間接性が問題になります。この距離感が、「なんとなく」をどう位置付けるかを考える際に効果的です。「なんとなく」は、その原因を上手く示すことができない。「なんとなく」は、行為の原因が私にありながら、私の判断を介さずに成立する行為のもつ性質の総称です。私はニューズウィークを手に取った。けれど、なぜ取ったのかは私とは関係がない。人間の理性が最後まで統制できない地点、というより、統制できなさそのものが露出する地点としてあらわれる「なんとなく」の行為が、視界と私のズレと平行して示されているといえます。

 高いところ・低いところで歩いてるぼくの体は後者を選ぶ

 建物がある方ない方 動いてる僕の頭が前者を選ぶ

 整然と建物のある広いところ 僕全体がそっちを選ぶ

 こうした「私の外にある私の判断」のテーマは、別の作品からも見ることができます。眼下に与えられる選択に対して判断をくだす私の責任が、これらの作品では私の体の部位に割り当てられています。重要なのは、「僕の体は」→「動いてる僕の頭は」と、「この私」の判断にとって鍵になるはずの部位が、奇妙に「この私」から引き剥がされながら推移していることです。考えているのは「僕の体」や「僕の頭」であり、「僕」ではない、従ってその判断に対して責任を負うのはそれらの部位であり、「僕」ではない。そして、三つ目の作品では「僕全体」が判断し、僕全体が僕から引き剥がされています。こうしたテーマはよくあるものですが、飄々とした筆致で不気味に行為の瞬間を繰り出し、その責任を手放してみせる手つきが魅力的です。そうした不気味な私を意識しながら、

 ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見

 落としてもいい音するから楽器だよ 電車で楽器を落としてひろう

 〈カップルたちがバランスを取る〉のをぼくはポケットに手を入れて見ていた

 片腕のない外国人が夕暮れに2階のキンコーズを見上げてる

 これらの作品を考えてみるとおもしろいのではないか、とおもいます。

短歌時評第121回 文語短歌の今日的意義――渡辺松男短歌をめぐって 春野りりん

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 困難な時代状況を抉り出すような歌を多く目にするなかで、中津昌子の歌壇時評(角川短歌2016年5月号)に同感した。
 「…深く心に届こうとするのが、東北の自然を歌った歌、破壊しながらふたたびわたしたちを深く包む、人知を超えて存在するものであることを改めて思う。ここに引用したような歌をもっと読みたい、と思った。それは自身を省みるに栄養を求めるような気持ちであることに気づく。人間は悲惨なものばかりを突きつけられては生きてゆけない。状況が悪ければ悪いほど、それを正確に認識すると共に、一方で力を与えるものが必要であるはずだ。短歌という文芸はその両面を担えるものであろう。」「人間の息が浅いと言われる現代、やはりわたしたちには息づき深い厚みがある歌が必要なのではないかと思うのだ。」

 ところで、昨年出版された川野里子『七十年の孤独-戦後短歌からの問い』は、「短歌を定点として観測した『私』と『われわれ』の精神史」(「はじめに」より引用)を論じた好著である。川野は〈私〉論及び文語と口語の問題に言及し、万葉調の擬古文体が戦意を高揚する文体として広がった危惧を取り上げつつも、なお文語が滅びない理由を考察する。そのなかで
「軽い混交文体が主流である今日は、怒りや怨みといったネガティブな情を普遍的な問いに変換することの難しい時代だ。〈私〉の日常を超えにくく、怨はただちに〈私〉怨となってしまう。まして過去の歴史に自らの心情を通わせることは難しい。それに対して文語はその厚みの内に〈私〉を超えた心の歴史を蓄えている。独自の宇宙を構成できる力があるのだ。」「哀しみや怨みが小さな〈私〉を超え、もっと普遍的な広がりとなることを願い、また過去の哀しみに連なろうとするとき、文語は必要とされた。」
という指摘がとりわけ印象に残った。

 また、同著の最終章「『ありがとう』と言う者―渡辺松男の〈私〉」で、川野は次のように述べる。
「渡辺の世界の〈私〉は『人生』のような限界をもたず、質量ももたず、無味無臭であるようにさえ見える。同時に近代的な〈私〉も前衛短歌におけるような〈われわれ〉もとうに通じぬ『存在としての悲哀』とでも呼びたくなるものを抱え込んでいる。」「渡辺の世界における主語は、すでに発語主体としての固定した位置をもっていない。〈私〉と〈われわれ〉の境界はなく、〈私〉はさまざまな発語の瞬間瞬間に立ち現れる。そしてまさにそのような位相からしか語り得ない人間の存在としての尊さ、哀しさ、孤独、が掬い取られるのだ。」「渡辺はこのように、きわめて独自な感覚から森羅万象を存在させている普遍的な真実まで一気に貫く。独自性から普遍性までのその振れ幅のダイナミックさ、大きさはおそらくこれまでの短歌になかったものだろう。」

 2014年と今年刊行された渡辺松男歌集『きなげつの魚』、『雨(ふ)る』の2冊も、川野の述べるような位相から詠まれている。

 われの呼気われともいへぬそよかぜのえながやまがらこならとあそぶ 『きなげつの魚』

 ひらきたる眼は牢の門 対岸はゆふぐも照るを自転車がゆく 『雨(ふ)る』

 身体的に痛切な状況にあるかどうかにかかわらず、ひとは肉体という牢に囚われている。そこでは「私」が他者ないし外界から隔絶した存在として認識される。しかし、外界は自らの鏡であり、互いに映し合っていると識るとき「私」という境界が失われる。

 かなしみは深空となりてあが瑠璃のかがみのからだヒマラヤ映す 『きなげつの魚』

 れいれいとまひるの星のくまなきをわがそとそのままわがうちの空 『雨(ふ)る』

 をみなてふあをいかがみに逢ひにけりおもてながるるせせらぎのおと 

 おそろしきことながら紅葉ちりゆくはむしろ歓喜として個をもたず 『きなげつの魚』

 われはわれ以外にあらずとめちやくちやなことおもへる日臼は石臼

 一首目、かなしみが透き通りヒマラヤの瑠璃色の空として感じられるとき、自分自身もそれを映して瑠璃色の空となる。二首目、肉体の眼には映らない真昼の満天の星空は、自らのうちにも広がる宇宙なのだ。また三首目では、青い鏡のように清心な女性が、肉体の眼に見え耳に聞こえるものであるかはともかく、女性の外を流れる涼やかなせせらぎを映し出している。四首目、「私」という個をもたないことは、歓喜なのだという(なお、一首では「桜」ではなく「紅葉」の散る様子が選択され、かつ「おそろしきことながら」と付言されている)。五首目、渡辺はむしろ「私」が私でしかないと思うことのほうが道理に合わないのだと詠う。存在そのものとしてたびたび渡辺に詠われる臼は、「私」が個に囚われるとき、ただの石臼という物体に変じてしまうのである。

 めじろ眼をとぢておちけりわがいのちひとひのびなば鳥いくつおつ 『きなげつの魚』

 大き蠅うち殺したりそのせつな翅生えてわれのなにかが飛びぬ 『雨(ふ)る』

 鮎一尾焼きて夕餉とするときにだれかが泣きぬわたしのなかの 

 ここの蜘蛛殺さばあそこの蜘蛛もきゆ無限連関のどこかにわが死 

 渡辺は、この無限連関、存在のつらなりという主題を繰り返し詠う。すべての存在がつながり合っていることを強く感取するとき、「私」は「私」をはみだし、あらゆる存在を、あるいは空間そのものを「私」として感得する。そこでは、互いに存在し合って響き合うことが、鈴の音のようにかなしく聞こえるのだ。

 かれ枝ゆ枯えだへとぶ鳥かげのわれながらときにわれをはみだす 『雨(ふ)る』

 みじかかる世を鳴きたてし春蟬のすべてがわれかおちて仰臥す 『きなげつの魚』

 くうかんを ちぢめ くうかんを ひろげ 銀河に芥子にわがみひびく身

 雪の明けに鈴のやうねといふきみよしいんとひびく木も家も鈴 『雨(ふ)る』 

 鈴がなり河骨咲きぬおもひでになるまへのここ水惑星に 『きなげつの魚』

 このように響き合うのは、あらゆるものが「ひかりの水」と名づけうる本質によって存在するからだと詠われる。

 この世ならぬひかりのみづをつつみたる桃はゆふぐれどきに食むもの 『雨(ふ)る』

 みえぬみづながれてゐたり竹伐りてあかるくなりし分のせせらぎ 『きなげつの魚』

 この世の輪郭が薄らぐ夕ぐれどきの桃は、この世の果実であることを超え、「ひかりの水」という本質そのものを差し出す。竹がなくなった空間に差す光は、桃のうちに包まれる「ひかりの水」と同じものであろう。息の深い渡辺の歌を通じて「ひかりの水」に触れるとき、得も言われぬ懐かしい平安に包まれる心地がする。
 さらに、心が落ち着き深い平安のなかにあるとき、存在は響き合いを超えて融け合い、かたちを失う。

