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Channel: 「詩客」短歌時評
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短歌時評204回 塚本邦雄没後20年に寄せて 桑原 憂太郎

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 今年(2025年)は、塚本邦雄の没後20年のメモリアルイヤーである。
 これから、短歌総合誌をはじめとして、さまざまなところで、塚本邦雄の歌業を振り返る特集やイベントが組まれる、と思う。
 2024年には、書肆侃侃房から尾崎まゆみ編『塚本邦雄歌集』が出版された。こちらは、『水葬物語』『日本人靈歌』を完本で収録。巻末の年譜も詳しい。1600首も収録されているから、お手軽とはいえないかもしれないが、塚本の膨大な作品群からすれば、実によくまとまっていよう。これを手に、メモリアルイヤーを闊歩していくといい。

 塚本の60年に及ぶ長く膨大な歌業を、たった一言で言い表すならば、「反写実」ということに尽きよう。それは、第二芸術論への実践的な反証としてのアンチであり、明治から続いた近代短歌へのアンチでもあった。
 そして、そのアンチを生涯貫いたところに、塚本の「反写実」性があった。かつて岡井隆は、塚本を「反写実の鬼」と称したが(初出は「東京新聞」2005年6月14日付)、生涯「反写実」を貫き通した点も、塚本を「鬼」と称した理由のひとつといえよう。
 塚本の歌業は60年にわたるから、どうしても前衛短歌とくくられる活動初期の革命的な「反写実」性についてだけ論じられる傾向にあるが、今回のメモリアルでは、塚本の作風を包括的に論じた議論もなされることに期待したい。そうした議論のなかで、改めて、塚本の「反写実」性の評価がなされるものと思われる。
 筆者は、塚本の「反写実」性を論じるとき、前者の第二芸術論へ対する実践的反証とするアンチの功績は認めるが、後者の近代短歌のアンチについては成功したとはいいがたい、と思っている。
すなわち、塚本が生涯にわたって鬼となって実践した「反写実」性の歌作というのは、いわば、短歌文芸が「写実」の呪縛からは逃れ得ない文芸であった、ということを、ひたすら証明したものであったと思うのだ。短歌文芸は「写実」の呪縛からは逃れられない、ということ。この点を明らかにしたことこそ、逆説的ながら塚本の功績と考えている。
 この筆者の主張に反論があるのであれば、試しに、皆さんの手元にある、短歌雑誌でも結社誌でもアンソロジーでも何でもいいから開いてみたらいい。果たして、そこにある短歌作品は、どんなものか。
 その多くは、自分の日常に取材した、「写実」的な作品ばかりではないだろうか。塚本のような、近代短歌のアンチ作品はいかほどか。つまり、短歌文芸は、明治から令和の現代にいたるまで「写実」作品が連綿と続いているのだ。どんなに塚本が「反写実」作品を作り続けたとしても、いまだに、短歌文芸は、自分の身の回りに取材をし、見たものをそのまま叙述するという近代短歌の流儀によっている作品が主流なのである。

 塚本がその生涯をもって、短歌文芸は「写実」性の文芸である、ということをひたすら証明したのだとしても、作品の「私性」についていえば、塚本の「反写実」性の出現というのは、短歌文芸の世界に大きな転回をもたらした、ということはいっておきたい。大げさにいえば、それは、コペルニクス的転回とでもいえるものだった。
 すなわち、<わたし=作者>の「私性」から、<わたし≠作者>の「私性」への転回だ。
 作品のなかの<わたし>は、<作者>ではない、ということを明確にしたのが塚本の「反写実」による「私性」だった。
 この転回によって、短歌の世界は明治から連綿と続く、和製「自然主義」文学からやっと脱皮が可能となったのだ、というのが筆者の見立てだ。
 ただし、急いで付け加えるならば、いまだ和製「自然主義」で安住している作品も多くある。だって、その方が楽だから。つまり<わたし=作者>で作品を叙述するほうが大方の作者にとっては楽チンなのだ。
 けれど、時代は流れる。
 ここでいう時代というのは、大きくいえば、わが国の社会の個人主義の浸透とか、小さくいえば、短歌の世界の完全口語化の流れとか、そういうものだけど、そうした時代の流れによって、「自然主義」に寄りかかった短歌作品はだんだんと減っていくだろうというのが、筆者の予想だ。