 木に凭れこころおちつかせてをればとほい空ちかい空ととけあふ 『雨(ふ)る』

 ひととひと融けあふやうなやすらぎのああこれだサラシナシヨウマの匂ひ 

 五月はおもふ自分が窓でありし日の風通らせてゐしここちよさ 

 風を通わせて外界をそのままに映す窓は、鏡と同様に確固たる「私」の対極にある。これは、「まど」を筆名としたまど・みちおの世界にも通じるものである。

 リンゴ   まど・みちお 

 リンゴを ひとつ
 ここに おくと
 りんごの
 この 大きさは
 この リンゴだけで
 いっぱいだ

 リンゴが ひとつ
 ここに ある
 ほかには
 なんにも ない

 ああ ここで
 あることと
 ないことが
 まぶしいように
 ぴったりだ

 この「リンゴ」の詩は、渡辺の歌にたびたび存在そのものとして現れる「臼」を想起させる。

 臼ここにあるゆゑなんのわけもなくかなしいここにあるといふこと 『きなげつの魚』

 臼をただ臼とし永くみてをれば臼のかたちの無のあらはるる 

 病苦に限らないことだが、「私」という肉体の牢のうちにいてこの世の体験をすることも、肉体を離れる日を受け入れることも、ときに艱難を極める。そうだとしても、夢というべきこの世が須臾であるからこそ、光を享けてこの世界に輝くものは、このうえなく美しい。「私」とは「私」を超えた存在だと認識しているからこそ、ここに形をもって個として存在する須臾のひかりは、かぎりなくかなしい。

 春昼といふおほけむりたちぬればたゆたひてたれもゆめのうちがは 『きなげつの魚』

 あぢさゐのみえざるひかりうけて咲みひかりさやげばあぢさゐのきゆ 

 気づきたるとき今生にわれのゐておどろきの手を夕虹にふる 『雨(ふ)る』

 庭すみのおちば溜りにゐる猫は、ゐしねこは、眼光のみ残したり  

 ひかりほどのおもさをうけてちるはなのはなのひとつのまだちらぬとき 

 残照によばれたる葉はうらがへりとりかへしつかぬこともかがやく 

 祖母のたべこぼしたるごはんつぶひろひさびしくなりぬ貴石のやうで

 渡辺の位相は、深い洞察と人生体験から育まれたものかもしれない。けれども、シラネアフヒの一首を読むとき、それは「私」が「私」であるという力を抜くことによって得られるのではないか、とも思うのだ。

 いちぬけしときゆなんばんぎせる愛(は)しやまひえて天球秘曲もきこゆ 『きなげつの魚』

 無力はもいかなるちからすずしさをおもひぬシラネアフヒのいろの 

 川野が前掲書で「〈私〉論の核には、常に戦時中を含む近代を、いかに克服するのかという宿題が孕まれている。」と指摘するように、時代の舵がどちらに切られるかという切実な問いは、短歌という場においては「私」や「われわれ」の問題として、文語、口語の問題と絡めて論じられる。まど・みちおが、わずかとはいえ戦争協力詩を作った例を持ち出すまでもなく、「私」という個の超越はきわめて慎重を要する問題である。しかし、「私」を閉ざして孤絶する方向ではなく、時間や空間、さらには新たな宇宙という大きなものへと開くあり方を模索することが、現代の抱える深刻な断絶や閉塞感を脱却するひとつの道なのかもしれない。短歌においては、現在の困難な状況を正確に映し出す口語短歌とともに、開かれた新たな共同性に届きうる息の深い文語短歌の意義を、いま改めて論じる必要があろう。


略歴
春野りりん(はるのりりん)
短歌人会同人。歌集『ここからが空』(本阿弥書店)

短歌評 永遠でないほうの短歌、その輝き~井上法子歌集『永遠でないほうの火』 田中庸介

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 井上法子さんの第一歌集として出版された『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房、新鋭短歌シリーズ25)は、まずは体温の高いウエットな歌集であり、心理的な圧のようなものが全体からひしひしと感じられる。苦悩、贖罪、絶望。そして実存とその救済――。

  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火
  日々は泡 記憶はなつかしい炉にくべる薪 愛はたくさんの火
  こうしていてもほら、陽だまりはちゃんとある 戻ろう めぐるときのさかなに

 第一首は歌集のタイトルを含む。もし「永遠でないほうの火」が台所の煮炊きの火なら、それでは「永遠の火」とはなんだろうかと考えてしまうが、シンプルに考えてこれは「プロメテウスの火」すなわち原子力である。「煮えたぎる鍋」がメルトダウンする原子炉じゃなくて、「現実」のガスコンロの上に完成しつつあるおいしいきょうの料理だということをあらためて自分に確認する。そうやってひとつずつ、3.11の恐怖の記憶に結びつくイメージを自分の中にポジティブなものとして再定位し、恐怖へのオペラント条件付けを外して自らの心の傷をいやそうとする。そんな逡巡する作中主体の心理がよく描かれている。
 この歌集を通して、直接的に震災や原発事故を歌った歌は見当たらないが、第二首の「記憶はなつかしい炉にくべる薪」、第三首の「戻ろう」というところにも、筆者が福島の被災地出身であることを思うと格別の含意を感じてしまう。「だいじょうぶ」「愛はたくさんの火」「陽だまりはちゃんとある」などの表現は、やはりポジティブな実存の確認を通して、恐怖の記憶の連鎖からの救済を直接的に示唆するものであって、その意味するところは、深い。それは茂吉のいうところの「精神力動的」な何か、あるいは実存の暗喩として記されているように思うのだが、その「実存」がほんまもんに切実な場合に、ことばはこんなつぶやきのような様相を取ることもある。

  耳ではなくこころで憶えているんだね潮騒、風の色づく町を
  透明なせかいのまなこ疲れたら芽をつみなさい わたしのでいい
  押しつけるせかいではなくこれはただいとしいひとが置いてった傘

 これらのポップな歌のポイントは「受け身」ということ。それが「押しつけるせかいではなく」とか「耳ではなくこころで憶えている」とか「疲れたら芽をつみなさい」という表現になって心からあふれてくる。「風の色づく」というところの調べがとてもいいが、これは「耳ではなく」と「く」の音が響きあっていることも一因であろう。第二首は「疲れたら」と「つみなさい」の頭韻、第三首は「せかい」と「傘」の「か」の音が響きあっている。というところから「耳ではなく」とはいいつつも、大変調べのよい歌が多い。そして抒情に流れるぎりぎりのところを「置いてった」などと小気味の良い日常口語のリズムの中へと切り取っていくところには、ポップスの歌詞のような相当の言葉あしらいの技術が使われていると思う。

  こころにも膜があるならにんげんのいちばん痛いところに皮ふを
  ときに写実はこころのかたき海道の燃えるもえてゆくくろまつ
  きみがきみでなくなった日の遠い崖 かじかんでどうしても行けない
  白布。こころのたまり場になる白書。でも破れそうなら歴史をあげる
  ひかりながらこれが、さいごの水門のはずだと さようならまっ白な水門

 これらの歌群は挽歌として読める。「こころの」「かたき」「海道の」「くろまつ」と頭韻のK音をそろえた実験的な第二首は、「燃えるもえてゆく」の魔術的なリフレインによって、詩の範疇へと旅立っていく。第四首の「白」や第五首の「水門」の繰り返しにも同様の効果が見て取れる。これらの「調べ」にやや流れる作り方は、しかし正岡豊、東直子、錦見映理子らを経験した現代短歌にとってはもはや何ら異端でも特殊でもないだろう。第一首の「あるなら」や第四首の「でも」などの意味のうすい接続語の多用とあいまって、かちかちの論理性をあえて脱臼させたゆるい意味のたゆたいのなか、幻想的でポエティックな身体性を立ち上げていく。だが朝の光の中では、それは要するによくできた美しい「ポエム」なんじゃないの、というさめた見方も一瞬こみあげてくる。それに応えるかのようにして、最後の連作を中心とした歌群がある。