 それはともかく、<わたし≠作者>の「私性」の出現によって、短歌作品は、必然的に「テクスト分析」の手法による「読み」を余儀なくされるようになっていった。
 何をいっているのか、というと、こういうことだ。

革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつしてゆくピアノ

 塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』の巻頭歌にして、塚本の代表歌。この作品が、「私性」の転回であり、「反写実」短歌の実践の端緒だ。
 この作品、これまでの近代短歌の「写実」による「わたし=作者」の「読み」では、どうしたって読めない。
 塚本邦雄という<作者>は、作品には存在していないし、少しずつ液化していくピアノなんてのは、この世に存在するわけがない。つまり、これは幻想の世界、あるいは超現実の世界の叙述ということ。つまりは、虚構(フィクション)なのだ。
 じゃあ、だんだんと液化していくピアノをみているのは誰か。というと、これは、小説世界では作中人物とか主人公とかいうことになるだろう。しかし、短歌の世界は、それまで、作中人物とか主人公とかを持ち出して、作品を「読む」なんてことはしなかった。だって、そんな呼称がなくても、作品を「読む」ことができたから、そもそも必要がなかったのだ。短歌の世界では、こうした作中人物や主人公のことを80年代以降は「主体」と呼ぶのが一般的になっていよう。
 塚本のこうした作品は、これまでの「わたし=作者」の「読み」では読めなかったから、ややしばらく批評の場には載らなかった。
 こののち、短歌雑誌の編集者などの理解もあり、塚本作品は、これまでの短歌作品とは毛色を異にする、すなわち「前衛短歌」として認められるのだけど、そのときに必要なのが、「わたし≠作者」の「読み」だった。
 つまり、だんだんと液化していくピアノという状況を叙述しているのは<作者>には違いないが、その場に居合わせている<わたし>は、<作者>ではなくて<主体>である、という「読み」だ。
 この「わたし≠作者」の「読み」によって、例えば、「革命」という言葉の持つコノテーションとか、あるいは、ピアノが液化していくという喩性とか、あるいは、句割れ句跨りによる韻律の革新とか、あるいは、超現実主義思想の短詩型文芸への導入とか、そういうテクストを解釈することによって、この作品は理解されたのである。
 このようにして、塚本による前衛短歌は、「わたし≠作者」という「読み」によって、短歌の世界に新しいステージをもたらしたのだ。

 しかしながら、そうした「わたし≠作者」による「読み」というコペルニクス的転回をもたらした塚本作品なのに、どうしたわけか「わたし=作者」の影を見出そうとする「読み」も存在する。
 それは、次の作品に代表される「読み」だ。

五月祭の汗の靑年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる 『裝飾樂句』

 この作品が提出された当時、塚本は結核のために療養しており、この作品の「病むわれ」というのは塚本であり、塚本の心象を作品にしたものだ、というように解釈する「読み」だ。つまり、「わたし=作者」の従来の近代短歌の「読み」に基づいているといっていいだろう。
 筆者は、こうした「読み」に出会うとき、短歌の「自然主義」文学からの呪縛をみる。どうしたって「わたし=作者」とする心性から、短歌ってのは逃れられないのだな、と思う。近代短歌のアンチである塚本の作品を、近代短歌の「読み」で解釈しようとする。実に、滑稽なことだとも思う。
 はたして、塚本の没後20年たった今年、こうした「読み」がいまだなされるのか、そんなところにも注目するといいのではないか、と思う。