  畔には泡の逢瀬があるようにひとにはひとの夜が来ること
  どうしても花弁をほぐすのが苦行どうしても悪になりきれぬひと
  ためらわず花の匂いのゆびさきに 頬に ほとばしるわたしたち
  性愛を匂わす影にひとひらの花弁を置いて感じないふり
  墜ちてゆく河のようだね黒猫の目をうつくしい雨が濡らして
  いつまでもやまない驟雨 拾ってはいけない語彙が散らばってゆく
  かたくなな火はありますかわたくしの春にひとつの運河が消えて

 第一首は初句七音が光る技巧的な相聞歌であり、上の句を旧かなで読めばすべて「あ」の頭韻と下の句の「ひ」の頭韻が「逢ひ」たいとのメッセージをつたえる他愛のないもの。春の畦道を行く文学少女が眼に浮かぶ。第二首はにがい性愛の描写とテクスト批評などの文学行為の隠喩が二重写しになった佳作。第三首もまた性愛の描写と考えてよく「ほとばしる」の語源にあらためて感心を覚える。第四首第五首「感じないふり」「墜ちてゆく」というポルノグラフィカルな「拾ってはいけない語彙」(第六首)が歌のなかに散らばっていくという、よくできた自己言及の構造であろう。そして第七首。これは姿がよい別離の歌である。「水に書くことばは水に消えながら月には月の運河あるべし」(佐藤弓生)の「運河」をふと思い出す。観覧車、うどん、花曇り、群青、あかり、など、語彙の好みが評者とかぶっているところも個人的には心地よく読めた。



 自分のメインジャンルじゃないところでの状況論には特に慎重でなければならないけれど、この歌集のタイトル『永遠でないほうの火』をもう一度見直してみると、この「火」は、どうも短歌そのものの隠喩でもあると読めてしかたがない。

  呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

 という秀歌もあるが、「火」とは呼吸する生命の輝きそのもの。そして一瞬の輝きを永遠のものとして紙の上に定着させた短歌の一首のことである。また「永遠」というのは、現代口語短歌の歌枕ともいっていいほどのキーワードである。八十~九十年代の穂村弘・錦見映理子・正岡豊・伊津野重美・早坂類・東直子・笹井宏之・佐藤弓生らによって極限的にまで強く定式化された「永遠」と「救済」にかかる世紀末的なオブセッションは、まだ記憶に新しい。そこでは「永遠」の希求が、ことにアララギ派の第二芸術的な「現実」本位の生活短歌に差をつけるための現代性の記号として機能しており、現実感のうすさをそのまま芸術性の担保とするシンプルな図式によって、詩がそのまま成立していたとも言えるのである。正岡豊の「きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある」というすぐれた一首は、精霊流しの場面を描いたものかとも思うが、「永遠」を希求する彼らの視線は、つねに彼岸を向いていた。穂村弘の、「生き延びる」のではなく「生きる」ことが本当のアートだ、というような現代短歌の定義は、日常を離れて永遠性を希求する文学的な距離感こそが、歌人に要求される創作態度だと強く主張するものだった。
 そこで「永遠でないほうの火」すなわち「永遠」を希求しない短歌を書いたとして、それでも歌人は高い芸術性を持ち続けられるだろうか――。これが、本作における作者の捨て身の挑戦であったように感じた。「永遠」というのは言ってしまえば《さまざまな意匠》のひとつであるに過ぎず、このような前提を外してその素材を現実の「精神力動性」に近い側にふたたび振ったとしても、これまでつちかわれた現代詩歌のポップで堅牢なメタファーの詩学(と、震災後の同時代性の空気)をもってすれば、近代短歌などとはまったく違った地点で、心の「火」すなわち高い芸術性をわれわれは表現しつづけられるはずだ、というのを、本作における詩学的なテーゼとして読んでみたい。これは演劇その他のジャンルとも幅広く交通する、ものすごく現代性の高いテーマだ。そしてぼくらがやりたいのも、まさにそれだ。作者のその挑戦がここにおいてはたして成功したかはぜひ本書を買ってご自分の眼で確かめていただきたいが、この重要な問いを短歌の世界に投げかけた画期的な一冊として、本書とそのタイトルはここから長い間、ぼくらの記憶に残るだろう。

短歌評 ふつふつと湧き出ずるもの――岩田亨「聲の力」とは何か 添田 馨

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 現在、私の現代短歌に対する最大の関心事は、それがいかなる体勢によってこの現実世界と戦いうるのか、というドラスティックな傾きのものである――前回の論考で、私はこれといった有効な見取り図もないままに、無謀にもこんな啖呵をきった。
 現実世界と戦うという時、そこには否応なくふたつの含意が先験的に暗示されている。
 ひとつには、作品の言葉のリアリティを根拠づけるものが、作品テキストの内部にではなく、その外部すなわち広義の〝現実世界〟に根を張っているものだという暗黙の了解である。無論、そのことは作品テキストを読み込む作業を通してしか感得されないものであるが、五七五七七の定型構造の背後に不可視の散文構造(型式:フォーマット)があらかじめ組み込まれているという無意識の了解において、作品そのものの表現価値が自立的に湧き出だしている場合をいう。
 もうひとつは、さらにその不可視の散文構造そのものが、〝現実世界〟における闘争的な輪郭を鮮明にして、少なくともそれ(型式:フォーマット)を共有する短歌作品群が、明示的にある種のテーマ性を体現しているとの了解を、読む者につよく喚起する場合である。それは、狭義の〝現実世界〟における主体的な戦いの意志を、作品の先験的な根拠として意識的に抱え込んでいることを意味せずにはいない。具体的には、特定の支配権力やその政策に対する実際の政治的抗議の意思を、短歌制作のおおきな動機として駆動させているケースである。
 岩田亨の歌集『聲の力』(角川書店・2016)は、それを可能にするモメントが、文字通り、作者の発する生身の「声」の力に他ならないことを、経験的に私たちに教えているように思う。
 まずは、「議事堂周辺」を全編、以下に引用する。

  理不尽なこと多くある世にありてたった一度の意思表示せん

  群衆の声々ひびくビル街の列を離れてにぎり飯食う

  戦争を厭う人らの集まりにわれも一人となりて連なる

  ゼッケンの紐結びつつ永田町一番出口を急ぎ出でたり

  ファシズムをこばむ若者こぶしあぐハンドマイクを汗にぬらして

  議事堂を目の前にして坐り込む静かな怒り内に秘めつつ

  戦争をこばむ者らが集うとぞ君よ友連れ議事堂かこめ

(『聲の力』「議事堂周辺」全)

 これらの作品は、2015年の夏に、安倍政権がうちだした安保法制に反対する広汎な市民行動への作者自身のコミットメントの意志を、短歌作品のかたちで表明したものである。
 当時、国会議事堂周辺には、安保法制に反対する多くの学生、市民らが集まり、連日のように抗議行動を続けていた。そういう自分も週に一回の割合でそこに参加していたため、その情景はいまも瞼に焼きついている。
 簡潔な作風の歌ばかりであり、注釈はほとんど不要だろう。補足するとすれば、固有名詞で例えば「ゼッケン」とは、安保法制反対のスローガンを書いたデモ用ツールのゼッケンを指しており、また「永田町一番出口」とは国会議事堂正面にむかうための東京メトロの駅の最寄りの出口のことを指している。「ファシズムをこばむ若者」とは、SEALDsなどの学生集団のことを指していることも難なく了解できるだろう。
 ただ、まったく懸念がないわけではない。「戦争をこばむ者らが集うとぞ君よ友連れ議事堂かこめ」という最後の作品などは、意味の表明がストレートに過ぎて、定型律の求心的機能でかろうじて作品としての自立性を保っている感がしないでもない。しかし、これら七首の作品を連続的に読み込んだ読後感において、そこに背景している現実の政治状況が強固なフォーマット(型式)を提供した結果、安保法制に反対するという〝現実世界〟との戦いこそがこれら作品の存立根拠となっているさまを、これら七首は間違いなく具現している。
 現実の政治状況へのコミットメントと、文学表現としての自立性の両立――じつはこのような問題設定は、短歌にかぎらず広く文学一般において、「政治と文学」という古くて新しいテーマのもとに、繰り返し論議されてきたものだ。ことに短歌においては、五七五七七の定型律が、日本語の伝統的な音数律上の美的規範と捉えられた結果、現実に対する批判的意識をそこに反映させるのは不可能だという見解すら打ち出されたこともある。
 不毛な議論の蒸し返しを極力避けるために、問いのかたちをここで一端修正したい。すわなち、〝現実世界〟と実際に戦っているのはそもそも誰なのか、というように。
 すると、そこには一点の曇りもなく、生身の〈作者〉こそが、そうした戦いの主体であるとの自明な結論を私たちは手にすることになるだろう。 
 〝現実世界〟におけるこの主体的行動の総体のうちに短歌制作ということが位置づけられるとき、恐らくは、〝現実世界〟と本質的に戦うための必要条件がはじめて満たされるのだと考えていいだろう。
 〈作者〉――作品に先立って実存するこの最もリアルな存在を、文芸批評はこれまで主要な対象としてこなかった。なぜなら〈作者〉とは現実の一部なのであって、作品のなかの一要素でも、ましてや言葉のなかに還元できるものでもなかったからである。だが、「聲の力」は、まさにこの批評上の大問題を根底から瓦解させたのである。
 過日、私は、都内某所で開かれた岩田の朗読会に参加した際に、この見解にいたるひとつの確信に到達した。その日、決して多くはない聴衆を前に、岩田は約一時間にわたり自らの『聲の力』一冊をまるごと読み上げたのである。その朗誦は、歌集タイトル、まえがき、短歌本文をはじめ、あとがき、奥付、さらには裏表紙の紹介文にいたるまで、とにかく活字化されたすべての文字を読み上げるという徹底したものだった。
 このパフォーマンスの意味するところは、一冊の書物をまるごと音声化するというより、いわば一冊の‶声の書物〟を現実に存在させる、言い換えれば音声波動(空気の振動)として物理的に存在させるという、未知の行為の象徴性だったのではないだろうか。
 〝声の書物〟は文字で書かれたテキストではなく、いや、何で書かれたテキストですらなく、〝声〟のみで構成された書物的現象の謂いである。それは紙でできた現実の書物という物質的基盤のうえに立って、時間と空間のなかにその表出価値をもっとも純粋なかたちで解き放つものなのだ。
 本歌集より、「聲の力」の作品をすべて引用する。
 
  聲を撃つ夜(よ)の地下室の空間の響きよ無限の世界へ届け
  わが内の未知なるものが目覚めるか宙に放てる聲の力に
  詩人らが一時間余り撃つ声を聞くとき割れは目をつむりたり
  大いなる聲の波動を受けとめてわれの内なる何かが変わる
  聲のもつ力信じて生きんかなわれを導く杖としながら
  花冷えの部屋にて放つ朗唱の響きはわれの祈りにぞ似る
  わが聲の響きゆく夜(よる)の空間に美の神ミューズあらわれ出でよ
(「聲の力」全)

 そこで、改めて問う。この場合、〈作者〉とはいったい誰のことを指していうのか。
 誤解を恐れずに言えば、〈作者〉とはそこで〝声〟を発した者以外ではあり得ないだろう。あるいは〝声〟を発した者が、逆にそこへ「わが内の未知なるもの」つまり〈作者〉を呼び込むのだと言ってもいい。
 実際には、本歌集に収められた短歌作品が、つねに政治的視点をもって読者に受けとめられるとは限らない。そのように受け止められるには、作品のテキスト内のどこかに、そのことが明示されていなければならない。五七五七七の定型律自体がその役割を担うことは考えにくいとすれば、語彙の選択や喩法の表明、あるいはイメージや場面の効果的な切り取り方、さらに表記上の意図的な文法破壊などが、表現方法として強力に機能していなくてはならないだろう。
 だが、それらのことをすべて勘案したうえで、岩田はそれ以上に重要なことがあると言っているように私には聞こえる。彼は、それが「聲の力」なのだと本歌集全体を通し、一貫して表明しているのである。
 先の朗読会で、私が岩田の「聲」を、目を閉じて聴いていた時のことだ。2015年2月8日の、渋谷ハチ公前広場の情景が、まるでリアルタイムのように、一気に私のなかに蘇ってくるような、不思議な体験に襲われた。
 それは岩田が、歌集の以下の部分を読みあげた時だった。

  人質の殺されしこと聞きてのち心凍れりわが生日は

  かの事件暴力の連鎖のはじまりと年表上に記されるべし

  弔いの言葉の一つ言わぬ者あるを耳にし悲しみの湧く

  テロ・戦争終りなき悲劇はじまらんわれは広場に言葉失う

  追悼の人の集える広場にて冬の時間は厳かに過ぐ

  怒りもてわれは応えん報復が報復を呼ぶ冬を迎えて

  ある限りのレッテル貼らば貼らるべしわれの思いはゆるがざるもの

(「ハチ公前広場(ISによる人質殺害事件追悼集会)」全)

 IS(イスラム国)に拘束された二人の日本人、ジャーナリスト後藤健二氏と、すでに拘束されていた湯川遥菜氏の殺害の報を受けて、ハチ公前広場では追悼のための集会がもたれていた。この日、夕刻5時頃には人がたくさん集まりはじめ、手に手にサイリウムやプラカードや蝋燭などを持った人々がスタンディングをしていた。
 とりわけ印象的だったのは、それらの人々がみずから一言も言葉を発しようとしないことだった。日曜日の夕刻の渋谷駅前の雑踏にあって、四~五百名は集まっていたと思われるその集会の参加者たちが、誰もみな沈黙を守っている姿に、私もきわめて「厳か」な心情を感じずにはいられなかったのである。と同時に、彼ら人質の窮状に対して一顧だにしない日本政府と、とりわけこの危機をもたらした張本人たる安倍晋三に対する限りない怒りの感情も、この沈黙のなかに間違いなく装填されていたのだと思う。
〝声〟の発せられないときに、必ずしも〝声〟が存在していないのではない。この時も、沈黙の〝声〟はあの駅前広場を隅々まで覆い尽くしていたのである。岩田のこの連作は、自らの そうした沈黙に対して、文学言語による表現のかたちを、いわば間接的に付与した、世界との戦いの痕跡でもあるだろう。
 その痕跡が、まごうかたなき直接性として迫ってきたのが、先の朗読を通して響いてきた岩田の〝聲〟なのであった。
 改めて、問う。〝聲〟とは私たちにとって一体何であるのか?

  ふつふつと湧きくるものを戒めて歩く夜道にあら草を踏む

  ふつふつと溢れくるもの怺えつつ静けさのなか耳澄まし居り

  人間が統べられるもの出来ぬもの心の中に沸々と湧く

 恐らくそれは、自己存在の深部から「ふつふつと」溢れてくる荒々しい感情の野生性を、言葉の美にむかう委曲によって濾過し浄化して、その透きとおる上澄み部分を印刷文字に置換したうえで、さらに自身の身体の発声機構をつかい時空間における純粋な現象にまで昇華させたところの〝何か〟に相違ない。
 この〝何か〟が、仮に作者によって「美の神ミューズ」と呼ばれることがあったとしても、そこに先在する「ふつふつと」湧きあがる不如意な存在感覚の多義性こそが、短歌創造ひいては文学創造の尽きせぬ源泉であり、かつまた短歌が世界と戦うための十分条件を満たすものでもあることを、岩田亨は言外に告げようとしているのである。(了)

短歌評 短歌を見ました2 鈴木 一平

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 ほんとかなあ、とおもいつつ、こないだ「ユリイカ平成28年8月号:特集 あたらしい短歌、ここにあります」を買いました。せっかくだし全作レビューでもできればとおもったんですが、雪舟えま「愛たいとれいん」の感想だけで今回は終わりそうです。

 彼を見たい
 彼にいたるまでに出会う
 人そのほかを眺めていたい

 この作品の芯は、彼に対して向けられる視点の方向性が「会いたい」ではなく「見たい」と表現されているところにあります。「会う」よりもどこか即物的なニュアンスを伴った「見る」は、「会うこと」で始められる二人の時間に対する期待を含まず、「会う」と表現される以前の接触、つまり、視覚的な接触の経験だけで満たされてしまうほどの感情を喚起させます。と同時に、「会うこと」によって満たされる欲求は、「見る」にいたるまでの時間のなかで経験する「人そのほか」との出会いによって消化されていきます。「出会う」「人そのほか」のあいだに生まれる改行の拍が、「見る」と「出会う」の対比をより鮮明に見せつつ、たしかな切れ味を感じます。