 塚本の作品はどうしたって難解だから、その喩法(メタファーやらコノテーションやらアレゴリーやら)や技法(句切れやら句跨りやら縁語やら序詞やら)について、それなりの素養がないと、作品の解釈ができない。読んだところで、作品に秘められた意図がわからない、ということになる。そこで、先達の解説書を片手に作品の意図を理解していこうとする。
 そんな解説書を片手にしての作品理解というのは、作品の韻律を味わい叙情にひたるという、ごくごく普通の作品鑑賞、というよりは、作品に隠された手の内を探り当てるという、いわば謎解きのような思考で作品を愉しむということに近い。
 つまり、謎解きのヒント集が解説書であって、そのなかでも、なんというか、そんな作品の手の内を鮮やかに明かしているかのような解説を読むと、読者としては、ああそういうことかとモヤモヤ感から解放されてスカッとする、いうことになる。目からうろこがおちる、といってもいいかもしれない。
 たとえば、この作品と解説がそうではないか。

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 『日本人靈歌』
 
 この作品を解説書なしに理解することはほぼ不可能だ。
 一体、この作品は、何を言っているか。作品の隠された意図は何か。
 そこで、菱川善夫の解説の力を借りてみる。
 菱川は言う。

 すなわち、この一首の解読にとって、もっとも重要な鍵となっているのが、「皇帝ペンギン」と「皇帝ペンギン飼育係り」である。このイメージは、いったい何をわれわれに暗示するだろう。その読み取り方によって、作品の世界は大きく変化する。あの黒い燕尾服を着て、手を垂れて佇っている「皇帝ペンギン」は、象徴天皇制の中で飼われている猫背のエンペラー、すなわち天皇ヒロヒトの存在を、われわれに強く想起させるイメージではあるまいか。「皇帝ペンギン」が、天皇ヒロヒトの喩であるなら、「皇帝ペンギン飼育係り」は、当然、主権者となって彼を飼育する日本国民の喩に転化する。(菱川善夫「前衛短歌の収穫Ⅰ」『歌のありか』所収)

 この菱川の「読み」は、明確だ。
 そうか、皇帝ペンギンてのは、昭和天皇のことだったのか。
 短歌ってのは、そんなところまで表現できる文芸なんだなあ、と、目からうろこ状態になるわけだ。
 けど、21世紀の塚本も菱川もこの世にいなくなった現在、こうした「読み」を再読しても、やはり、そこまでテクストからは読めないだろうと筆者は思う。
どう読んでも、皇帝ペンギンを昭和天皇に喩えている、というのは、テクストからは無理がある。もし、そうだと塚本が主張したのであれば(主張していないけど)、それは、出来の悪いミステリ作家の戯言と変わらないと思う。
 たとえば、三省堂「現代短歌大辞典」のこの作品の項で、坂井修一は次のように解説する。

「日本脱出したし」と切り出し、一字あけに続き、残り全部を使ってその主語を述べる、という大胆な作りである。句またがりが三箇所にあり、かたくたたみかけるリズムをこしらえている。「皇帝ペンギン」も「皇帝ペンギン飼育係り」も日本を脱出したい、というが、できないことは明らかであり、その願いが切実なものであればあるほど、彼らは、不本意な日常を自覚する。それゆえに、彼らは戯画の登場人物となってしまう。「皇帝ペンギン」の白黒に黄色の混じったあざやかな視覚的イメージや、独特の言葉のイメージは、ここで効果的である。「皇帝ペンギン」を天皇ととらえ、「飼育係」に日本の国民とみる読みが、菱川によって示された。それも含めて、この歌からは、当時の日本社会の構造全体を戯画化して皮肉ろうとする姿勢を受けとめるべきだろう。(三省堂「現代短歌辞典」)

 テクスト分析にもとづいた、実にバランスの良い解説だと思う。辞典である以上、菱川の言説にも後半は触れつつも、これを全て肯定しているわけではないところが、この解説のバランス感覚のすぐれたところだ。
 こうした、誠実なテクスト分析が、これからも、塚本作品でなされるかどうか、そういったところも、現在の短歌の世界の「読み」の成熟度をはかる指標といえるだろう。

 そういうわけで、今年の塚本邦雄のメモリアルを楽しみにしていこう。


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