 八月を
 君にゆっくり届きたい俺に
 宇宙がよこす各停

 その次に配置される作品は、彼を見ることへと向かう性急さとは対比的な遅さの表現があります。一読してまず、その全体像をうまくつかめない、揺らぐような感覚が生じますが、それは二行目の「届きたい」に由来します。「八月を/君にゆっくり届けたい俺に」、つまり「俺」が「八月」を届けるという表現であればスムーズに読めるところで、届けられることを期待されているのが実際は「俺」であるために、「八月」をどのように位置付けるかの判断が揺らぐからです。そして、この揺らぎは「ゆっくり」と対応することで、「俺」の求める遅さとして実現されます。そのため、「君にゆっくり届きたい俺」に「宇宙がよこす各停」とは、端的にこの揺らぎの感覚によって引き起こされる遅延であると考えることができます。改行によって実現される働きについても触れておきましょう。「彼を見たい」では、作品内で表現される欲求が一行で簡潔に述べられていますが、「八月を」では、構文の成立に三度の改行を含みつつ、かつ「届く」ことへの欲求が構文の内部に織り込まれています。この二つの作品の、「~したい」のちがいは、改行を意識することでどのように区別できるのでしょう。改行をおこなうと、一行の独立性の実現と他の行と切断が生まれるので、改行はそこに当てられる文章と時間的・空間的な比例関係をもちます。たとえば、一文が複数の行に分けられると、一行ごとに生み出される独立化および他の行との切断の効果によって、文を読むなかで生起する時間に遅延の感覚が伴います。これに加えて、「八月を」では、改行による意味の宙吊りが、構文自体の宙吊り感をアコーディオンのように多重化させていますので、「彼を見たい」と対照的に、出来る限り「ゆっくりと」したものとして読まれることが目指されているのではないかとおもいます。同時に「宇宙がよこす」という修飾をもつ各停が、地上の私たちとは異なる次元のものであることの説得力を、同時に強めてもいるのではないかといえます。

 手のひらに座らせてくれたようだった
 愛から創られた夏の汽車

 この作品は、おそらく見開きにおいて進行していたこれまでの過程にけりをつける意図があるのではないかと読めます。直前の「各停」に「夏の汽車」が接続されているのはいうまでもありませんが、「愛から創られた夏の汽車」は、先ほどの二つの作品が、どちらも移動の性質を伴っていたことから析出される隠喩です。相手に向かう「~したい」という欲求を愛として、その欲求に付随して生じていた運動が「汽車」であるというわけです。「手のひらに座らせてくれたようだった」は、フレーズとしての意味合いが強く感じられますが、「座る」ことで一連の流れにある程度のおさまりがつくので、これ以降も作品は存在するものの、この三作品はセットとして一つのブロックをつくっているのではないかとおもいます。

 というふうに、いつもどおりの感じでひとつひとつの作品を読み込んでいこうかとおもいましたが、今回はそれだけだとかなりの具合で片手落ちになるので、すこし視点を変えて見ていきたいとおもいます。

 さて、以上三作品をテキスト単体で読む限りでは、「彼を見たい」における「彼」と呼ばれる存在が「八月を」における「俺」となるような、二人の恋愛について詠まれたものであるようにおもいます。事実、この三作品が埋め込まれている見開きには、おそらくどちらも男性と思われる、スーツ姿の二人のイラストが描かれています。「思われる」と言わざるをえないのは、二人の顔が雲とハートで隠れていてよく見えないからですが、ここで、今回の連作がもつ構成を、掲載されている作品も含めて、列挙してみましょう。「愛たいとれいん」は、見開き二つに作品とイラストが互いに関連しあうよう配置されていますが、便宜上、先行する見開きと後続する見開きを、それぞれ(1)と(2)に分けます。

・見開き(1)は、右ページに余白を大きくとったイラストの枠内に、改行を施された作品が右斜め上から左下(見開き中央)にかけて3つ、下降するように配置されている。左ページはイラスト。頭部をそれぞれハートの群れ、渦を描く雲によって顔を隠された細身のスーツ姿の(おそらく)男性の、上半身から膝下までが描かれている。左の男は腕を組み、壁によりかかりだれかを待つようなポーズを取り、右の男は左の男のそばに駆け寄って立ち止まるようなポーズを取っている。とりわけ目を引くのはスーツの柄だ。左の男のスーツには枯木立、右の男のスーツには大ぶりの椿のような花のプリントが全面的に施されており、スーツ自体の存在感は、それを着込む二人の体型と自身がスーツであることをぎりぎり示唆するに留められている。左の男の背景は黒地に雪、もしくは桜の花びらをおもわせる米粒状の塗り残しが散漫に配置され、太もものあたりにかけて黒ベタ、継ぎ足しカケアミ、白のパターンを繰り返す虹のような帯が、右の男の腰のあたりから伸びて、ページ中央部右側で一度バウンドしつつ、右ページ下方にかけて続いている。帯を構成するそれぞれのパターンの内側には「KAREWOMTI KARE」「HACHIGATSU」「TENOHIRANISUW」と、余白に配置された作品のローマ字表記が白抜きで(白地の帯のみは黒字で)書かれている。しかし、上から6つ目の帯(白地)には掲載作品には見られない文章「REIKADATOHITOBITOHAIU」(「冷夏(?)だと人々は言う」)が書かれている。

・作品は右斜め上から順に次のとおり。

 彼を見たい
 彼にいたるまでに出会う
 人そのほかを眺めていたい

 八月を
 君にゆっくり届きたい俺に
 宇宙がよこす各停

 手のひらに座らせてくれたようだった
 愛から創られた夏の汽車

・イラスト右下に「20160707」の表記。

・見開き(2)は左ページにイラスト+イラスト枠内の余白に改行作品3つ、右ページに改行なしの作品4つの構成を取っている。

・左ページ中心部には穿たれた穴のように円が描かれ、円は風に舞う牧草のようなもので縁取られている。作品は円の上部を囲うように3つ、虹の帯は円の下部を囲うように配置されている。円の内側には風景が描かれ、手前から牧草地・針葉樹林・草原・稜線のみで描かれた丘、の構成。前景の牧草地には輪切りにされた金太郎飴のような飼い葉が左手前に1つ、左手奥に1つ、右手奥に3つ配置され、日差しを受けて右手に影を伸ばしている(ここで、風景を縁取る丸と飼い葉のあいだに形態的な類似が感じられる)。

・作品は右ページから順に次のとおり。

 運命に分かたれるまで触れあっている夏草と車の腹よ

 紙魚のように光る姿勢のいい人がいると思ってよく見たら君

 あとは寿司みたいな家に帰るだけ
 君がやたらと光っておかしい

 生命のねらいは何だろう
 夜の空気が桜餅の匂いだ

 素麺のほどいた帯を指先にゆらして
 君を起こしにゆこう

・見開き(1)との類似点として、枠内に書かれた作品に改行が施されること、黒・継ぎ足しカケアミ・白のパターンで構成された虹の帯が挙げられる。しかし、帯の内側に描かれているのは作品のローマ字表記ではなく、「NATSUNO MIRAI HOKKAIDOWO drive SHTEIRU」「TO TOKIDOKI SOUGU SURUNODAKEDONA」「ZEKA OREHA KOREWOMIRUTO BAKUSHOU」(「夏の未来北海道をドライブSH(し?)ていると時々遭遇するのだけどなぜか俺はこれを見ると爆笑」)と、イラストそのもの(おそらく飼い葉)に対する言及と見られる文章がローマ字表記で書かれている。

・イラスト左下に「20160706」の表記。

 気になるのは、見開き(2)におけるイラストに書かれたローマ字表記の文章です。表記を戻すと、「夏の未来北海道をドライブしていると時々遭遇するのだけどなぜか俺はこれを見ると爆笑」と書かれているこの文章によって、今回の連作は、「プラトニック・プラネッツ」以降くりかえし作者が書いている、「楯」と「緑」の二人を主人公とした、一連の恋愛小説と地続きになっていることがわかります(小説の舞台は、「未来東京」や「未来京都」など、現実の地名に「未来」の名を冠しています)。ということは、今回の連作も楯と緑の二人の生活を描いたものであることが考えられます。というか、そうであるとしかいえないのですが、というのも、今回の連作と同名の小説が、「小説新潮2016年8月号」に掲載されていて、こちらを読むと、「汽車」「ロケで使われた駅」「牧草ロール」といった対象はもちろん、ちょうど見開き(2)のイラストに書かれているフレーズとまったく同じ文章が書かれている(「小説新潮」p.27)からです。

 小説「愛たいとれいん」は、未来札幌で開かれる「月で働きたい法曹のための研修会」に参加する、弁護士になった緑の帰りを待つ楯が、緑の帰りを待ちきれずに列車で会いに行くというストーリーです。楯は緑に会うまでのあいだに、列車をすぎていく景色やそこで出会う人たち、よくわからない食事にいとおしいような、巨大な時間の流れに位置付けられ、それ自体としては儚くもろいものとして感じられつつも、そのつどの出会いが「この宇宙はじまって以来はじめてのできごと」として受け止められるような、かけがえのない魅力を抱きます。短歌「愛たいとれいん」は、小説「愛たいとれいん」で楯が出会う場面や思いを抽出し、短歌として置き換えたものであると考えられます。そうなると、見開き(1)の構成は、小説「愛たいとれいん」の要約として読むことができます(小説「愛たいとれいん」において、「汽車」という語に関して「こっちの人(未来北海道の人)は長距離を走る列車を汽車と呼ぶことがおおい」と、あからさまに補足が入れられています)。小説を意識した読解において、先ほどの三作品はすべて一つの(楯の)視点から詠まれたものであると考えられます。しかし、短歌「愛たいとれいん」の見開き(1)を、作品とイラストの配置において読むと、「君を見たい」と「八月を」のあいだの逆転した構成や、イラストにおける移動の感触をのこしながら「左の男」の上にやや重なる「右の男」と、その場に立ち尽くしてだれかを待つような「左の男」の構成から、二人の視点が交互に読まれ、ついに重なりあう小さな物語を組み立てることができます。つまり、この二つの同名の作品は、かなり明確な相似の感触を読み手に与えつつ、それぞれが互いに上手く一致しないようなひねりが加えられています。イラストに添えられた日付の、実際に目を通す時間の流れとは逆行する配置から、すでにその予感は与えられているのですが、こうした見開き(1)における物語の要約・変奏にとどまらず、次に挙げられる「牧草ロール」や「ロケで使われなかった駅」など、小説・短歌に共通して用いられている要素においても見受けられます。

 ロケに使われたことなんか忘れて赤ちゃんのままでいなよ駅は

 まず、「ロケに使われた~」は小説「愛たいとれいん」で、楯が未来富良野町に到着した際の場面に関連して詠まれていると考えられます。小説『愛たいとれいん』では、次のような描写で表現されています。

 ホームに貼りだされている説明によると、この駅は前世紀後半から今世紀初頭にかけて人気のあった、未来北海道を舞台にしたドラマシリーズの撮影地にもなったらしく、駅舎の中にはドラマ原作者のサインやロケの記念品が展示されている。色あせた写真を眺めながら白湯を飲む。(p.27)

 ここには「ロケに使われた駅」に対する短歌作品の表現と対応する視点がなく、淡々と場面の(どちらかというと)写生的な立ち上げが行われていて、「ロケに使われた駅」という語に対する短歌と作品の関連性は、短歌が小説に付随されるようなものではないと感じられます。「ロケに使われたことなんて忘れて」という呼びかけは、小説の本文からはなかなか引き出しにくいのではないかとおもいますし(逆もまた然りです)、それ以前に、絶えず自身の構成要素を増やし、雑多に膨れ上がりながら作品の輪郭を分裂させていく小説特有の性質に対して、器のようなものとしてすでに与えられている形式と共振しつつ、輪郭を閉じるように組み立てていく短歌という、二つの媒体の差異もここにはあるとおもいます。「ロケに使われた駅」は小説「愛たいとれいん」全体を背負わされておらず、せいぜい「未来札幌に向かう道中の場面」、つまりこの小説をデザインする配置の一つとして組み込まれている一方で、短歌「愛たいとれいん」の「ロケに使われた駅」は、「ロケに使われたことなんか忘れて赤ちゃんのままでいなよ駅は」として、作品全体において詠み込まれています。この差異は、やはり両者で読まれる「駅」の一致をむずかしくします。短歌と小説の双方において類似を意識させつつも、一方が他方に組み込まれるような視点によって書かれてはいないという事態は、小説と短歌の両方に共通してあらわれているこの対象を、どちらの媒体をも中心化せずに、媒体間の余白において、確固たる存在感を持って立ち上がるように感じます。「似たような・まったく同じ」対象が互いに区別される複数のあり方で記述され、かつ、この複数のあり方が媒体間の差異といった、異なる視点の統合を妨げるような符丁を挟み込まれた際、そこでは対象の多面的な見方ではなく、それら多面的な見方のどれにも支配されない、対象の異常な存在感が現れる、と言い換えてよいでしょう。小説の言葉を引くと、「だれも通らなければそこは道ではなく、だれにも見られなければその景色は存在しない」と書かれてしまう道や景色が、にも関わらず、自分たちのためにつくられた道のように見えてしまうとき、その道は、ちょうど「ロケに使われた駅」のような道として、私たちの目の前でありつつ、私たちの外に存在するかのように感じられるのかもしれません。

 牧草ロールは真面目で可愛い君のよう野にいて星を宿したつもり

 「牧草ロール」についても同様のことがいえますが(短歌「愛たいとれいん」に関しては、「真面目で可愛い君」との類似が詠まれていますが、小説「愛たいとれいん」では、緑への類似だけでなく、なにかしらの感情を喚起させるような機能の手前で、見るだけで「笑いの中枢をずくずくに刺激され」てしまうという、反射レベルの反応を楯に取らせるものとして書かれています)、こちらはさらに、もうすこしひねりが加わっていておもしろく読めます。というのも、ここで詠まれる「牧草ロール」は、小説における「牧草ロール」との呼応以前に、この作品が配置されている見開き(2)の左ページにおいて、小説「愛たいとれいん」で使用された文章のローマ字表記を随伴させながら、実際にイラストとして描き込まれているからです。しかも、小説「愛たいとれいん」には、次のような描写が見られます。

 今回のロールは、牧草を巻いただけではなくさらに白いビニールでラッピングするバージョンで、俺はとりわけこれに弱くて、腕を口に押しつけて声をころしながら笑った。薄曇りののどかな緑の中にピカピカした白い巨大なラムネ錠。遠近感の狂った感じがおもしろいのだろうか……(p.26-27)

 こうした「牧草ロール」の描写は、短歌「愛たいとれいん」のイラストにおける、極端に単純化されたフォルムをもった円柱の白い物体を、どうしても喚起させますし、あたりに生える草のせいで、遠近感もたしかに歪むようです。つまり、このイラストは、小説「愛たいとれいん」における視覚的な比喩を、視覚性においてかなり即物的に引き写したものであるといえます。そして、こうして絵にされた「牧草ロール」は、小説「愛たいとれいん」における「巨大なラムネ錠」の視覚的な表現を引き継ぎつつも、「野にいて星を宿したつもり」と短歌「愛たいとれいん」において書かれた印象を、同時に引き写しているかのようです。「野にいて星を宿したつもり」は、実物の牧草ロールがもつ独特の異質感をどこか想起させるものです。牧場を背景とした空間のなかで、牧草を素材としながら、人工的な規則性をもって組み上げられたフォルムをもちつつ、同時にそれがあたりにいくつも、バラバラに転がっている光景は、どこか牧草地のもつ雰囲気から遊離した、別の世界から降りてきたもののように感じられます。見開き(2)において視覚的な図像として現れ、楯の反射的な爆笑を誘う存在でありながら、同時に小説では書かれなかった「君」との類似性を伴わせる、星を宿したような神秘性をもつ存在でもある牧草ロール。小説・短歌のあいだでイラストによる指示を伴いながら、絶えず異なる印象へと移行するおかしな白い物体は、私たちの目の移り行きに合わせて揺れ動くかのようです。
 さて、ある対象を別のバリエーションで詠む流れは、ここで対象が配置される状況そのものへと、注目をシフトさせていきます。

 運命に分かたれるまで触れあっている夏草と車の腹よ

 こちらは、以下の文章と重なっているようです。

 家から車で未来新得駅まで約四十分。そこから、未来帯広から出る特急「エクスカリバーとかち」上り始発に乗って緑は未来札幌へ行く。俺は彼のジープが見えなくなるまで、家の前から見送った。(中略)玄関から麦わら帽子をとってきてかぶり、駐車スペースに敷いている玉砂利のすきまから生える雑草を抜く。ここにはブタナーー緑は「豚のサラダ」なんてしゃれた名前を知っていたけど、タンポポそっくりなそいつが生えて、ジープの腹をくすぐっている。(p.20)

 小説では「ブタナ」への注目において組み立てられ、ジープの腹はむしろその周囲に組織化されている文章が、短歌では「夏草と車の腹」という組み合わせのもとで抽出されています。ここでは、「ロケに使われた駅」や「牧草ロール」のような、対象からなにかを読み取る視点を変化させるのではなく、ある対象と対象の配置の力点自体を組み替えたと考えられます。そうなると、小説が短歌に先行して書かれているということを前提にしてしまいそうですが、もちろんそうではなく、短歌において詠まれた組み合わせをばらして、小説に再配置したという方向性もありえます。作者が実際に直面した経験において、その近傍に見られた要素の配置を組み替えて作品に落とし込むという方法は、短歌に限らずあらゆるジャンルの表現に見られますが、そうした操作は、文章を読んでそれを頭のなかで組み替え直し、理解し、あるいは書き換える操作に伴う思考の流れと切れているわけではなく、地続きです。それでは、短歌「愛たいとれいん」における「運命に分かたれるまで」は、小説においてどのような対応があるのかのいえば、すこし仰々しく感じられますが、いうまでもなくそれは研修に向かう緑を見送る楯という場面そのものでしょう。つまり、ここでは対象そのものから異なる読みを引き出すのではなく、同じ読みが同じ対象同士の異なる組み合わせから生み出されているわけです。しかし、短歌において「運命」によって分かたれるのは「夏草と車の腹」そのものですので、小説において「ブタナとジープの腹」の外で展開していたはずの事態が、短歌においては「夏草と車の腹」の内側で起きており、小説と短歌で構成が裏返しになっています。
 こうした裏返しの構造を取った作品は、次にも続きます。

 紙魚のように光る姿勢のいい人がいると思ってよく見たら君

 短歌において詠まれているのは、「君」を認識できずに「紙魚のように光る姿勢のいい人」と見なし、「よく見ると」による取り消しをはさんだあとで、その人が「君」であると再認するまでの過程です。「紙魚のように」で立ち現れる知覚対象の小ささは、文字の羅列のような人ごみを背景に「君」を見つけるという細部を意識させますが、小説版でこれに該当するものは、おそらく緑の視点から見られる楯の姿であると考えられます。小説「愛たいとれいん」のクライマックス、未来札幌駅で緑が現れるのを待つ楯が、彼の姿を見つける場面が当たります。

 俺はこちら側にとどまったまま、頭のうえにたたんだ干し網をのせてみた。渡ってくる人たちの何人かが俺を見る。そのうちの一人が彼で、俺に目を向けてそらし、すぐまた俺を見た。(p.33-34)

 つまり、先ほどの三作品は小説「愛たいとれいん」における、楯が見た景色と呼応関係を結ぶように組み立てられていましたが(ついでにいえば見開き(1)のシーケンスも、楯が経験した時間の総括であるといえます)、ここで楯が見られる対象として、「紙魚」のように景色のなかに位置付けられています。言い換えれば、これまで二つの作品間で(互いに異なるバリエーションとなるように)対象を観測していた視点そのものが、今度は対象として観測されているわけです(その端的な現れとして、「姿勢のよさ」が読まれていると考えられます)。しかし、こうした視点の急激な変更は、これまで小説・短歌の両者において共通する対象を異なる視点において読むというプログラムによって書かれた見開き(2)作品のなかにも、あらかじめ潜在していたものです。なぜなら、小説および短歌間で異なる書かれ方をしていた個々の対象は、根底においてそれを見る視点が(小説および短歌のあいだで)たがいに異なったあり方で存在していたからこそ、異なる強度をもった対象として見られるからです。また、短歌「愛たいとれいん」の個々の作品間における連続性は、連作につけられた題名と同名の小説を参照できるという条件のもとで持つ連続性と、短歌連作それ自体の枠組みのなかでの連続性として、それぞれ異なる由来を持っています。そのなかで、後者の連続性において見られる個々の作品に内在する視点は、ひとまず作品単位で独立したかたちで生み出され、それぞれになんらかの継起性を装填しなければ、共約可能的な視点をなかなか持ちにくいです(だからこそそれらを統合する視点として短歌において私性はかなりの具合でつきまとうのかもしれません)。つまり、作品内で観測される対象を蝶番にした媒体間の視点および個々の短歌作品間の視点は、一見すると題名の同一性や対象の同一性などの安定した基盤を持ちつつも、それらがむしろ絶えず揺らぎを呼び込むために、不安定な性質を帯びたものとして私たちの目の前に浮かんでいます。短歌の独立性を「私の同一性」ではなく小説へと迂回させることによって連続性を出現させ、再び短歌の独立性に返すことで小説の視点を逆転させると同時に、その狭間で世界を多重的にスパークさせつつ、短歌において描かれる「私」をより複雑に組み立てなおすという、見かけの印象からは想像もつかないほどに手の込んだ構成が、この作品をとおして感じられます。

 あとは寿司みたいな家に帰るだけ
 君がやたらと光っておかしい

 「紙魚のように」において書かれた場面が、「君がやたらと光って」によって引き継がれつつ、「紙魚」においては「君」の発見に伴う知覚の誤差動として回収できた「光る」が、知覚と独立して(知覚に関係なく)存在しているかのような変奏が印象的です。と同時に、「紙魚」において開かれた、小説「愛たいとれいん」の緑の視点が引き伸ばされ、楯と会えた緑の喜びとたしかな呼応を結びつつも、独立した回路を維持しています。

 生命のねらいは何だろう
 夜の空気が桜餅の匂いだ

 「あとは寿司」の次に配置されるこの作品は、「光る」によって繋ぎ止められた継起性とは異なり、食物のモチーフを介して「寿司」と繋がります。モチーフによる媒介をとおした継起性は時空間操作に由来する継起性とは異なり(同一の配置や語をとおした不一致の計測という仕組みにおいては同じですが)、どちらかというと詩や短歌における連続性の保存に採用されやすいものですが、それと同時に、小説「愛たいとれいん」におけるテーマである「時間の無限性と空間の有限性」を裏打ちするような感慨として、「生命のねらい」が引き出されているといえましょう。

 素麺のほどいた帯を指先にゆらして
 君を起こしにゆこう

 そして、食物による連鎖的な展開はこの作品をとおして終わり、短歌「愛たいとれいん」は幕を閉じるのですが、ここで描かれている場面は、小説「愛たいとれいん」の冒頭部を、ほとんどそのまま引き写しています。短歌連作の末尾と小説の冒頭を一致させる試みは、小説「愛たいとれいん」と短歌「愛たいとれいん」の呼応関係を形式的に引き締めつつ、知らず知らずのうちに、「君」と名指される対象が再び楯から緑へと反転されています。この連作における「君」は不在者や超越的な他者を現すものではなく、語の配置関係において対象を示す、可換的かつ関数的なものとしてデザインされた語なのでしょう。また、ここでこの作品が位置する見開き(2)のイラストに付された「20160706」と、見開き(1)に付された「20160707」のあいだの、進行と逆行する日付が意味深に立ち上がってくることも指摘しておく必要があります。とはいえ、見開き(1)と(2)の作品に書かれた作品群は、見開き(2)の最後の作品に描かれる場面が小説の作品における最初の場面に対応することを除けば、その他の作品は時系列的にバラバラな場面と対応しているうえに、見開き(1)において、すでに物語的な過程は丸ごと要約されているという感触があります。つまり、時間はここでさらに小説の単線的な時系列と短歌の不確定な時系列、イラストの逆転した時系列の三つに、互いに呼応関係をもった時間は分裂しているわけです。こうして組まれた紙面の上で、私たちはそれぞれ別の時間に位置する文章・イラストを参照しながら、そのつどの共鳴および異種の視点を見つけていくことになります。

 さて、ここまで見てきた「愛たいとれいん」の構成は、単なる「小説から引き出された短歌」および「短歌から引き出された小説」としてはとうてい位置付けられない、複雑な企みに満ちています。その複雑さは語句や構文の難解さ、詩的な言語の介入によるものというよりも、異なる回路をもった複数の文章による、互いに異なったかたちでの変奏・展開において、プリズムのように世界認識や時間、人称を乱反射させることで成立しているものです。そしてなにより、複雑さは見かけの文章の内部というよりも、複数の回路をもった文章をまたがるように読み、そのつどの記憶によって各々の細部を共鳴させる、読み手としての私たちの認識の側で立ち上がるものです。つまり、今回の連作が目指す新しさは、短歌に書かれた私ではなく、短歌を読む私(を巻き込む、作品の配置)に対して向けられているといえるでしょう。

短歌時評第123回 武田穂佳の顔、山階基の表情-「ユリイカ」、第五十九回短歌研究新人賞を中心に 田丸 まひる

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 「ユリイカ」2016年8月号の特集「あたらしい短歌、ここにあります」はインタビューや評論が特に面白く、石川美南+山田航の「あたらしい短歌のキーワード15」なども新鮮な気持ちで読んだが、とりわけ詩人の最果タヒと穂村弘の対談、枡野浩一と佐々木あららの対話が刺激的だった。なかでも2014年の石井僚一の第五十七回短歌研究新人賞の際にも議論になった、いわゆる「私性」に関する穂村と枡野の意見を興味深く読んだ。
 最果と穂村の対談では、最果が〈やっぱり歌人が書くものって生活につながっているものなんですか?〉と穂村に問いかけると、穂村が〈近代以降、そういうことにしたんだよね。“人生日記帳”みたいな〉(もちろんそれが嫌だという意見についても書かれている)〈“人生日記”みたいなシステムを採用したために、短歌人口は増えた〉〈自分の着ぐるみを着て動いてる、みたいな感じ〉と答えている。
 また、最果が作者の背景を教えられるのが嫌いだと表明しながらも〈でも短歌は、その歌人が好きで読むっていう感じが強いです。この人がこれを書いているという事実が意味を持ってしまう。それはあまり好きではない読み方なんですけど、そうなってしまうパワーのようなものが短歌にはありますよね〉と話すことや、穂村の〈「私性」という言い方をするんだけど、短歌はその作者の重力がより強い。若いときにはもっと軽く晴れやかな気持ちで、言葉はそういう地上の重力から切れているって思っていたのに、歳を取るとそれに反する体験ばっかりで〉〈表現のための専用ツールである音楽や踊りだったら、現実の出来事からもっと独立した強さを持ち得るんじゃないか。でも、言葉は短歌や詩の専用ツールじゃなくて、いわば兼用ツールだから、必ず意味の汚染を受けてしまう。逆に、現実から完全に隔てられないことがおもしろいって思うこともできるのかなあ〉などの発言の持つ意味を考えると興味深い。作品と作者の軽やかに切り離された関係をよしとしていた穂村が、歳を取るにつれて考えを変えていったような、最果が「この人がこれを書いているという事実が意味を持ってしまう」と表現したような、短歌が持ち得る「パワー」とは何だろうか。
 同じく、穂村とほぼ同年代(6歳差)の枡野にも佐々木との対話のなかで〈短歌って結局「人生こみ」じゃない。「誰が言ってるか」が問われるジャンル〉という発言をみとめる。穂村と同様に、〈最初は僕も「誰が言ってるか」が問われることに疑問があって「匿名性」への希望があった〉としながらも〈穂村さんが指摘したように、たまたま始まった「主人公=作者」っていう読まれ方がとても通用しやすかったからそれが主流になってしまったんだと、僕も思っているし、僕自身はそうじゃない短歌をつくってきたつもりだったんだけれども、でもそこで「私と主人公は違うんです」「これは私の経験談ではないんです」ってすべての短歌に貼っておくことはできないわけじゃない?〉と話すのだ。
 穂村、枡野の意見に賛同できるところも多いが、それでもなお、石井の作品をきっかけに引き起こされた議論のことを考えれば、比較的若い層から出された「作者と作品は別のもの」という主張に託された思いも無視することはできない。石井の作品は匿名で出された新人賞という場だったからこそより議論が紛糾したのだろうが、今年の新人賞はどうだろう。
 第五十九回短歌研究新人賞は武田穂佳「いつも明るい」、次席が山階基「長い合宿」に決まり、「短歌研究」2016年9月号に掲載されている。

  ストレートパーマを君があてたから春が途中で新しくなる  武田穂佳「いつも明るい」

  あの夏と呼ぶ夏になると悟りつつ教室の窓が光を通す

  放課後の夏服ひかり満ち満ちていつかあなたの死ぬ日がいやだ

  こんなにもりんごゼリーは透き通る いじめの順番回ってきた日

  わたしがわたしを守ってあげる シャーペンの芯を多めに詰める

 武田作品は「いつも明るい」というタイトル通り、テーマとしている学生生活の一瞬のきらめきのようなものを描きながらも、「いじめの順番」が回ってくる日をりんごゼリーの透明さに繊細に託すなど、明るいだけではない思春期を丁寧に切り取っている。
 季節は自然に移り変わっていくものだが、「ストレートパーマを君があてた」という目の前で触れられそうな世界で、しかし作中の主体にとっては重要な理由で春が更新されるという把握が面白い。「途中で」という表現にも実感がわく。「あの夏」は選評で穂村弘が〈よく、「たった一度の十七歳の夏」とか言うけれど、「たった一度の五十四歳の夏」とは言わないわけで、経験上、五十代などに比べると、十六歳、十七歳、十八歳の一年ごとの命の変化は大きい〉と述べているように、ただ一度の思い出になる予感を引き起こす。小野茂樹の「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」の歌のような世界も立ち上がってくるだろうか。
 また、あくまでも世界は「君」や「あなた」と一緒に過ごす教室、(両親が描かれておらず、また兄も不在のようだが)祖母や従姉妹のいる家族を中心に描かれ、手の届く範囲であることも特徴的だ。選評で加藤治郎が「家族の不在」について指摘しており、そのあたりの説明がやや中途半端で作品世界に入り込めない部分もあるが、概ね分かりやすく共感しやすい連作だと言える。ただきらきらしているだけではなく、タイトルとなった歌に「好きだって思ったものを信じてる わたしの道はいつも明るい」とあるように、「いつも明るい」とわざわざ強調している作品の世界は、今後歌の数が増えればより深みが増していくのかもしれない。
 さて、武田作品では「特別になりたし紺の制服の下に真白のワンピース着る」「桃色の歯茎に透けた親知らず わたし明日で十七になる」などの歌で、「十六歳の女子学生」(もちろんワンピースを着る男子学生であるという可能性は捨てきれない)という設定が表明されており、応募時には匿名ではあるが「匿名性」は乏しく、思春期の少女の顔が浮かび上がる。
 一方、次席の山階作品では、年齢性別にたどり着く手がかりが、丁寧に消されている。

  今のまま生きるのがしんどいどうし都会に部屋を借りようなんて  山階基「長い合宿」

  ともだちと住む生活の想像はできていますか。父は問うだけ

  恋人でも家族でもない半裸だなルーム・シェアは長い合宿

  木造は感じがいいね また地震きたら死ぬかね ふたりで かもね

  湯上がりのくせを言われてはずかしい今のところはもめごとがない

 読者を混乱させるような歌はなく、実家を出て「恋人でも家族でもない」「ともだち」と都会でルーム・シェアをし始めたという連作だと分かる。「生きるのがしんどいどうし」の句跨りの韻律の絶妙な重さや、父の問いかけにおける主体との距離感などが面白い。一緒に暮らし始めたばかりにも関わらず「死ぬかね」(死ぬかな、ではないのだ)と言える不思議な連帯感にも心惹かれる。
 さて、選評で加藤が〈このルームメイトはどこで知り合ったかもわからないし、まずもって男性なのか女性なのかもわからない。普通は女性同士ということになると思うんですけど〉(この時点で加藤は作中の主体を女性だと仮定している。余談だが国土交通省の調査ではシェアハウス入居者の男女比は平成23年、平成25年においてほぼ5割ずつで均衡している)、〈一番肝心な人物の姿を抽象化してわからないようにしているのも作品の一つの方法として巧い〉と述べていることについて、その通りだと思うが、そもそも作中の主体が男性なのか女性なのかも巧妙に隠されていないだろうか。連作中に一人称が出てくるのは唯一「うちを出る? はてなを顔にしたような母よあなたに似たわたしだよ」の歌だけであり、この「わたし」で性を判断することはできない。「半裸」についても「湯上がりのくせを言われてはずかしい」についても、少しくすぐったいような関係は男性同士でも女性同士でもあり得るし、半裸の程度によっては(いやよらなくても)男女の組み合わせでもそれほど違和感はない。そもそも性的指向も表明されていない。
 山階は意図的に主体やルームメイトの「顔」を消して、主要な人物像においては、共同生活を手探りで始めた主体の「表情」のみで作品を構築しているのではないだろうか。しかし、名前がなければ「誰が言ってるのか」霧の中のようだが、友人とルーム・シェアを始めたある程度若い主体だと想像しうることを考えれば、「匿名性」は薄いのかもしれない。
 武田や山階の作品が、「現実から完全に隔てられて」いるかどうかという観点でみれば、経験談かどうかは別にしても、作品の中でただひとりの顔なり表情なりが浮かび上がってくる時点で「“人生日記”みたいなシステム」からは切り離せないもののように見える。そのことと作品の評価は別の次元の話だが、(空想的な例えで申し訳ないが)作者の養分を根から吸いあげて咲いた花が作品だとしたら、やはり作者と作品は逃れられない関係なんだろうか。かつて岡井隆が『現代短歌入門』において〈短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです。〉と述べたが、ここに尽きるのだろうか。
 あたらしい作品は次々と生まれてくる。短歌の「私性」の議論についても、いずれかの作品や何らかの事象や事件によってさらに何周もめぐって深くなっていくのだろう。なんにせよ、「私」の立ち位置、自分の「私性」を考えながら作品を編み続けるしかないのだが……。


#略歴
田丸まひる(たまるまひる)@MahiruTamaru
1983年生まれ。未来短歌会所属。「七曜」同人。短歌ユニット「ぺんぎんぱんつ」の妹。歌集『晴れのち神様』『硝子のボレット』
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